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2012年6月17日 - 2012年6月23日

2012年6月20日 (水)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(7)

 mizzさんのコメントで、私の前々回のブログの書き方が悪かったことを反省しています。ドイツ語版を訳した向坂版とムーアによる英語訳を和訳したmizzさん版の内容が違っていることについて指摘しただけで、中途半端であいまいな終わり方をしてしまいました。それは実は、新聞紙上で報じられているカルロス・ゴーンの話を早くブログに書きたくて、価値論の方を途中で切ったため、いっそうそうなったのだと思います。そこで、前々回のブロウで書き足りなかったことの続きをここに書きます。

 区切り番号のことは了解しました。たしかにその方があとでどの部分か指摘するのがやりやすくなりますね。それから注の番号がずれている理由も了解しました。

 そしてもっとも肝心なことは、向坂版での分かり難さの問題です。mizzさんが指摘されるように「重金主義の幻想はどこから来たか?重金主義は、金と銀とにたいして、それらのものが貨幣として一つの社会的生産関係を表しているが、特別の社会的属性をもった自然の形態で、これをなしているということを見なかった」という和訳はまったく意味不明といっても良いでしょう。mizzさんがこれを分かりやすく表現することに努力されていることは非常によく分かりますし、またそうすべきだと思います。

 問題は、向坂逸郎が、ドイツ語版、英語版など標準的な原本と言われているものに複数目を通し、資本論をできるだけ原本に近い形で訳したいと思っていたにも拘らず、結果は惨憺たる難解さになっているということだと思います。

 ここで私は資本論第2巻と第3巻のそれぞれ巻頭で、編纂者エンゲルスが書いた序文を読んで感じたこととの関連で上記の問題を次の様に考えました。

 ご存知の様に、資本論はマルクス存命中には第1巻しか出版されませんでした。彼の死後、マルクスの娘エレノアの委託を受けて、エンゲルスが、まだ手稿の段階だった第2巻を苦労してまとめあげ、出版したのがマルクスの死後、2年後のことでした。そして続く第3巻は、バラバラなメモ書き程度の手稿をエンゲルスが苦労して繋ぎ合わせ、出版されたのは、実にマルクスの死後11年後のことだったようです。そしてエンゲルスは第2巻の序文のなかで次のように言っています。

「マルクスが第2冊のために残した、自筆の材料を数えてみるだけでも、彼がその偉大な経済学的諸発見を公表する前に、いかに比類なき誠実さをもって、いかに厳格な自己批判をもって、それらの発見を、究極の完成にまで仕上げることに努力したかがわかる。この自己批判のゆえにこそ、彼は、ただまれにしか、新たな研究によってたえず拡大される彼の視野に、叙述を内容的にも形式的にも適合させるまでには至り得なかったのである」(岩波版、第2巻 p2)

 つまりマルクスは彼自身の思想の内容がどんどん広がって行くために、試行錯誤の繰り返しの中で、なんとか第1巻の原稿をまとめあげることができたのですが、資本論全体としては未完の書のままであるということです。

 エンゲルスが資本論の原本を出版するにあたって、マルクスの表現を忠実に再現するよう努めたことは、まったく正しいことだったと思いますが、一方で、おそらくマルクスは彼の思想をできうる限り労働者階級の人々にも分かりやすい形で表現したかったであろうことも確かでしょう。しかし、おそらくそこまで行けなかったのだと思います。

 それを思うと、原本をテキストとしてその内容を的確にそして分かりやすく読者のために訳すのが訳本をまとめる者の務めであろうかと思います。その意味でmizzさんの努力は正しいと思いますし、向坂氏の訳は、それをあまり意図していなかったと言われても仕方ないと思います。

 難解な原本をただ忠実に訳すだけでは何年経ってもマルクスの意図が労働者階級に浸透しないだろうと思いますし、それにしてもマルクスの意図を内容的にねじ曲げないで、できるだけ分かりやすく述べるということの難しさは一筋縄では行かないとも感じています。

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閑話休題:ゴーン氏の報酬と超小型車

 マルクス価値論に関するディスカッションはまだまだ続くが、ここでちょっと本日の話題を入れて気分を変えてみよう。

 本日の朝日新聞朝刊に、日産自動車のカルロス・ゴーン氏が慶応大学で行った講演のことが出ている。経営管理研究科の学生480人を前に彼が語ったことは、日本国内の企業で最高の9億8200万円という報酬が「ふさわしいか?」と質問した学生に対して、「日本では衝撃的かもしれないが、99年に240万台だった世界販売台数は倍になり、1%だった売上高経営利益率は約6%に向上した。恥じることはない」と豪語した。また競合他社からのヘッドハンティングに関しては、「報酬は採用したい人材を引きつけるツールに過ぎない。日本のルールに従っていては、私が採用したい人たちを採用できなくなる」と言い、さらに「自動車産業は容赦のない競争にさらされており、グローバル企業はグローバル市場の基準で報酬を払う必要がある」とブチ上げた。

 だが、考えてもみよ、日産自動車を初め、日本の自動車産業は労働賃金が高くなった(といってもそれは資本家に前貸しされふたたび資本家の手に還流させるための資金に過ぎないのだが)国内の労働者を捨てて、労働賃金の安いアジアや中南米の国々で低賃金で働く労働者を求めてはそこから搾取をくり前しているではないか!もし「グローバル企業はグローバル市場の基準で報酬を払う必要がある」のなら、なぜ労働者はグローバルに見て一番賃金の安いレベルで支払われねばならないのか!販売台数が増えたことは一体だれの犠牲の結果なのか!そして売上高営業利益率はどのようにして引き上げられたのか?そこにはグローバル資本家どうしの激烈な利益獲得競争のために、何千人もの労働者が「合理化」という名のもとに放逐され、残された労働者たちの血のにじむ様な労働強化があったからではないか。ゴーン氏の私有財産となった9億8200万円は、こうして資本家どうしの醜い競争のためにその人生を捧げ尽くした労働者たちの膨大な量の労働から搾取された結果の富なのである。

 昨日のniftyニュースでは、この4日に国交省がまとめた「超小型モビリティ導入に向けたガイドライン」をめぐって、自動車業界で波紋が広がっている、というニュースが載っていた。最近、税金の安い軽自動車が国内で売れているが、それに対して軽自動車主力メーカーのダイハツやスズキなどとトヨタ、日産などの税制上不利な普通車主力メーカーとの間で確執があり、国交省の超小型車ガイドラインで登場するであろうその政府助成策に投入される予算は、軽自動車税の優遇を撤廃することによって賄われるのではないかといううわさがあるのだそうだ。そしてその超小型車生産に日産のゴーン氏がなみなみならぬ意欲を示しているという。

 何ということか!税金の安い軽自動車が生活の足になっている人々に、その優遇税制を撤廃させることで、軽自動車を持っていることにあまり意味を感じなくさせ、そこにあたらしい超小型車への需要をむりやり作り出そうというのだ!これが日本一「有能な」経営者の本性であり、9億8200万円の報酬を自ら「グローバルスタンダード」と言い切る男の正体である。

 そしてまだまだ使えるクルマが次々とニューモデルに乗り換えられ、その生産には膨大なエネルギーと資源が消費され、廃棄物の山はさらに高くなり、その陰で「合理化」により生産ラインから放逐された労働者が非正規雇用で生きて行くしかなくなっていく。政府は労働者から増税で取り立てた税金を、そういう資本家たちの「経済が活性化」するために、惜しげもなく使うのであって、税制もそうした資本家たちの支援のために「改正」されるのである。

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マルクスの価値論めぐるディスカッション(6)

 mzzさんからの新しいコメントから、次の様な重大な事実が明らかになった。それはmizzさんが和訳の原本として用いているサミュエル・ムーア訳の英語版資本論と、向坂逸郎が和訳の原本として用いているドイツ語版資本論との間でかなり内容が異なっているということである。以下にその証拠を挙げよう。

 miaaさんが挙げている(19)と(17)は、資本論のドイツ語版、英語版では入っていないようだ(向坂版にもそれがない)が、mizzさんによって付された区切り番号であろうと思われる。そしてmizzさんが挙げている注33も向坂版では注32となっていて違っている。

 mizzさん訳の該当部分はコメントを見て頂けば分かるので、ここでは向坂版の該当箇所を引用してみよう。mizzさん訳の(19)に該当する部分は向坂版ではこうなっている。

 「商品形態は、ブルジョア的生産のもっとも一般的でもっとも未熟な形態であり、そのために商品形態は今日と同じようにように支配的で、したがって特徴的な仕方ではないが、すでに早く出現しているのであるから、その物神的性格は、比較的にはもっと容易に見破られていいように思われる。より具体的な形態を見ると、この単純さの外観すらも消える。重金主義の幻想はどこから来たか?重金主義は、金と銀とにたいして、それらのものが貨幣として一つの社会的生産関係を表しているが、特別の社会的属性をもった自然の形態で、これをなしているということを見なかった。そして上品に重金主義を見下ろしている近代経済学も、資本を取り扱うようになると、物神礼拝につかれていることが明白にならないか?地代が土地から生して、社会から生じるものでないという重農主義的な幻想は、消滅して以来どれだけの歳月を経たか?」(1972年、岩波版、p108-109)

 そしてmizzさん訳では(17)に当たる部分は「さて経済学は不完全ではあるが価値と価値の大いさを分析したし、またこれらの形態にかくされている内容を発見したのであるが、それはまだ一度も、なぜこの内容が、かの形態をとり、したがって、なぜに労働が価値において、また労働の継続時間による労働の秤量が、労働生産物の価値の大いさの中に、示されるのか?という疑問すら提起しなかった」(同上、p106)

 さらにmizzさん訳では、注33となっている部分は、向坂版では、注32として次の様に書かれている。

 「古典は経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本欠陥の一つである。A. スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取り扱われている。その理由は、価値の大いさの分析が、その注意を吸いつくしているということだけにあるのではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、だがまたもっとも一般的な形態であって、このような生産様式は、これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性をも看過することになる。それゆえに、労働時間による価値の大いさの秤定について全く一致する経済学者に、貨幣、すなわち一般的等価の完成体についての、もっとも混乱したそしてもっとも矛盾した観念をみることになるのである。このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取り扱いに表れる。ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、もはや間に合わなくなる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としてしか見ないような新装の重商主義(ガニー等々)が、ここに発生した。ーーこれを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるものは、W.ペティー以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学とは反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探求するものである。俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつきまわるだけで、いわばもっとも荒削りの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学にとってとっくに与えられている材料を、絶えず繰り返して反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が、彼ら自身の最良の世界についてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理屈づけ、しかもこれを永遠の真理として宣言する、ということに限られているのである」(同上、p106-p107)

 さて、この両者の明らかな違いは、主として、おそらくドイツ語原本とムーアの英訳との違いであろうと思われるが、難解な向坂逸郎を少しでもわかりやすくしようと努力されているmizzさんの成果との違いでもあるように見える。これについて、しかしもう少し突っ込んだ考察が必要かもしれない。次回以降でそれを行おうと思う。

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2012年6月18日 (月)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(5)

 6月17日のmizzさんからのコメントにあるように、「価値」という概念規定に対するマルクスの表現は、たしかにそれが資本主義社会という、いわば商品経済社会が全面化した社会の歴史的に特有の規定(その意味で限定つき)であって、生産物の有用性からくる使用価値といった普遍的概念とは異なり、むしろ交換価値という形で使用価値を捨象してはじめて得られる概念であるということを言わんとしているのだと思う。

 そして使用価値を捨象した交換価値から生まれる「価値」という概念規定からみれば、それを形成するのは、具体的有用労働を捨象した抽象的人間労働だと言っているのだと思う。そしてその分析から始まる資本論冒頭の「商品」の解析こそ、なぜ、そのような捨象が行われ得たのかを明らかにし、さらにその結果が結局どのように矛盾した(つまり人間の労働がその産物である資本によって支配されてしまう)社会を築き上げることになったのかを明らかにしようとしているのだと思う。

 この基本的立場が、マルクスの労働価値説と彼にによって否定された古典派経済学者たち(スミス、リカードら)の「労働価値説」との本質的違いであると思う。

 しかし、重要なことは、ここでマルクスによって初めて明らかにされた「価値」の実体である「抽象的人間労働」という概念は、人類の歴史上あらゆる社会で行われてきた、社会的生産をさまざまな個別の労働種によっておこなう社会的諸分業種とその分業間で、個々の分業種の生産物を必要とする人々に分配供給し、またその供給が可能である様な社会的労働力の適正な配置が行われる様にするために必要な社会的メカニズム(宇野弘蔵の言う「経済原則」)を、資本主義社会では、価値法則を通じて行っていることから現れた概念であると言えるだろう。

 資本主義社会では、社会的に必要な生産物がすべて「売って利益を得る」ために作るというかたち(使用価値はそのための手段でしかない)で、商品として生み出され、市場での「売りと買い」によってそれらが分配供給される。それを支配しているのが「価値法則」であり、そこでは労働力までもが商品として扱われ、価値法則のもとで雇用されたり解雇されたりしている。いかに「良心的資本家」であっても市場を支配する価値法則のもとでは、かわいい労働者を「泣いて馬謖を斬る」ように首切りせざるを得なくなるのである。

 そして一瞬だけ「泣いた」資本家もやがて気を取り直して立ち上がり、「日本の労働者の賃金が相対的に高くなれば、人件費削減のために生産拠点を労働力の安い国へ移すしかない!」と叫びながら、その国の労働力を搾取しはじめる。これも労働力をモノと同等な商品としてみなす「価値法則」ゆえのことである。ひところ日本から中国へと生産拠点を大挙して移して行った日本の資本家たちは、いまやその中国でも労働者の賃上げ闘争が激しくなり、それよりはるかに労働賃金が安いミャンマーにどっと生産拠点を移し始めたではないか。これも価値法則ゆえである。

 そして労働者は、まるで資本家と対等な「商品所有者」(実は、労働力という商品しか持っていない)であるかのようにイメージづけられ、それぞれが「平等の市民」として商品を交換し合いながら社会を形成しているというのが「市民(ブルジョア)社会」という名の資本主義社会の外観である。

 そしてその社会は、表面上どんなに取り繕っても、次々と形を変えて出てくる労働者階級と資本家の基本的対立関係を覆い隠すために「国家」という政治的支配のツールを使う。「国家の危機」に際して、国家経済を支配している「産業界」という名の資本家階級を護るために「国民」として駆り出されるのはいつも労働者階級である。政治的紛争決着のための戦争しかり、経済危機での消費税値上げしかり、である。

 しかし、この資本主義社会特有の価値法則は、それが社会全体で必要とする生産物を生み出すのに必要なあらゆる分業種への労働力の社会的配分を決めるために指標として、それぞれの生産物を生み出すのに要した労働時間という形できわめて明快に理解された社会においては、それが「商品を売るために作る」という目的ではなく、「必要なものを必要なだけつくり、必要な人々に分配供給する」というストレートなシステムを生み出すために用いられるだろう。

 そのときには「価値」がそれを生み出すのに要した平均的労働時間として客観的に表示され、それに基づいて交換される社会が成立しうる様になるだろう。そこではもはや「価値法則」に支配されることはなく、価値は必要労働時間という指標で数値化されることによって、それに基づいた労働力の社会的配置は、資本家の商品取引の場である市場の動向によってではなく、労働者階級自身が自らの目的意識にもとづいて行えるようになるだろう。

 マルクスによる価値の分析とはそのような次世代社会への展望も含んだきわめて重要な研究なのである。

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2012年6月17日 (日)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(4)

 mizzさん、コメントでの「(資本論第1編第1章の)第2フレーズのただこの商品要素の考察という段階においては、一商品が、直接的に生存のための欲求にであれ、間接的に生産に用いるための欲求にであれ、どのようにこれらの欲求を満足させるかについては、特に知る必要はない。という過渡的条件の設定もあり、この訳も苦心するところなのだが、ここの我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。という設定も出だしでしっかりと認識して読む上での条件と確認して、読み進められるようにとさらに苦心したところなのです。資本論とはそもそもが資本主義的生産様式の考察そのものなのですから。価値論として純粋に独立した観念論があるはずもないのは云うまでもないと思います」と言われていることは私もおっしゃる通りだと思います。

 マルクスが使用価値を捨象しているのではなく、商品経済社会が生産物の有用性である使用価値を捨象したその反面(これは社会的分業種どうしでの生産物の交換を通じてそれが需要されることの必然的結果ではあるのですが)である交換価値によって逆に手段化されてしまうメカニズムを論理的に解明しようとしているのだと思います。ここに商品交換を媒介するために生まれた「第3の商品」である貨幣がうまれ、それが物神化されて資本に育っていくメカニズムの秘密があるわけで、マルクスは、この使用価値を手段化してしまう交換価値の本質を、その背後にある社会的に抽象的な労働という概念で把握し、これが「価値の実体」であるということを突き止めたのだと思います。

 マルクスはこの価値の本質を正しく把握することができたので、剰余価値という概念を導きだすことができ、それにもとづいて、資本主義社会ではあらゆる社会的生産を行っている労働者の労働が、その剰余価値部分をつねに無償で資本家に搾取されているという事実を見いだすことができたのだと思います。

 だから、この資本論の最初の部分である「商品」の章は、きわめて重要でありかつそれを正しく理解する必要がある部分なのだと思います。これは決していまの「ブルジョア経済学」の「商品学」と一緒にしてはいけないものであり、それとはまったくそれこそ「天と地」ほどに違う内容なのです。

 しかし資本主義社会を永久化(社会経済の普遍的な形態に)しようとする視点からは、その価値の実体や本質は決して正しく把握することができず、あたかも商品経済が未来永劫に続くかのようなイメージでしか価値の問題が扱えなくなるのだと思います。

 資本論を生半可に読んで「マルクスはもう古い」などと言っていばっている「経済学者のセンセイ」たちはこのことをまったく理解せず無視し、そして意図的にねじ曲げて解釈しようとするのです。

 大学に入学して経済学や商品学を学ぶ若い人たちにこのことだけはまず頭に入れてほしいと思います。さもないと、やがてやってくるであろう世界大経済恐慌の本質を理解することもできなくなるし、われわれの次の世代にうみだされるべき社会やその土台となる経済的基盤について考えるための科学的根拠を獲得することができなくなるでしょう。

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