« 2012年5月20日 - 2012年5月26日 | トップページ | 2012年6月3日 - 2012年6月9日 »

2012年5月27日 - 2012年6月2日

2012年6月 1日 (金)

迫り来る世界経済危機の本質

 2009年のアメリカ金融危機に始まり、日本経済の低迷、ヨーロッパの金融危機と失業率の増大がその規模を拡大しつつある世界経済危機は、やがてさらにドラスティックな形で現れるに違いない。1930年代の世界恐慌を上回る危機になるかもしれないのだ。

 資本主義社会ではとうの昔に過剰となっている資本が、その圧迫から逃れるために労働者階級に過剰消費を強いることで見かけ上の繁栄や「経済成長」を続けてきたが、ついにそれが馬脚を現したということであろう。

 見かけ上の労働賃金を高くして、「所得」(労働賃金は資本家に価値を提供する労働者が生存できるために必要な資本家の可変資本部分であって労働者にとっては決して所得ではない)を増やし、いわゆる「可処分所得」(奢侈品的生活用品と引き換えに資本家に支払われるためあらかじめ上乗せされた賃金部分)を家電製品や自動車などのような奢侈品化した生活用品の購買に向けさせ、それによってそれらの奢侈品化した生活用品を生産する企業やその売り込みのための宣伝広告を行う企業などが利益を上げ、社会全体としての雇用(労働力の資本への奉仕)と資本を拡大させてきたのであるが、資本家的視点で言えば、これが「経済成長」なのである。

 いま、世界中の産業資本家たちが労働賃金の安い国々に生産拠点を移し、それらの国々の労働者から搾取した莫大な利潤は、資本の回転を通して資本家階級にそれらの利潤を分配させながら、「グローバル資本」として世界金融市場を中心に回転している。もともと労働者階級が生み出したそれらの莫大な富は、決して彼らに還流することはなく、先行き利益が見込まれる「起業家」に投資されたり、投機的思惑で売り買いされる過剰流動資本となって、世界中を駆け巡っているのだ。

 一方で、「先進」資本主義諸国では、生産的労働によって価値を生み出す「ものづくり」労働者が減り、その代わり、自ら価値を生み出すことなく、富裕層が使い道に困っている貯蓄や労働者階級が老後のために苦労して積み立ててきたわずかな貯蓄を吸い上げるためのレジャー、娯楽、趣味など寄生的産業資本が大きな比率となり、さらにあらゆる資本の頂点にあって過剰流動資本を右から左へと動かすことで莫大な利益を上げる金融資本が経済の中心に座る様になった。資本主義社会はこのような形でかなり前から腐朽段階に入りいまや腐臭ふんぷんたる有様である。

 これら腐朽化した資本主義国の政府は、自国の資本家階級が国際競争の中で、利益を上げることが難しくなってくると、そこから得られる税収が減り、社会的・公共的な事業(社会保障・福祉や医療・教育など)に「公的資金」を使うことができなくなりつつあるので、資本主義国どうしがその国債をたがいに持ち合うことで、先もの的(根無し草的)資金を融通し合ったり、労働者階級に一律に増税することによって、その不足分を補おうとする。日本での「社会保障と税制の一体改革」の内実もまさにこれである。

 腐朽化した資本主義国の政府はこの社会的危機に「経済成長か、さもなくば増税か」という選択肢しか思いつかないのである。ただでさえ労働者階級から吸い上げた剰余価値による富が私的企業の利益となり、その私的企業にとっての共有財的な形の金融資本を運営する企業が資本家的経済の命運を握っているというのに、その金融資本企業が経営難になれば、それをわれわれの生活費から税金として吸い上げた「公的資金」によって支え「国有化」するなどまったく許しがたいことである。

 問題は、本来、社会のために働く人々の社会的な共有財として社会保障や医療福祉など公共的支出として蓄積されねばならない社会的富を、私的企業がそれぞれ所有し、市場での互いの利益獲得競争に勝つために投じている現実を根本的に改めねばならないときに、資本家代表政府もマスコミもその事実を覆い隠し、労働者階級もそれに気づかされずにいるということだ。

 もはや、地球を食いつぶしながら利益獲得競争を繰り返す資本家階級のために毎日働くのではなく、我々自身の社会と生活を築くために働くべきであることは明らかではないか!

 きたるべき世界経済危機は、まさに資本家階級にとっての危機なのであり、資本家階級に生活基盤を支配されている以上、経済的混乱はわれわれにとっても深刻な影響を及ぼすではあろうが、同時にわれわれは、それをあらたな本来あるべき社会の実現へのきっかけと成すべきであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年5月27日 (日)

ハンセン病の詩人桜井哲夫氏と画家木下晋の世界

 さきほどNHKの美術番組で、画家木下晋の世界を放映していた。木下は、細密な鉛筆画で、年老いた皺だらけの母の裸像などを描いて独特な世界を表現する画家である。木下は、あるときハンセン病で何十年も療養所の中で孤独な生活をしながら、口述筆記で詩を書いてきた詩人、桜井哲夫を知った。そして何度もことわられながら、ねばり続けて、一緒に食事をし、口が歪んで食事中に入れ歯が外れてしまう桜井の食事を両手がぐしゃぐしゃになりながら手伝ったりしすることで、とうとう桜井の許しを得ることができ、桜井の肖像を描き始めた。桜井の顔は、病気の後遺症で崩れ、両目も失明し、崩れた顔面の中に埋もれ、鼻もなくなり、とても人間の顔とは思えないような表情であった。

 木下はこれを鉛筆で細密に表現した。その絵は、現実のそれよりもさらにリアルな表情である。初めて見ると、恐ろしくなって目を背けたくなる様な絵であるが、それとともにこれほど暗く、底知れぬ孤独な世界があるのかと思い知らされる様な絵である。しかし、この絵をじっと見ていると木下がいかに桜井の生き様と彼の詩に共感を抱いているのかが分かってくる。

 木下は少年時代から一家離散と貧乏暮らしの孤独な人生の中で、絵を画くことによって生きる意味を問い続けてきた。彼の「アトリエ」は、狭い公団住宅の雑然とした居間の一角にあるあまり広くもない壁面である。彼はそこにベニア板を当てて紙を貼り、鉛筆画を描いている。

 番組では、木下の作品について、宗教学者の山折哲雄氏が解説していたが、そんな解説よりもこの作品自体が表現するものの方がはるかにすさまじいものであった。真の芸術作品というものは言葉をはるかに超えたものを表現するのである。ことばの芸術である詩でさえもそうである。

 桜井が亡くなる直前の肖像を描いた木下の作品では、木下が大震災で失った友のことを語ったときにそれを聞いて合掌した桜井の姿が描かれている。病で崩れてなくなってしまった両手の指先から淡い光が漏れている。

 この二人の生き方に比べれば、私の人生などなんとちっぽけで浅薄なものであったかと思い知らされる。木下の作品を宗教学者の山折は、混沌としたいまの世界で絶望している人たちに、なにかしら希望を与えてくれるような絵である、と説明していたが、私は、そんな山折の解説よりもはるかに深い「何か」をこの絵から感じ取った。それは言葉にすることはできないが、敢えて言うならば、どん底まで落ちて「希望」などという言葉すら、うさんくさくなってしまった人々にとって、なおかつ何かしら生きる意味が感じられる瞬間があるのは、宗教的な「救い」を超えた、生命の存在の意味そのものなのではないのだろうかと思うのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年5月20日 - 2012年5月26日 | トップページ | 2012年6月3日 - 2012年6月9日 »