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2012年6月24日 - 2012年6月30日

2012年6月30日 (土)

日本デザイン学会第59回春季研究発表大会でのプレゼンに関するディスカッション(4)

 mizzさんのコメントにある真野善一氏のことを知ってるデザイナーがいまではほとんど居なくなったと思われますが、「これからはデザインや〜」は日本の企業デザイナー誕生にまつわる有名な話ですね。

 松下政経塾はいまや「日本経済整形塾」のように見られていますが、塾生の野田さんは多分優等生だったんでしょうね。電力会社が産業界になくてはならない原発を止めないように原発に反対する面々をつぶして行ったお手並みは松下政経塾優等生ならではのできばえですね。

 韓国でも大統領が資本家出身ですが、おかげで格差が増大して財閥企業が潤っているようです。こういう国々では、「官から民へ」といいながら、その「民」の実体を明らかにしないのが特徴ですね。「民」の内部には資本家と労働者という根本的矛盾が存在しているのに、それはあたかも一体となって「国民」を形成しているかのように見せている。労働者は自分が雇用されている企業が国際市場での競争に勝てるよう、まるでオリンピックで日本を応援する様に、一生懸命自分の企業を応援し、喜んで資本家のために剰余価値を無償で提供しているのだ。

 それはさておき、われわれがこういうことを書いていると、あのセンセー、デザイン教育してきたのに、自分で自分のやってきたことを否定して、自分の墓穴を掘ってる、馬鹿じゃなかろか?というヒソヒソ話が聞こえてくるが、私は、決して自分の墓穴を掘っているとは思っていない。

 むしろ、眼前の大矛盾に目をつぶり、「不都合な真実」を知らしめないで、「デザイナーはよりよい商品のデザインを通じてよりよい社会のデザインをするべきだ」などと息巻いている連中の方がはるかに自分の墓穴を掘っているといえる。虚偽を信じ込むのではなく、真実を知らしめることこそ研究者の使命といえるのではないか?(ちょっとかっこつけすぎかな?)

 本当は、資本家階級の過剰資本の処理でしかない「消費拡大」のためにモノを作るのではなく、われわれ自身の生活のためにモノをつくるべきなのだ。そしてそのためには、あらゆる分業種の労働者が連帯して、自分たちの世の中を作り出して行けるボトムアップ的社会システムが必要なのだ。そこには原発もいらないし、資本家お気に入りのデザイナーも必要ない。働く人々すべてが本来のデザイン能力を発揮できる社会なのだから。そして、高齢や障害で働けなくなった人々の面倒を社会全体が責任をもって見るシステムが、労働者たちの生み出す剰余労働の成果として蓄積された社会共通ファンドによってしっかりと作られているはずだ。だからそこでは消費税もなく、格差もないはずだ。

 こういう社会を目指そうとすることがなぜ、うさんくさい思想の持ち主と見られるのか、よく考えてほしい。デザイン労働者は資本主義社会の「社会常識」となってしまっている資本家的思想(市民思想つまりブルジョア・イデオロギー)から解放されるべきだと思う。そこから本当のデザインの研究が始まるのだから。

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2012年6月29日 (金)

日本デザイン学会第59回春季研究発表大会でのプレゼンに関するディスカッション(3)

 mizzさんからの2度目のコメントを頂き、やっとご指摘の意図と内容が了解できました。確かに、mizzさんのおっしゃる通りで、私の説明からはデザイン労働によって商品販売量が増加ずることで、資本家が獲得する剰余価値量が増加するという事実が抜け落ちていました。mizzさんがおっしゃる通り、これが資本家がデザイン労働を分業化した最大の目的であり、それに付随して「付加価値」による価値以上の価格を設定できるということになります。

 つまりデザイン労働を自立化(分業化)させることで、商品販売促進のために商品の形状や色彩、使い勝手などを魅力的なものに演出し、購買欲をそそらせることで、商品販売量の増大を図り、デザイン労働が分業化していない場合に比べて遥かに多くの商品を販売することができるようになる。そこで資本家が獲得する剰余価値量は増大する。

 そのとき、商品の生産量が増加すればするほどデザイン労働が生み出す価値量の一商品に占める割合は少なくなるが、販売される価格は実際の価値以上に設定される。そして、さらにそれに加えて、そのデザインがブランド的な評判を獲得できれば、それに加えて何倍もの市場価格が設定できる、ということだと思います。

 資本家にとって本当の価値量は知るよしもない(それが明らかになれば資本家が労働者から剰余労働を無償で搾り取っている事実が明るみに出るのだから)ので、彼は利潤率、つまり(不変資本部分Vc+可変資本部分Va)に対するVmの割合が増加すればよいのです。

 したがって、実際には、デザイン労働が価値形成に貢献する割合が少ないにも拘らず、資本家が市場での競争に勝つため、「生産の合理化」によって労働者数を減らし、相対的剰余価値を増加させようとする場合、デザイン労働者の数は全労働者数が減少する中で、減少率がそれほど高くないと考えられます。減らされるのはもっぱら生産労働者の方です。

 そして、不変資本部分である生産手段への投資が「生産の合理化」の壁(競争企業と横並びになること)にぶつかれば、今度は可変資本部分が減少するように、労働賃金の安い国々の労働力の獲得へと資本家の目は移って行くわけです。そのときも、デザイン労働者は、あまり対象にされず、もっぱら生産労働者が矢面に立たされるわけです。

 デザイン労働者は、こうして商品販売量拡大とそれに「付加価値」を与える特殊な労働として資本家にとっては、単純労働者より大事にされることになる。しかし、その結果は、なくてもよいモノをなんとかして欲しがらせて買わせ、あとは購買者がそれをどう使おうと知ったことではない、という資本家魂を代行することで、世の中に膨大な量のガラクタ同然のモノを送り出し、まだ使えるモノを「道徳的磨損」させては新しいモノを買わせ、限られた資源を惜しみなくこの浪費に注ぎ込ませ、地球環境を取り返しのつかないほどに破壊しているのです。

 これは、決してデザイン労働者の道徳的責任として片付けられる問題ではなく、デザイン労働が資本主義社会において占める位置そのものの問題です。だから、デザイン労働者はこの事実に気づき、間違ったエリート意識を捨てて、実際には商品の価値のほとんどの部分を生み出している生産労働者と連帯して、この矛盾に充ちた生産様式とそれを支配する資本主義経済システムに対決すべきなのだと思います。

 mizzさん、貴重なコメントとやりとりをありがとうございました。やはりここまでとことんディスカッションをしたからこそ、こういうことが明らかになってきたのだと思います。

 

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2012年6月28日 (木)

日本デザイン学会第59回春季研究発表大会でのプレゼンに関するディスカッション(2)

 前回のブログで書いた問題と少し離れるが、デザイン学会での発表の際、座長から質問があり、「価値を生み出す労働においては具体的労働内容が捨象されるとのことだが、実際には、単純な労働と比較してデザイナーはかなり高度な頭脳労働を行っているので、それなりにその内容に応じた価値があると認められているのではないか?」といった趣旨の質問だった。なかなか鋭い指摘である。そこで私は次の様に応えた。「価値の形成という観点からは、一つの生産物を生み出すのに必要な労働はたとえそれらが単純労働であろうと、複雑な頭脳労働であろうと、それらが要する労働時間という形でフラットに捉えられる」。

 私の応えの意図がどのくらい質問者に伝わったか不明だが、時間切れでそのセッションは終わった。

 実は、この問題は、かつてロシア革命後のソビエトでも取り上げられ、労働の質による違いを考慮すべきであるという主張がそのまま曖昧な形でまかり通ってしまったのである。その結果、党官僚は「高度な労働を行う人種」であり、一般労働者はそれよりも「レベルの低い労働を行う人種」であるという暗黙の合意が形成され、労働者評議会に対する党官僚のトップダウン的支配体制が確立したのである。

 しかしマルクスの意図する「抽象的人間労働」とは、あらゆる種類の社会的に必要な労働は、すべてそれが実践されるときに費やされる平均的労働時間の長さによって図られるフラットなものとして理解されるべきだと思う。そうでないと価値という概念そのものが揺らいでしまうし、その価値という規定を基準に労働力の社会的配分は行われ得なくなるからだ。

 もちろん、資本主義社会では、この価値規定が明確にされ得ないため、市場の需要供給関係という資本家の私的所有への欲望がモチベーションとなった形で、それがいわば、無政府的・無自覚的に決定されている。だからこそ、資本主義社会ではそれが価値「法則」として、社会的生産および消費全般を支配しているのである。これを資本主義的視点から見れば、社会経済は「自由な商品取引」が保障される市場原理に任せておけば自然とうまくいく、という意識(資本主義的社会常識)になるのである。

 そしてマルクスによって明確な規定を明らかにされた価値の実体は、資本主義社会の矛盾を克服し得た次世代社会においては、もはやわれわれを支配する「法則」ではなくなり、それを意図的に、計画的な社会的生産体制確立のために用いることができるようになるのである。エンゲルスが言う、「自由とは必然性への洞察である」ということの意味がここにあると思う。

 さて、もう一つ。それは、資本主義社会特有の分割労働(企業内分業)について見ると、大きく分けて、直接的生産労働に従事する単純肉体労働者と、作り出されるべきモノの設計などを行う頭脳労働者に分かれるが、歴史的に見れば、資本主義社会以前においては、前者と後者は一人の労働者(職人)の労働の中に統合されていた。しかし、商人的資本家によってものづくりの過程が支配され「売るために作る」生産体制が確立されてからは、つくる商品が売れるようにするための資本家の意図を代行する頭脳労働者と、労働過程から目的意識を奪い去られて、ただ肉体労働だけでモノづくり労働を行わされる単純労働者に分化してしまったのである。

 そのことが、現代のデザイン労働の形にも現れている。つまり、企業内分業としてのデザイン労働は、図面やモデルをそのアウトプットとして提出できれば、あとは工場労働者がそれにしたがってモノを実際の商品として作ってくれる。そのため、両者は分離しやすい形で存在している。

 そこで、もう一度、デザイン労働の生み出す価値部分について述べたことを思い出してほしい。生産される商品の数が増えれば増えるほど、一個の商品の価値におけるデザイン労働の価値部分の比率は低くなる。従って、資本家的に見れば、デザイン商品が首尾よく「付加価値」を獲得することができない場合は、デザイン労働は、単純肉体労働に比べてきわめて稼働率が悪いのである。そのため、「ふつーの」デザイン労働者は直接デザインに関係ない仕事もさせられるし(これをデザイナーは「つぶしが効く」というらしい)、場合によっては、デザイン部門が切り離され、独立したデザイン会社になったりするのである。

 デザイン会社として独立すれば他の関連企業からも仕事を受けられるようになり、デザイン労働者の稼働率は著しく高くなるからである。

 こうして、「ふつーの」デザイン労働者はそれ相応に労働時間を延長され、結局は単純労働者とあまりあまり変わらない労働時間で働かされることになる。

 しかし、いったん、世の中に名前を売ったデザイナーは、一躍「デザイナー・ブランド」という形での「付加価値」を得ることができるようになるため、実際の労働時間が生み出す価値よりも、何十倍何百倍もの市場価格で売れる商品を生み出すようになる。「消費者」と呼ばれる労働者たちは、それを無理して購入しては「満足感」に浸るのである。

 かくしてデザイン労働者の生み出す価値は、「ふつーの」デザイン労働者の場合は、労働時間が延長されることによって稼働率を上げられ、「有名デザイナー」になった場合は、同じ労働時間でも何百倍もの市場価格で商品を売れるようにできる「付加価値」を市場から付与されるようになるのである。

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日本デザイン学会第59回春季研究発表大会でのプレゼンに関するディスカッション(1)

 mizzさんから重要なコメントを頂いたので、ふたたび、前々回のブログの内容に関するディスカッションに戻ることにした。

 mizzさんの展開式に関して、いくつか分からない点があるので、それについて考えてみる。

(a) まずデザイン労働が含まれていない労働を仮定されているが、実際の生産的労働では、それが未分化であっても含まれていないことはありえないのではないか?おおよそ人間の「ものづくり」ではどこかに必ず「デザイン的要素」が含まれていて、それが潜在的であるか、顕在的であるかの違いに過ぎないのではないか?

(b) mizzさんの展開式では上記の前提にもとづきデザイン労働が含まれない場合の商品価値を(V)=Vc+Va+Vmとし、それを含む場合の商品価値を、(V(d))=Vc+Vd/N+Va+Vmとして、その差(V(d))-(V)を求めている。たしかにそうすればデザイン労働を含む方が、生産される商品の個数(N)の多少によって違いはあるが、大きくなる。しかし 、もしそうだとすれば、剰余価値が増加しないのに資本家がデザイン労働をなぜ「付加」するのか?

(c)その理由をmizzさんは4つのケースに分けて説明されているが、まずケース(1)として、(V(d))-(V)>0の場合、全剰余価値の増大が確保できると言われているが、上記から明らかな様にこの場合も価値は増加するが剰余価値が増えないのではないのか?

(d)次にケース(2)として販売量Nが増大して、(V(d))-(V)→0(限りなくゼロに近づく)場合、全体の剰余価値量は増加するが、デザイン労働によって「付加」された剰余価値はほとんどゼロになるので、資本家にとってデザイン労働を「付加」する必要はないのではないか?

(e)Vc部分を削減してコストダウンを図る場合を想定されているが、実際には、資本家は市場競争に勝つためには、むしろ生産手段への投資を増やし、労働者数を減らすことによって(いわゆる合理化)コストを下げるのであって、これはありえないのではないか?

(f)これが実際に行われる「合理化」のケースであるが、Vaを削減して相対的剰余価値を増大させる(労働者一人当たりの相対的搾取率が高くなる)ケースであるが、この場合は、全体としての労働者数が少なくなるが生産量を増大させることによって全体としての剰余価値量を増やすことになる。しかし、ここでもデザイン労働は合理化の対象にこそなれ、価値を増やすことには貢献していない。

 以上の問題について、私は次の様に考える。

 資本主義的生産様式特有の、生産労働の分割化(企業内分業)のもっとも基本的構造は、商品を直接作る労働者からその目的意識(作ることの意味やモチベーション)を奪い去り、その目的意識的部分を頭脳労働者の専門的労働内容として特化することである。資本の意図(売るために作る)は、この特化された頭脳労働者の専門的労働内容を通じて実現される。工業製品の生産においては、最初は工学的設計労働者がその役割を担うために登場したが、やがて、生活資料が工業的に量産されることになって、その販売促進のために工学的設計労働の一部であった商品の形状や色彩を専門的に考える頭脳労働者が必要となった。そしてその担い手としてインダストリアル・デザイナー(デザイン労働者)が登場した。

 つまり、生産物の生産には最初から「デザイン労働的要素」が不可分のものとして含まれていたが、それが商品の生産が全面化した資本主義社会において、分化して「デザイン労働」として、資本主義的に特異な形において自立したと考えられる。

 だからデザイン労働はあとから「付加」されるのではなく、最初からあったVa部分が大きく二つに分かれてVdとVpになったと考えるべきであろう。つまりVa=Vd+Vpである。そうすれば、両者が一緒になって初めて商品の価値を生み出し、剰余価値も生み出しているということが分かる。むしろ、デザインによる「付加価値」とは、デザイン労働によって「付加される価値」ではなくて、価値は変わらないのに、市場価格を恣意的に高めるためにその労働が生産過程で分化独立したのだと考えるべきなのではないだろうか?

 商品に含まれるデザイン労働の生み出す価値部分は生産量が増えれば増えるほど少ない比率になるが、実際に市場に出される商品の価格(価値ではない)は恣意的に高く維持できるので、それだけ資本家は多くの利潤を獲得できるのである。

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2012年6月26日 (火)

消費税増税反対派も賛成派も結局はわれわれの味方ではない

 ついに民主党がまっぷたつに割れた。野田首相は、政治生命を掛けて社会保障と税制の一体改革を行うと叫ぶが、結局その方法は消費税増税しかなかった。

 そして野田首相に反対する小沢グループは、消費税増税はマニフェストにが反することであり、国民に対する歌切りだと叫ぶ。

 しかし、一見、庶民の味方を装っている小沢グループも、実は消費税を増税しないでどうすればいまの国家財政を救えるか、何も明確な政策や方針はないのだ。

 小沢グループの思惑は、世論の動向を読みながら、自分たちが政局のイニシャティブを握ることにあるのであって、本当にいまの国家財政の危機を救えるとは自分たちも考えていないのであろう。

 われわれは、ごまかされてはいけない。民主党は、沖縄の基地問題や原発問題も含めて、結局マニフェストで約束したことに関して、実は何一つ明確な方法や政策を持っていなかったことが明白になったではないか。そしてこの危機的状況を生み出す原因となった諸矛盾を、長年にわたって未解決のまま先送りして積み上げてきた自民党は、それを少しも自分たちの責任と感ぜず、ただ民主党を責めるばかりである。

 もうこんな連中を信用してはいけない。消費税の増税を誰よりも望んでいるのは資本家階級である。現に、さきほどのニュースで、経団連会長は、いち早く増税法案が可決したことを評価するという声明を発表している。これを見ても消費税増税が誰のために行われるのかが明らかではないか。

 彼らの言い草は、増税により国家財政が少しでも安定すれば、産業界もその恩恵に預かり、経済が活性化し、雇用も増えるので、国民の生活状態や社会保障も好転する、というのであろう。

 しかし、いま世界の経済状況を見れば、もはや「グローバル資本主義」は崩壊寸前であり、それにも拘らずいまだに、「経済の活性化と雇用の増大」というキャッチフレーズで資本主義的階級社会を維持し続けようとしているのだ。経済の活性化とは誰のための活性化なのか? 労働者階級がなぜ資本家階級に雇用されなければ生きて行けないのか? なぜ社会のために懸命に働いてもそれによって自分たちの生活は良くならないのか? そして子供を産んでも次世代の生活がどうなるかまったく分からないので不安で結婚もできない。そういう若者が世の中にあふれているというのに、何が「民主」だ、何が「自由民主」だ。何が「公明」だ、笑わせるんじゃない!

追記:今日のニュースによると、連合も消費増税法案通過を評価しているという声明を出したらしい。労働組合の元締めである連合が民主党の正体を見定めることもできずにこのありさまでは、日本の労働者階級は救われない。何たることよ!

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日本デザイン学会第59回春季研究発表大会でのプレゼン原稿

 6月23日に表記研究発表大会(札幌市立大学)で発表した際のプレゼン原稿(原稿はpptファイル)からのコピーを掲載します。

デザインによる「付加価値」とは何か?

--- マルクスの労働価値説にもとづく「付加価値」の分析

野口 尚孝

1. なぜいま価値論なのか?

 グローバル経済の時代と言われ、各国企業間の国際競争が激化し、労働力の安い国で作られる商品が世界市場を席巻しつつある現代社会において、デザインは労働力が相対的に高い国々の生産企業が、その競争に勝つため「付加価値」を生み出す有力な手段として認識されている。

 しかし、たとえば、有名ブランド商品のブランドが付いているだけで、同じ商品がより高く売れるということや、デザインの成果という計測不能な内容によって「付加」される「価値」とはいったい何なのかを考えてみる必要があるだろう。

 そこで、もっとも理論的に確かな価値論であるマルクスの労働価値説によってその分析を試みることにした。

2. 価値とは何か?

(1)マルクスによる商品の分析:

「資本主義的生産様式の支配的な社会の富は、巨大なる商品集積として現れ、個々の商品は、この富の成素形態として現れる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。」(資本論 向坂訳 岩波書店版、p.45)

「商品は、種々異なったものとして、それぞれ特定の使用目的に役立つ使用価値としてありながら、すべて一様に”何百円”という価格を有していることからも明らかなように、その物的性質とは関係なく、質的に一様で単に量的に異なるにすぎないという一面を有している。商品の価値とは、使用価値の異質性に対して、かかる同質性をいうのである。」(宇野弘蔵「経済原論」岩波版、p.21)

(2)商品交換の論理:

 商品交換においては以下の様な形の等価交換が行われる。

 x 商品 A量 = y 商品 B量 (例えばリンネル所有者Aが、Bの所有する上着が欲しく、それをリンネル20ヤールと交換できると考えている)

 Aにとっては、リンネルは使用価値を持たず(だから売りに出した)、Bの所有する上着がAにとって使用価値である。したがって、リンネルは上着の使用価値によって表現される交換価値をもっている。AにとってBの所有する上着は、リンネルと等価形態にある使用価値であり、自分の所有するリンネルはそれによって相対的価値形態にある交換価値として関係づけられる。

 しかし、これは、たまたまBも上着をリンネルと交換したいと考えている場合にのみ、交換が成立する。

(3)使用価値が交換価値の手段にされる商品経済社会:

 そこで、あらゆる場面でつねに等価交換が成り立つようにするため、あらゆる商品の価値を表示しうる第3の商品としてそれ自体が価値の表示物である、貨幣が必然的に登場する。

 しかし、貨幣は、あらゆる商品との交換を媒介することができるため、商品経済の万能の担い手として物神化された存在となり、やがて商品は、それを売って利益をあげることが第一義的目的で生産されるようになった。

 そのため、商品経済が全面化した社会では、生産物の使用価値は商品の価値の担い手(手段)として扱われるようになった。

(4)マルクスの労働価値説:

 交換価値として現れる価値とは、個別具体的労働内容を捨象され、あらゆる商品をうみだすために必要とされた労働であり、その意味で「抽象的な人間労働一般」であると言える。したがって価値とは、社会的に必要なものを生み出すために費やされた人間の労働によって形成され、その量はそれに要した社会的に平均的な労働時間で表される。

 要するに、価値とは、社会的に必要なものを人間の労働が生み出す際に必要な労働時間によって計測できる客観的な規定である。

(5)価値と価格の関係:

 しかし、社会的に必要な労働によって生み出された生産物が、商品として市場に投入されるやいなや、それは市場の需要・供給の力関係によって上下する市場価格によって売り買いされる。需要が供給を上回れば、実際の価値以上の価格で売られ、供給が需要を上回れば、ときには価値以下でさえ売られる。

 こうして結局、商品は、そのときどきの市場の需給関係で決まる市場価格で売買され、結果的にはその基準点をなす中心が実際の価値となる 。したがって商品市場において、価値は直接表れることはない。

(6)「付加価値」とは何か?:

 市場では、売り手は、実際の価値よりいかに高く売るかを、そして買い手はいかに安く買うかを競い合う。したがって、市場価格は、そのときの市場を形成する売り手と買い手の間で取り交わされる主観的価値観の妥協点によって決まると言える。

 「付加価値」とは、そうした売り手と買い手の主観的価値観の間に入り込み、双方の思惑を、実際の価値より高い価格で決着させる手段であると言える。

 そのため、売り手は、「付加価値」の手段として商品が「グッド・デザイン」であることや、ブランド商品であることなど客観的価値以外の計測不能な主観的要素を商品の印象に付与し、恣意的に価格を決めるのである。

3. デザイン労働の価値

(1)商品としての生産物が有する価値の構成:

 マルクスによれば、商品に含まれる価値は、生産物を作るために必要な素材や労働手段(機械や工場など)に含まれる過去の労働の対象化された価値のうち、その摩耗により生産物に転移された価値部分を、Vc(不変資本部分)とし、生産的労働によって新たに付け加えられた価値部分のうち、労働者自身が生活できるために必要な価値量を生み出すのに要した労働時間(必要労働時間)に相当する部分を Va(可変資本部分)とし、それを超えた労働時間によって生み出された剰余価値部分を Vmとすれば、次のような式で表される(資本論ではVというprefixは用いていない)。

 商品の価値(V)=Vc + Va + Vm(このうち、Vaは資本家によって労働者に生活資料と交換するために前貸しされる労働賃金部分であり、Vmは資本家が無償で獲得する価値部分である。)

(2)商品の中で実際にデザイン労働が生み出す価値部分:

 上記、商品の価値(V)の中で、Va + Vm 部分が一つの生産物を作るために新たに加えられた労働の生み出す価値部分であるが、商品としての生産物を生み出す労働の分業形態を考えれば、その中で、デザイン労働が生み出す価値部分を Vd とし、デザインを実際の生産物として生産するための製造労働が生み出す価値部分をVp とし、生産個数を N とすれば、一個の商品

に含まれる価値の構成は以下の様に表せる。

 V = Vc + (Vd+Vm) / N + Vp+Vm

 つまり、製造労働の成果は、そのまますべての生産物に同じ量ずつ含まれるが、デザイン労働は一定期間の労働の成果が、生産される生産物の個数に応じて分配された価値部分となり、生産個数が増えれば増えるほど一商品に含まれる設計・デザイン労働の生み出す価値部分の比率は低くなるのである。

4. デザインによる「付加価値」を必要とする背景

(1)生活資料商品の「疑似奢侈品化」:

 それにもかかわらずデザインされた商品は市場で実際の価値よりはるかに高い「付加価値」を加えた価格で売れるのはなぜか?

 その背景には、生活資料商品の「疑似奢侈品化」という状況がある。次に述べるような社会経済的状況で、一般生活者の生活資料が擬似的に奢侈品化するようになり、こうした生活資料への付加価値を含んだ価格付けが可能になったと考えられる。

(2)過剰資本の蓄積と経済恐慌:

 資本主義経済体制では、社会的に要求される生産に必要な生産手段を私的企業が所有し、社会的に必要な生産物は、その企業に雇用された労働者による労働力をもって生産され、出来上がった生産物は企業に所有権がある商品として市場に出され、労働者は、企業家から前貸しされた賃金(前述のVa)でそれを買い戻すことによって生活している。

 市場では企業家どうしの競争が行われ、市場価格が決まるが、そのため企業家はできうる限り生産力を高め労働者数(Va)を減らして生産コストを下げることで、競争に勝とうとする。

 しかし、生産力を高めるために生産手段の改良などに投資した額(Vc)に見合うだけの利潤(Vm)が得られなくなれば資本が過剰となり、生産を続けられなくなる。これが連鎖的に起こることで社会は経済恐慌に陥る。

(3)過剰資本の処理形態としての浪費者社会の現出:

 100年近く前から、資本主義経済体制はこうした増大する過剰資本の圧迫によって徐々に経済的危機を拡大させてきたが、1930年代の世界大恐慌によって一時壊滅的状態となった。

 そのため、アメリカやイギリスでは、ケインズらの経済理論をもとに、過剰資本を、直接再生産に結びつかない消費の拡大によって処理するメカニズムを採り入れ、資本主義経済体制の立て直しを行った。

 それは、労働者の賃金を見かけ上高め、そこから生活資料の購入に投じられる貨幣を、生活消費財商品の生産や、その販売・宣伝を行う企業、さらに趣味娯楽などのような「不生産的企業」に還流させ、過剰資本を過剰消費によって吸収させながら、それを企業の利潤に転化させるという仕組みである。

(4)疑似奢侈品生産に用いられるデザイン労働:

 こうしていわゆる大量生産=大量消費社会による見かけ上の「繁栄の時代」が現出し、一見、産業が活性し、雇用が増えるので、「経済成長」がもたらされた様に見えながら、実は、不生産的商品の大量消費という膨大な「浪費」によってしか、経済体制を維持できないシステムである。

 そのため、生活資料生産企業はつねに、それを大量に販売促進できるようにデザインする必要が生じ、それまで「贅沢品」であったクルマや高級カメラ、ブランド商品などなどが、生活資料の中に入り込む様になり、それらは宣伝・広告などによって意図的に作られた流行によって絶えず、「道徳的磨損」を受け、まだ使えるにも関わらず廃棄を促され、新しいモデルへの買い替えが恣意的に行われる様になった。

 こうした状況を背景にして、販売促進のためのデザインによる生活資料商品の疑似奢侈品化が社会的に定着化したと考えられる。

5. その結果がもたらした浪費経済社会の矛盾

 しかし、20世紀後半から始まった、こうした浪費型資本主義経済体制はやがてその必然的結果として次の様な矛盾を露呈した。

 一方で消費を拡大させなければ、経済は活性化できず、不況に陥るが、他方で消費を拡大すればするほど地球全体の限られた自然資源を浪費し、自然破壊を押し進めることで、根無し草的な過剰流動資本を増大させ、それが一部の投資家や金融資本に蓄積され、社会的格差を増大させることになる。

「デザイン行為」を単にその職業としての形態として考えるのではなく、生産的労働の一部を構成する「デザイン労働」として捉えることが必要であり、それがどのような矛盾を内包しているのかを明らかにすることが、デザインの未来を考える上できわめて重要なのではないだろうか?

* 追記:発表後に気づいた以下の重要な誤りがあります。

「3 デザイン労働の価値」は「3 デザイン労働によって生み出される価値」に訂正します。また同じ3章の中の、「(2)商品の中で実際にデザイン労働が生み出す価値部分の式:V = Vc + (Vd+Vm) / N + Vp+Vm は、以下の様に訂正します。

 V = Vc + (Vd / N) + Vp+Vm

 なお、3ヶ月ほど前に提出した予稿集用の原稿は以下にアップロードしておきます。多少内容が変わっています。

http://pga00374.cocolog-nifty.com/HNoguchiJSSD2012B.pdf

以上

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