マルクスの価値論めぐるディスカッション(7)
mizzさんのコメントで、私の前々回のブログの書き方が悪かったことを反省しています。ドイツ語版を訳した向坂版とムーアによる英語訳を和訳したmizzさん版の内容が違っていることについて指摘しただけで、中途半端であいまいな終わり方をしてしまいました。それは実は、新聞紙上で報じられているカルロス・ゴーンの話を早くブログに書きたくて、価値論の方を途中で切ったため、いっそうそうなったのだと思います。そこで、前々回のブロウで書き足りなかったことの続きをここに書きます。
区切り番号のことは了解しました。たしかにその方があとでどの部分か指摘するのがやりやすくなりますね。それから注の番号がずれている理由も了解しました。
そしてもっとも肝心なことは、向坂版での分かり難さの問題です。mizzさんが指摘されるように「重金主義の幻想はどこから来たか?重金主義は、金と銀とにたいして、それらのものが貨幣として一つの社会的生産関係を表しているが、特別の社会的属性をもった自然の形態で、これをなしているということを見なかった」という和訳はまったく意味不明といっても良いでしょう。mizzさんがこれを分かりやすく表現することに努力されていることは非常によく分かりますし、またそうすべきだと思います。
問題は、向坂逸郎が、ドイツ語版、英語版など標準的な原本と言われているものに複数目を通し、資本論をできるだけ原本に近い形で訳したいと思っていたにも拘らず、結果は惨憺たる難解さになっているということだと思います。
ここで私は資本論第2巻と第3巻のそれぞれ巻頭で、編纂者エンゲルスが書いた序文を読んで感じたこととの関連で上記の問題を次の様に考えました。
ご存知の様に、資本論はマルクス存命中には第1巻しか出版されませんでした。彼の死後、マルクスの娘エレノアの委託を受けて、エンゲルスが、まだ手稿の段階だった第2巻を苦労してまとめあげ、出版したのがマルクスの死後、2年後のことでした。そして続く第3巻は、バラバラなメモ書き程度の手稿をエンゲルスが苦労して繋ぎ合わせ、出版されたのは、実にマルクスの死後11年後のことだったようです。そしてエンゲルスは第2巻の序文のなかで次のように言っています。
「マルクスが第2冊のために残した、自筆の材料を数えてみるだけでも、彼がその偉大な経済学的諸発見を公表する前に、いかに比類なき誠実さをもって、いかに厳格な自己批判をもって、それらの発見を、究極の完成にまで仕上げることに努力したかがわかる。この自己批判のゆえにこそ、彼は、ただまれにしか、新たな研究によってたえず拡大される彼の視野に、叙述を内容的にも形式的にも適合させるまでには至り得なかったのである」(岩波版、第2巻 p2)
つまりマルクスは彼自身の思想の内容がどんどん広がって行くために、試行錯誤の繰り返しの中で、なんとか第1巻の原稿をまとめあげることができたのですが、資本論全体としては未完の書のままであるということです。
エンゲルスが資本論の原本を出版するにあたって、マルクスの表現を忠実に再現するよう努めたことは、まったく正しいことだったと思いますが、一方で、おそらくマルクスは彼の思想をできうる限り労働者階級の人々にも分かりやすい形で表現したかったであろうことも確かでしょう。しかし、おそらくそこまで行けなかったのだと思います。
それを思うと、原本をテキストとしてその内容を的確にそして分かりやすく読者のために訳すのが訳本をまとめる者の務めであろうかと思います。その意味でmizzさんの努力は正しいと思いますし、向坂氏の訳は、それをあまり意図していなかったと言われても仕方ないと思います。
難解な原本をただ忠実に訳すだけでは何年経ってもマルクスの意図が労働者階級に浸透しないだろうと思いますし、それにしてもマルクスの意図を内容的にねじ曲げないで、できるだけ分かりやすく述べるということの難しさは一筋縄では行かないとも感じています。
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