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2012年7月8日 - 2012年7月14日

2012年7月13日 (金)

America is made in China

 今朝のNHK BS国際ニュースで、アメリカのオリンピック出場チームの着るユニフォームがすべて中国製であるという事実が伝えられ、それに対する非難がTwitterなどで盛り上がっているというニュースがあった。アメリカ人の多くは、特に「愛国的アメリカ人」はこの事態に大変な憂慮と危機感を表明し、何としてもユニフォームをアメリカ製に切り替えて出場させたい、と息巻いているそうだ。

 私はこのニュースを見て、笑ってしまった。ひょっとして日本チームのユニフォームも中国製かもしれない。もしそうだったらきっと石原都知事などは「許せん!」というに違いないと思った。

 どちらにしても、これが現実なのだ。いま「先進資本主義国」と言われている、アメリカや日本、ヨーロッパでは、すでに自分たちが日常生活で使うモノはもちろんのこと、パソコン、クルマ、スマホ、デジカメなどいわゆるハイテク製品と言われるモノのほとんどが自国では作れなくなっている。そのもっとも大きな理由は、労働賃金の水準が高いからである。

 アメリカの産業界の有力者たちとオバマ大統領の討論を報じた、昨年春のあるTV番組で、オバマの隣に座ったアップルのスティーブ・ジョブス(当時はまだ生きていた)に、オバマが、「モノづくりが再びアメリカの戻ってくることはあるのでしょうね」と問いかけたところ、ジョブスは「2度とないでしょう。中国でのように、アメリカの十分の一以下の賃金で働く膨大な数の労働者がいて、瞬く間に最新の製造設備を集中させ、すぐに優れた技術を身につけることのできる優秀な労働者を集めることなどいまのアメリカでは到底不可能です」と言ったそうである。

 いまのアメリカのオリンピック委員会よりもジョブスの方がはるかに現実をよく知っている。

 しかし、そのアップルが中国でMacBookやiPad, iPhoneなどのほとんどを製造させている企業(台湾資本の企業)では、その労働条件の過酷さから自殺者が続出しているのである。

 これがいまの「グローバル資本主語社会」の現実である。その現実とオリンピックチームのユニフォームがアメリカ製でなければならないと息巻く連中との間にある、この驚くべきギャップ、そして彼らの現実感覚のなさに、私は思わず笑ってしまったのだが、その後で、これは笑って済まされるような問題ではないと感じた。

 日本の多くの若者、そして「若者文化」を造り出していると自負するデザイナーたちもやはりこうした連中と同じ水準なのではなかろうかと思うからだ。この上滑りする安っぽい文化とそれを支えている資本のもたらす驚くべき矛盾の根底にある真実を見るべきある。

 デザイン界の「オピニオンリーダー」たちの様に、驚くべき低賃金で過酷な労働に耐えている製造部門の労働者たちを忘れて「デザインによってよりよい社会をうみだそう」などというべきではない。デザイナーたちは自分たちがいかなる状況に置かれた頭脳労働者であるのかを知るべきであろう。

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 上にに書いただけでは、誤解される恐れがあるので、追記をすることにした。中国でもいまヨーロッパ市場が不調であることや、アメリカも日本も「景気」がよくないため、輸出が伸びず「経済成長」が7%台に下がった。中国国内では、物価が高騰し、労働者の賃上げ圧力も強まり、外国資本がミャンマーなどのさらに労働賃金の安い国へと流出し始めている。そこで中国政府は、国内需要を活性化させることで「成長」を維持させようとしているようだ。しかし、ここには、一つの大きな矛盾がある。国内需要を活性化させるには、労働者階級の「購買力」を高めなければならず、そのためには労働賃金を相対的に上げねばならない。一方、グローバル市場では、労働賃金がさらに安い国々で作られた商品が市場に登場し、中国製の商品はそこでの競争力を失って行くことになる。

 そこで中国では、省エネ家電やエコカーなどの高付加価値商品に力を入れようとしているが、これまでの急成長政策で国内の労働者の格差は増大し、こうした高付加価値商品を買える人々はいわゆる富裕層に属する人たちしかいない。国内的な労働者階級の格差は民族問題という形でも爆発しており、政府はそうした国内的な矛盾から労働者階級の目をそらすために、対外的な領土問題などによってナショナリズム的感情をあおり立てているようだ。

 元はといえば、鄧小平以来の「改革開放」政策で、外国資本を導入して、生産技術を吸収し、自国の農民や労働者の労働力をグローバル化した資本のもとに提供したことがそのような結果をもたらしたのであるが、いまの共産党政府にはそれに対する反省は何一つない。

 中国の「高度経済成長」でもっとも大きな利益を獲得したのはそこに進出したグローバル資本家たちとそれを導いた中国共産党政府の官僚たちであって、もっとも過酷な労働と搾取にさらされたのは、他ならぬ中国の労働者階級と農民たちなのである。

 彼らは、いまやかつての日本製品に近い高品質の製品を生み出す能力を身につけ始めたにも拘らず、やがていまの日本の労働者と同じ運命をたどることになるであろう。過当競争と過剰消費によってしか生き延びて行けないグローバル過剰流動資本のもとで、自ら臨んだわけでもないのにエネルギーの無駄使いや環境破壊の従僕としてこき使われ、見たことも聞いたこともない小さな島の帰属をめぐって「上からの」キャンペーンで「侵略者日本をぶっつぶせ!」と叫ばされ、日本の労働者階級からも総スカンを食っているという悲しい事実を知るべきであろう。

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2012年7月11日 (水)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(9)

 先日このブログで書いた、7月4日のある購読会(研究会)での私の講演「マルクスの価値論をめぐって」に関する、主宰者のAさんからの質問状とそれに関する私の回答書をアップロードファイルで紹介したが、この回答に関してAさんから再び質問書が来た。その質問書は、以下にアップロードしてある。

http://pga00374.cocolog-nifty.com/ValueDiscussion2.pdf

 また、それに対する私の回答書は以下にアップロードしたのでご覧頂ければ幸いである。

http://pga00374.cocolog-nifty.com/ValueDiscussion2ANS.pdf

 ここでは、その一部のやり取りを載せるに停めておこう。

0)などの番号はAさんの質問、*はそれに対する私の回答である。

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0) まず最初の問題ですが、「交換価値によって表現される価値」と単純に「交換価値」の違いは何か?

* 単純な商品交換の場において、A商品所有者とB商品所有者の間で、交換が成り立つ場合、おそらく両商品所有者の主観的価値観による、A=Bという関係が成り立っていると考えてよいと思います。もちろん、AとBは異なる使用価値を持った商品でなければ交換する動機はありません。そして具体的にはA商品のある量とB商品のある量が「等価」であると二人の商品所有者の間で合意されて初めて交換が成立するわけですが、ここでの「合意」は交換価値が等しいということであると言えます。しかし、これはあくまで両商品所有者のいわば主観的合意であって、一般的なものではありません。そして実はこうした主観的合意に基づく交換が何十回も何百回も世の中で繰り返される場合、そこに全体として、交換価値の背後にあって、それを規定しているその本質としての「価値」が存在すると考えてよいと思います。これが、マルクスの言うところの「それらの商品を生み出すに要した抽象的人間労働」の量であるといえると思います。

 ですから、交換価値は、価値の現象形態であって、価値は交換価値によって表現されるものの本質であるという風に言えると思います。

A様のおっしゃる、「別物」の意味ですが、ここでは、交換価値と価値は、その現象形態と本質という意味で抽象のレベルが異なるが、本来は同じものであると言えるのではないでしょうか?

 質問 0.6)での柳生様の引用「第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一物を言い表している。第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の表現方式、すなわち、その現象形態でありうるに過ぎない… (交換される)1クオーター小麦にも、同様にaツエントネル鉄にも同一おおいさの、ある共通なものがある…したがって二つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の二つのもののいずれでもない」という部分です。

* この部分の前回の私の回答書ではこうなっております。

「一定の商品、1クオーターの小麦は、例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金、等々と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は、唯一の交換価値の代わりに多様な交換価値をもっている。しかしながら、x量靴墨、同じくy量、同じくz量金等々は、1クオーター小麦の交換価値であるのだから、x量靴墨、同じくy量、同じくz量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しいおおいさの交換価値であるに違いない。したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一物を言い表している。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の表現方式、すなわち、その現象形態でありうるに過ぎない。」(向坂訳岩波版p.47-48)

という部分で、上記のことは、明解に記述されていると思います。私の理解では、次のように言えると思います。

(1)交換される商品は互いに異なる「質」としての使用価値を有している。

(2)しかし、交換が成立するためには、両者の使用価値の異なる量(例えば、1クオーターの鉄、20ヤールのリンネルなど)においてではあるが、両者に何らかの「同じもの」が表現されているはずである。

(3)その「同じ物」は、直接的には「交換価値」として表現されているが、その背後にある本質は、それを生み出すに要した抽象的人間労働の量である

 マルクスがいう「交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値(valeur intrinseque)というようなものは、一つの背理(contradictio in adjecto)のように思われる。」は、向坂逸郎氏の訳のまずさもありますが、(valeur intrinseque)とマルクスがフランス語で表現している言葉は、英語的にはintrinsic valueであり、そこには「固有の」という意味よりも「内在的価値」という意味合いが強いと思われます。固有の価値はむしろ使用価値を意味するはずですが、ここで言われている「内在的価値」は、交換価値がその交換相手によってさまざまな量で表現される、という意味での「内在的価値」なのだと思います。したがって、マルクスはこの一見矛盾しているかのように見える交換価値の意味について、より深い観点から分析しようとしているのだと思います。

 その結果抽出されるのが、さまざまな交換相手において、等しい交換価値という関係を生じせしめている「第三のもの」で、その背後にある本質規定としての「価値」であるということだと思います。

 前回の私の回答書での引用、「商品の形態的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、したがって使用価値にする限りにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において、商品の交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象である。この交換価値の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。」(向坂訳岩波版p.48-49)で、A様は、「したがって、等しい交換価値を有する商品群は等しい使用価値を有する」とおっしゃるのは、誤解です。異なる使用価値をもった商品群が、使用価値の相違にも拘らず、ある一定の量的関係による交換を成立させる、という意味であって、等しい使用価値の商品が交換されるということはあり得ないし、矛盾であると思います。

以下アップロードファイルを参照していただきたい。

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2012年7月10日 (火)

閑話休題:2002年1月5日の日記より

 ハードディスクに入っていたふるいファイルを整理していて、いまから10年前の日記を発見した。当時自分はこんな気持ちだったのかと思う。くずかごに捨てるつもりだったが、当時の心の記録としてここに残しておこうと思う。

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2002年1月5日

 今日は昨日の続きではない。突然別のことを書くことにした。

人が宗教を信じる瞬間というものが、あるときに理解できたような気がすることがある。

 そこには一種名状しがたい気持ちの高まりがある。真冬の夜空に星を見ていて、この何万光年はなれた世界がかつて確かに存在し、それをこの僕がこうして見ている。この星からは絶対に僕という存在を見ることができない。しかし僕はこうして存在する。そのとき宇宙のどこからかかすかなひとつの楽音が聞こえてくるような気がした。僕はこの大自然というものが全存在を内部に包み込みながら同時に一つ一つの存在の内部にまで入り込み、この僕の細胞や血液のなかにまで滲み通っていることを感じた。自分が苦しんだり悲しんだりすることは、結局この僕の中に浸透した宇宙の成せるわざなのだと知った。

 それはやむを得ないことといえばそうだったに違いない。だが僕は自分の意志で苦しみ悲しんできた、すべてが僕から奪われてしまうときがきても、それはきっとやむを得ないことなのだ。だが、僕は自分の意志で生き、そしてきっと自分の意志ですべてが奪われることを許すことになるのだろう。やがて夜が明けて空は白み、星が見えなくなっても、この深い闇と遠い星は宇宙に存在し、そしていつも僕の意志で僕を悲しませる。聞くことのできない音楽がいつも僕の耳の中で奏でられているように。見ることのできない姿がいつも僕の脳に映っているように。見えない宇宙の摂理がそれを僕の意志でさせようとしている。

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