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2012年6月10日 - 2012年6月16日

2012年6月16日 (土)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(3)

前回のブログで私はひとつおおきな間違いをしていました、英語版資本論では、Use values become a reality only by use or consumption: they also constitute the substance of all wealth, whatever may be the social form of that wealth. In the form of society we are about to consider, they are, in addition, the material depositories of exchange value.となっている箇所でdepositories of exchange valueとなっていますので、宮崎訳の「保管物」が正解です。これは誤変換ではありませんでした。私の早とちりです。mizzさんごめんなさい。

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マルクスの価値論めぐるディスカッション(2)

 mizzさん、早速のコメントありがとうございました。確かに、前回ブログで紹介したI氏の論文における資本論第1編第1章からの引用と、mizzさん訳の英語版資本論での同じ箇所の表現がかなり違いますね。ちなみに、mizzさんがあとから追加されたコメントの悪名高き向坂逸郎訳のドイツ語板ではその前後で次の様になっています「一つの物の有用性(すなわち、いかなる種類かの人間の欲望を充足させる物の属性ーカウツキー版)は、この物を使用価値にする。しかしながら、この有用性は空中に浮かんでいるのではない。それは、商品体の属性によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄、小麦、ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨である。このような商品体の性格は、その有効属性を取得することが、人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによって決まるのではない。使用価値を考察するに際しては、つねに、1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄等々というように、それらの確定した量が前提とされる。商品の使用価値は特別の学科である商品学の材料となる。使用価値は使用または消費によってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれがこれから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時にー交換価値の素材的な担い手をなしている」(資本論、向坂逸郎訳、岩波書店板、p46)そしてその元になったドイツ語原典では次の様になっています。

 Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert (4). Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw., ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren, Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Die Gebrauchswerte der Waren liefern das Material einer eignen Disziplin, der Warenkunde (5). Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des - Tauschwerts.

 これは次のサイトから見ることができます。

http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_000.htm

 私はドイツ語が不得手なのできちんと訳はできませんので、どなたかドイツ語の堪能な方に訳していただければ幸いですが、どうもドイツ語の表現はそのままでは英語表現しにくい言葉や概念が多いようで、役者も苦労するところだと思われます。使用価値はドイツ語ではGebrauchswertという表現ですが、英語ではuse valueです。そしてmizzさんがいま日本語訳に取り組んでいる英語版(Samuel Moore and Edward Aveling訳)ではこうなっている。

 The utility of a thing makes it a use value.[4] But this utility is not a thing of air. Being limited by the physical properties of the commodity, it has no existence apart from that commodity. A commodity, such as iron, corn, or a diamond, is therefore, so far as it is a material thing, a use value, something useful. This property of a commodity is independent of the amount of labour required to appropriate its useful qualities. When treating of use value, we always assume to be dealing with definite quantities, such as dozens of watches, yards of linen, or tons of iron. The use values of commodities furnish the material for a special study, that of the commercial knowledge of commodities.[5] Use values become a reality only by use or consumption: they also constitute the substance of all wealth, whatever may be the social form of that wealth. In the form of society we are about to consider, they are, in addition, the material depositories of exchange value.

 これは次のサイトから見ることができます。

http://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/

 問題の箇所をドイツ語原典、その向坂逸郎による日本語訳、サミュエル・ムーアの英語版、その宮崎恭一氏による日本語訳をそれぞれ並記してみるとこうなる。

Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des - Tauschwerts.

使用価値は使用または消費によってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれがこれから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時にー交換価値の素材的な担い手をなしている。

Use values become a reality only by use or consumption: they also constitute the substance of all wealth, whatever may be the social form of that wealth. In the form of society we are about to consider, they are, in addition, the material depositories of exchange value.

使用価値は、使用や消費においてのみ、実現する。また、富の実体となる。それがいかなる社会的な富であろうともである。現資本主義社会においては、その富がさらに加えて、交換価値の保管物(補完物の誤変換?)であるということが、我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。

 この訳は次のサイトから見ることができます。

http://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter01/index.htm

 宮崎訳は英語版の"in addition"を正確に訳しているにもかかわらず、どうもドイツ語原典とムーアの英語版のあいだに微妙な違いがある様だ。この辺はマルクスが資本論で駆使している弁証法的論理展開による記述がうまく英語では表現できないからではないかと考えてしまう。

 例えば、使用価値が交換価値の補完物なのか?それとも使用価値でありながら同時に交換価値でもあるのか、ということはそれに関わることのように思える。ひとつのものが同時に相反する形で現れるということ、そしてそれを可能にさせている社会的土台が資本主義社会なのだと思うが。

 みなさんのご意見をうかがいたいところです。

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2012年6月15日 (金)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(1)

HIROさん

 貴重なコメントをありがとうございました。早速ご紹介いただいた下記のサイトにあるI氏の論文「マルクス価値論における使用価値捨象の誤謬」を読ませて頂きました。

http://www12.plala.or.jp/iwabayas/kachiron.pdf

 これに対する私の感想(批判)は以下のファイルから読むことができます。

http://pga00374.cocolog-nifty.com/noguchires.pdf

 少し厳しい批判だったかもしれませんが、やはりマルクスの言わんとしていたことをきちんと理解することから始めるべきだと思いますので敢えてこのようなことを書きました。

 私もマルクスの価値論をもう一度読み直しています。マルクスの思考水準までは到底及ばないにせよ、それを正しく理解することは努力すれば誰にでも可能だと信じています。資本論が難解だからとあきらめてしまえば、もうそこでマルクスの考えていた資本主義以後の社会への一歩を踏み出せないことになるでしょう。

 それには互いに批判し合う中で、それぞれの誤解や無理解に気づき、少しずつでも歴史の真実に近づけることが必要だと思います。

 私のこのブログで書いていることにも、ビシバシ厳しい批判をしてください。より深い認識はディスカッションからしか生まれてきません。

野口

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2012年6月12日 (火)

またまた資本論を読み直す

 このところ、世界で起きているさまざまな出来事をニュースなどで見るとともに、現在われわれが置かれている状況をどのように判断してようにかをいろいろ考え続けている。そのときの判断の基礎には私が若い頃学生運動に加担したかどで10年以上も干されていた大学の研究室で読んだマルクスの「賃労働と資本」、「経済学哲学手稿」、「ドイツイデオロギー」などと、資本論を理解する手助けに読んだ宇野弘蔵の「経済原論」、「価値論」、「恐慌論」、「経済学の方法」、など、そしてそれらを手がかりに苦労しながら読み始めた「資本論」(例の向坂逸郎訳の岩波版)、といった文献から吸収した知識や思想が土台となっている。

 しかし、「資本論」は、結局第2巻まで読んだものの、第3巻はほとんど拾い読み程度しかしていない。宇野の「経済原論」でだいたいその内容が推測できたのでそれでよしとしてしまったような状態だった。正直言って途中で疲れてしまったのだ。そしてその頃から再びデザイン論研究に復帰することになったため、研究の重心がそちらに移ってしまったため、そのままになっていた。

 だが、大学をリタイアして読書と研究の時間が戻ってきたいま、自分のこうしたマルクス経済学の知識への生半可な不十分さが、大問題であると感じ始めた。それは、マルクス以後の資本主義社会の歴史的展開を見据えて、現在の資本主義社会を理解しようとして、これも若い頃に読んだ、レーニンの「帝国主義論」や大内力の「国家独占資本主義」などという本よっている自分の現代資本主義社会への知識や理解が、そろそろもっと先に行かねばならないことを感じ始めたからだ。ひさびさに赤鉛筆で傍線がびっしり入った「経済原論」や「価値論」、「国家独占資本主義」などの文献を再読しながら、そこから当時見過ごしていたことを発見し、学ぶことが多く見つかったと同時に、これらの主として1970年代の文献からだけではもはや歴史的現在を十分理解しきれないような気がしてきたのだ。もはや地球上からいわゆる社会主義経済圏は消滅し、世界は資本主義社会が完全に支配を復権したかのように見える。そしてそこで起きつつある危機がどのような危機であるのかを生き残ったマルクス経済学者たちも含めてだれも正確には理解できておらず、もちろん私の理解もはるかに超えた状況があるからだ。

 そこで私は最新流行の思想書に食いつく代わりに、再びマルクスの原典に向かうことにした。もちろん私はどこかの先生の様に資本論の解説者になるつもりはなく、また教条的なエバンジェリストなどになるつもりなどさらさらない。ただ、マルクスが真実を求めて七転八倒しながら未完のまま残した資本論からどのような現在に通じる真理を汲み取ることができるかを探りたいからである。

 これからときどきこのブログでその成果(?)を記録し続けていくことにしようと思う。

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