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2012年7月1日 - 2012年7月7日

2012年7月 7日 (土)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(8)

 デザイン学会での発表とその後のある購読会(研究会)での講演に関する話題で、そちらに流れが行ってしまったマルクスの価値論をめぐるディスカッションを再びもとの軌道に戻します。

 昨日「名無し」さんからコメントがあり、マルクスの価値論を読み直すならこのサイトを見てほしいとのことで、さっそく覗いてみた。しかし、そこで述べられていることは、私には馴染みのない「DDMの理論」などという言葉が登場し、何のことかと思いきや、Divided Discount Modelという株の配当割引モデルなのだそうだ。どうも私とは、価値論を研究する目的がまったく異なるようで、株価配当モデルにマルクスの価値論をも取り込むということらしい。

 私は、いま世界中が株価の動向によって右往左往しているような社会そのものが根本的におかしいと考えているので、このサイトで述べられていることに関しては興味もないし、何もこちらからコメントはしないことにした。

 さて、話は変わるが、例の購読会(研究会)でのディスカッションについては前回のこのブログでお話したが、そこでもっとも私の話をまじめに聞いてくれたAさんからあらためて「質問状」を頂いた。私は正直うれしかった。これまでマルクス理論などにまったく関心がなかったと思われる人がたとえ「疑問」という形であれそれに興味を持ってくれたのだから。それに対する私からの回答書を以下にアップロードしたので、見て頂ければ幸いである。

http://pga00374.cocolog-nifty.com/ValueDiscussion.pdf

 この回答書を書くのに実はかなり苦労した。最近視力がどんどん落ちているし、めまいに苦しんでいる中で、再び資本論の一部や宇野弘蔵の価値論のページをくって、的確な引用をしようと、まる一日本とPC画面に向かってたからだ。書き終えたとき立ち上がったらクラクラっとめまいが来て倒れそうになった。年は取りたくないもんだ。

 この中で取り上げたベーム・バヴェルク(マルクス批判者であり、マルクス経済学者宇野弘蔵によってケチョンケチョンに批判されている)に典型的に表れているように、マルクス価値論への批判の多くは、マルクスの労働価値説と古典派のそれとの基本的な違いが理解できず、労働により形成され、労働対象に結晶する「抽象的人間労働」という規定が、あたかも商品市場における交換が行われる以前から存在するかのような誤解に陥っている。

 マルクスの価値規定は、宇野弘蔵の指摘する通り、商品経済社会特有の歴史的規定であって、それが社会に全面化され、あらゆるもの(人間の労働力までをも含む)を商品化することで成り立つ資本主義社会において、はじめてその科学的分析対象となり得たものである。それに対してスミスやリカードによる労働価値説は、それを資本主義社会以前から、人類の社会において普遍的に存在したかのように捉えているところが根本的に違うのだ。

 日々われわれの眼前に繰り広げられる資本主義社会の諸矛盾の根底にある「価値法則」の解明というスタンスがマルクスの価値論であり、資本主義社会を永遠化する視点からマルクスの価値論を利用したり批判する立場からは、それはまったく理解できないだろう。

 マルクスの意図を21世紀の現代に引き継ごうとするわれわれのスタンスでは、資本主義社会において初めて科学的研究対象となった、その矛盾の核である「価値」規定を、資本主義社会の矛盾を克服して生み出そうとする次世代社会へと否定的に摂取しようとしているのだ。

 まず、こうしたスタンスが共有できなければ、価値論の研究はとんでもない方向へとぶっ飛んでしまうだろう。

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2012年7月 5日 (木)

コメントにお応えして

 昨日の「ある購読会(研究会)での講演にて」に、mizzさんからコメントを頂きましたので、ちょっと状況を詳しくお話ししておきます。

 この購読会(研究会)のメンバーは、単なる「ブルジョア計算屋」ではないのです。60-70歳代になっても真摯に、科学の基礎とは何かということを、あくまで中立的な態度(あくまで彼らから見てですが)で、さまざまな自然科学や数学の代表的文献を購読しながらディスカッションするという目的で集まっている人たちです。私は、その中の代表者的人物であるAさんと、ある大学での設計論研究会で知り合い、その研究会での吉川弘之氏とAさんのディスカッションが実に面白かったので、以来もう20年近く交流しているのです。何でも利益に結びつけようとする「ブルジョア計算屋」と違って、人間的には皆すばらしい知識と教養を持った人たちなので、私もこの研究会に首を突っ込むことにしたのです。

 にも関わらず、やはり数学基礎論や論理学という思考の武器によって自然科学(特に物理学)の基本問題を理解しようとしている人たちの頭脳においては、社会科学には主観的要素が分ちがたく含まれているので科学としての資格がない、と映るのでしょう。だからこそ、かなかな難しい問題だと感じました。

 昨日のマルクス価値論に関するディスカッションでも、「剰余価値を資本家が獲得するのは当然だ。それをもって生産手段を購入して労働者が雇用されて生産が成り立つのだから」と私に食ってかかったBさんは論外としても、Aさんの言う、社会科学での「理解」は論理的な理解ではなくて「共感」だ。と言ったことについては、いろいろ考えさせられます。

 昨日のディスカッションの中で、マルクスの理論を数学モデルで示せばより客観性が高まり、理解しやすくなるのでは、という意見がありましたが、私は、それは無理だと思う、と答えました。マルクスが資本論で展開している内容は経済学ですが、その分析の武器は、彼がヘーゲルから「否定的」に受け継いだ、弁証法の論理です。この弁証法的な論理学は、近代数学の基礎となっている形式論理学よりも高次の論理なので、そこには形式だけではなく、論理の対象となるものの内容も含まれると思います。

 つまりいまの形式論理学は人間の思考の論理の形式的側面だけを取り出してそこに「主観の余地のない」論理展開を求めるわけですが、弁証法的論理は、主観と客観という対立をその上位で統一的に把握しようとするものであって、そこには存在論とか認識論という哲学上重要な問題が最初から含まれているのだと思います。だからこそ、マルクスの実存を掛けた資本主義社会への批判と分析の中でその論理的な威力を発揮し得たのだと思います。

 マルクスは矛盾に充ちた眼前の資本主義社会を批判の対象としながら、同時にその批判の過程を通じて、その対象に含まれている自分自身の実存(あるいは存在意識)そのものをも変革して行ったのだと思います。

 これを形式論理にもとづく論理式や数学モデルとして置き換えられるはずもないと思います。まず、マルクスの言わんとしていることの全体像を「直感的に」理解し、その自分の直感の中に含まれている論理を徐々に明らかにして行くことで、自分自身が陥っていた既成概念(その社会で支配的である観念)の矛盾に気づいて行くという理解の仕方が必要であると思います。

 最初の直感的理解をAさんは「共感」と呼んだのかもしれません。しかし、そうだとすれば、形式論理の背後にある暗黙の了解(例えば、何が公理であり、公理から定理や定義が導きだされる論理の展開がなぜ「正しい」と感じるのか)は、「共感」ではないのか?と言いたくなります。

 なかなか奥の深い問題だと思いまし、こういう問題設定の中にこそ、歴史を切り開いて行くポジティブな論理が明らかにされるのだと思います。

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2012年7月 4日 (水)

ある購読会(研究会)での講演にて

 もう数年前から私が関わっている、あるソフトウエア会社のOBたちが行っている購読会(研究会と言った方がよいかもしれない)で、今日私の講演の順番が回って来たので、「マルクスの価値論をめぐって」という演題で2時間の講演を行ってきた。事前に13ページにわたる講演資料と56コマのパワーポイントをプレゼン用に用意して会場に臨んだ。この講演資料の原稿は、以下にアップロードしてあるので、まずそれを読んでから以下のやりとりを読んで頂きたい。

http://pga00374.cocolog-nifty.com/20120704HN.pdf  

 ところで今日の講演では、いつものことながら途中で質問が続発して、予定の1/3も行かないところで時間が来てしまった。

 この会の参加者はバリバリの数学屋さん(日本のソフトウエア開発者の第一世代)ばかりで、ヒルベルトだのブルバキだのは常識として知ってなければ馬鹿にされるという恐ろしい人たちである。

 しかし、その質問には、私は手を焼いた。炉の例を挙げてみよう。

Aさん:価値とはある生産物を生み出すのに必要な社会的に平均的労働時間によって決まる規定である。と言っているが、例えば、金10グラムを鉱石から抽出するのに10時間を要して、銀20グラムを抽出するのに20時間かかったとすれば、両者はあきらかに異なる使用価値を持っているのに、金20グラムと銀20グラムは同じ価値として交換可能なのか?

私:この場合、交換はありえないと思う。交換する意味がないから。

Aさん:そもそも価値とは何かということをいうのに、交換価値とか使用価値というものも定義できていなければ動議反復になるではないか。

私:使用価値はある目的をもって人間が生み出した生産物のもつ属性や機能つまり有用性のことであって、交換価値は、リンネル所有者が上着所有者にたいして、自分の所有するリンネル20ヤールを交換に出して上着を獲得しようとしているわけであって、その場合、上着1着という使用価値によってリンネル20ヤールのもつ交換価値を表現していることになる。そこで交換価値によって表現される価値は、それを生み出すために要した平均的労働時間と言える。

Aさん;何を言っているのかさっぱり分からない。

ーーこのやりとりは約40分くらい続き、結局私が、商品所有者同士の交換においては両者の主観的判断によって「等価」が決まるが、これが社会において何百回何千回と繰り返されることによって、その平均的な値として、それを生産するに要した労働時間に応じた価値が決まって来るということであって、価値はその意味では事後的に決まるものである。という説明でなんとか、不服ながらAさんは納得し、その先に進むことができた。

 そして必要労働と剰余労働の話に入り、剰余労働は労働力を買い取ったときに支払われる賃金が示す労働力の価値を超えて労働が継続することで生み出される価値であって、これを資本家が無償で獲得する。という説明をしたところ、

Bさん:資本家が「無償で剰余価値を獲得する」なんていうのは感情的な表現であっておかしい。資本家が剰余価値を獲得することは当然のことであって、それによって労働者は雇用されるし、生産が続けられるのではないか。

私:絶句。

 ことごとがこの調子で行くものだから、ついに私の講演は予定の1/3も進まずに時間切れになってしまった。

 私が作った資料やプレゼン用スライドでのマルクスや宇野弘蔵の本からの引用が部分的であって分かり難かったこともあるが、もっと深刻なすれ違いがあったと感じた。

 講演の後で会食になったときに、酒を飲みながらこの人たちと話し、Aさんが言っていたことが気になった。

Aさん:数学はだれが見ても誤解のない論理の組み合わせでできているので、明快であるが、社会科学は、きちんと言葉を定義していないし、同じ言葉でも一人一人その内容が違っていたりする。だから社会科学は、「原著主義」であるが、数学はそれがだれの理論であろうとも間違っていなければ、その内容が的確に伝えられる。これが科学の基本ではないのか?その意味では社会科学は科学とは言えない。

私:例えばマルクスの資本論を読もうとするときに、マルクスがそこに表現しようとしていた内容を正しく理解するためには、まずその原著をきちんと読むことが必要なのは当然ではないのか?

Aさん:数学や自然科学での「理解」と社会科学での「理解」とは言ってることが違うのではないか?

私:そうかも知れない。社会科学での理解は、理論を構成する要素を一つ一つ論理的に証明しないと理解できないというものではなく、あいまいであってもまず全体の意図が理解できれば、そこから詳細な概念規定を論理的に理解して行くという仕方だと思う。

Aさん:それは理解ではなく「共感」だろう。それは数学や自然科学ではありえない。

 という具合で、ついにこの人たちと議論がかみ合うことができなかった。

しかし、こういう人たちが実は世の中の大部分なのかもしれないということに気づいた。こういう人たちを、マルクスの「共感者」として取り込むことは本当に難しいことだと思った。

 疲れた〜!

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2012年7月 3日 (火)

日本デザイン学会第59回春季研究発表大会でのプレゼンに関するディスカッション(6)

 mizzさんからの新たなコメントに、付け加えるならば、マルクスは次の様にも述べている。これはmizzさん訳の英語版資本論の第3編、第7章、第2節「剰余価値の生産」からの引用である。

「(27) もし、我々がさらに進んで、価値の生産過程を、純粋で単純な労働過程と較べてみるならば、我々は、後者が、有用な労働から成っており、その作業が使用価値を生産する のを発見する。ここでは、我々は、特定の品物を生産する労働を、じっと見ることになる。我々は、その品物を、ただ、質的な点から見る。その最終目的に合致しているかどうかと。だが、価値創造過程として見るならば、同じ労働過程が、それ自体を、その量的側面からのみのものとして示す。ここでは、単に、労働者がその仕事をするに、要した時間だけが問題となる。その時間の間、労働力が有効に支出された 仕事の時間という前提である。ここでは、過程に加えられる商品も、もはや、ある明確な生産の中に必要な労働力の付加物、有用な物 とはみなさない。それらは、ただ単に、労働を吸収したもの、または、労働が物体化したものとみなされる。労働が、以前に、生産手段に体現されたものであろうと、労働力の活動によって、過程において、初めてそれらに一体化されたものであろうと、いずれの場合でも、ただ、その継続時間で計量される。かなりの時間でか、または、何日分かで、場合によって、計量される。」(27はmizzさんによる区切り番号)

 これは、現代の資本主義社会での頭脳労働者(最近は知識労働者という言葉もあるがこれについては別の機会に考察することにしよう)においても全く同様に当てはまる。

 デザインされた商品を売る資本家のもとで働く平均的デザイン労働者は、平均的なデザイン労働を行うものと考えれば、ひとつの製品のデザインに何時間あるいは何日が費やされ、何人のデザイン労働者がそれに携わったかが問題にされるのである。デザイン労働者の費やした労働時間をその製品が生産される個数で割った値と、製品を製造ラインで組上げる労働者が費やした労働時間と人数、そして、さらに言えば、製造ラインに供給される部品を製造した下請け企業の労働者が費やした労働時間、出来上がった製品を検査する検査労働者などが費やした労働時間などの総計が資本家の商品の価値を決定するのであって、これに関しては資本家といえども恣意的に決定することはできないのである。そしていうまでもなく、この中には、さまざまな労働形態で働く労働者たちが、自分たちの労働力を再生産するに必要な価値を生む労働時間を超えた労働時間によって生み出した剰余価値部分が含まれているのである。だから、資本家は、このままの価値で商品を市場に出しても、それに含まれる剰余価値分が彼のもうけになるのである。

 しかし、こうして決まる商品の価値に加えて、デザインが商品の売れ行きを促進することになれば、それによって付加される、実際の価値より高い市場価格とその販売量の増大がもたらす利潤は、まるごと資本家のフトコロに入ることになる。

 ある商品が、そのデザインによってどれだけ高い価格を付け得たか、どれだけ販売量を増やしたかは、論理的な計算で求めることはできない。しかもそれはあくまで市場で売りに出した「結果」としてしか判定し得ないのである。だから、デザイン労働者へ「報奨金」などという形でエンカレッジされるわずかな分け前は、つねに事後的にしか与えられない。

 しかし、他方では、デザイン労働はできうる限り労働の稼働率を高められ、デザイン労働者の数は生産労働者の数に比べて常にはるかに少なく配置され、一人当たりのデザイン労働者の労働時間は、他の労働種の労働者と同じにされるのである。

 にも拘らず、デザイン労働者は、多分、自分たちを「労働者」だなどとは一度も考えたことがないであろう。彼らは、もともと資本家の意図を代行する頭脳労働者として雇用されているのだから、その「職能的意識」においても、資本家と同じ視点でものを考えることしかできない。

 だから、実際には、デザインによって特別な価値を創造することなど何もしていないにも拘らず、文明社会の創造に貢献する価値を生み出していると思い込んでいるのである。

 現実のデザイン労働者の労働は、それよりも遥かに多くの価値を生み出している様々な他の労働種の労働者たちの労働と結合されない限り、それが対象化された生産物が使用価値を持つこともできず、したがって何の価値をも生み出すことがないのである。

 そしてそれが価値を持つことができるように様々の労働種を利潤追求の目的で結合させることによって商品の生産として実現させているのが生産手段の所有者である資本家なのである。

 この事実を何も知らないし、知ろうともしないで、自らのアイデアと良心で、よりよい文明社会が形成できると思い込んでいることが、デザイン労働者の悲劇であり、また喜劇でもあるのだ。

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日本デザイン学会第59回春季研究発表大会でのプレゼンに関するディスカッション(5)

 日本デザイン学会第59回春季研究発表大会でのプレゼンに関するディスカッション(2)に対する、mizzさんからの2度目のコメントがついた。

 mizzさんが進めている資本論英語版(サミュエル・ムーア訳)からの和訳での次の様な価値により表現される「社会的に平均的な人間労働」に関する一節を引用している。

「(13 ) かくて、使用価値あるいは有用物は、物に込められた「人間の労働」という、こまごました内容がそぎ落とされたところの価値を持つ。さて、この価値の大きさはどのようにして計量されるのだろう。明瞭そのもの、価値を作り出した実体、その物に込められた労働の量である。そして、労働の量は、その労働の期間で計量される。労働の期間の大きさは、その標準的な週,日,時間で計量される。

(14 ) すると、ある人は、こんな風に考えるかも知れない。その物に費やされた労働の量で商品の価値が決まるなら、愚図で、未熟な労働者の作った商品の方がより価値があることになる。なぜなら、彼の生産物にはより長い時間を要しているだろうからと。

 そういうものではない。価値を作り出す労働とは、均一に混ぜ合わせられた「人間の労働」であり、一つの決まった様式で表すことのできる労働力の表現なのである。社会によって作り出されたすべての商品の価値の総計に込められた社会的な労働力の総計のことである。ここは、大勢の個々の労働力で構成された一塊りの均一な労働の集合体として見た「人間の労働」で考える必要がある。このように見れば、個々の労働単位は、他の者の労働単位と同じである。その労働の結果も同様である。つまりは、社会的な平均の「人間の労働」という性格をもったものである。一商品を作るに要する平均的時間以上の時間は必要もなく、社会的に必要とされる時間を越える時間も必要がない。通常の生産条件において、かつ平均的な熟練と集中力をもってある物を生産するに要する社会的な労働時間のことである。(以下略)」(資本論第一章第一節より)

 このマルクス自身による説明で、価値を生み出す労働に関しては、ほとんど誤解の余地がないと思われる。

 私は以前このブログで、ソフトウエア開発労働者の問題を取り上げ、デザイナーと同様、出来上がった商品によって生み出される生産物の価値には、ソフトウエア開発労働者が費やした労働が生み出した価値を、その商品としての生産物の生産個数で割った価値しか含まれていないことを明らかにした。そこで今度は私の方から誤解がないようにさらに説明を加えるならば、こう言える。

 デザイン労働者やソフトウエア開発労働者などのような、頭脳労働者の仕事は、一方で、相対的剰余価値を増大させるために労働過程の目的意識を奪われ、機械に従属させられた単純肉体労働者を生み出すという資本主義的生産様式特有の分割労働の登場によって、その反対の極で、奪われた労働過程の目的意識を、資本家の意図と思考に置き換え、それを代行する頭脳労働者として登場した、資本主義社会特有の労働形態なのであるが、それらはまた、同じ生産物を大量に生み出す生産システムを前提にしていることを忘れてはならない。

 前者は、デザイン労働の成果の一部を、その生産個数に応じた割合で含むハードウエア完成商品として市場に出されるが、後者はソフトウエアそのものが商品として市場に出される点が異なっている。出版物の著述労働(音楽や映像なども含む)なども類似している。商品が一つ一つハードウエアとして使用価値を持つ商品になる場合は、これを簡単に複製できないので、あまり問題にならないが、ソフトウエアや出版物は簡単にコピーできるので、「著作権」という形で法的に護られなければならなくなる。

 これらの労働の成果は、実際にその使用価値である機能を発揮できる様にするには、コンピュータや音響・映像プレーヤー、紙の本や電子書籍リーダーといったハードウエアがなくてはならないのであって、実は、それらを結合しない限り両者の使用価値はないのである。

 つまりソフト開発労働者や著述労働者、などは、形の上では別の業種(社会的分業種)として扱われるが、その労働の成果を実現させるハードウエア製造労働者の労働の成果と一体になって初めて使用価値を持つ商品を生み出しているのである。

 だから、ソフト開発労働者を雇用する資本家は、その労働の成果を著作権で護られながら占有し、自由にそれをコピーして商品として販売できるのであって、販売数が増えれば増えるほど、そのソフトウエア商品に含まれるソフト開発労働者の生み出した価値は少なくなるにも拘らず、一定の市場価格で販売できるため多額の利益を得ることができる。

 一方で、それらのソフトを使って、初めて機能を発揮させることができるパソコンや音楽プレーヤーの製造を行う企業の資本家は、それらのハードウエアを一つ一つ生産する労働者が生み出す価値がすべての商品に同じだけ含まれるので、市場での競争に勝つためには、彼らのいう「生産費用(生産手段として用いている不変資本と可変資本として用いている労働者の賃金部分を加えた価値部分)」を減らして剰余価値部分を維持しなければならなくなる。

 そのため、一方では相対的剰余価値を増やすために生産設備を拡充して、いわゆる生産の合理化によって労働者一人当たりの生み出す価値量を増やし、それによって労働者数を減らし「人件費の削減」を行うが、他方では、労働者の総数が減ることで剰余価値の総額が減るので、たえず生産量を拡大する必要があり、安い労働力を求めてアジア、アフリカ、中南米などに生産拠点を移すことになる。

 結局、それらがなくては生産物の機能が発揮できない、二つの種類の労働の成果のうち、ソフト部分の労働を行う労働者は、彼らを雇用する資本家が、「著作権法」に護られて、ソフト商品を実際の価値よりも遥かに高い価格で販売して得た利益の幾ばくかの分け前を与えられるために、比較的高額な労働賃金を得ることができるが、ハード部分を製造する労働者は、彼らの生み出す価値が一つ一つの商品すべてに同じだけ含まれているにも拘らず、ぎりぎりの低賃金しか与えられず、絶えず失業の恐怖にさらされるのである。

 本来、両者の労働は社会的に必要なものを生み出すという意味で連結されて、ともに生産物の使用価値を生み出すための必要労働であるにも拘らず、資本家たちは、商品市場を前提とした私的利益追求という視点からしか、商品の価値を見ようとしないために、価値の実体を見ることができず、こうして本来は一体化されているべき労働が分割され、畸形化されてしまうのが資本主義生産様式の労働の特有の形態なのである。

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