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2012年7月15日 - 2012年7月21日

2012年7月21日 (土)

NHK福島原発事故追跡ドキュメントを見て

 さきほどNHK-TVで福島原発事故追跡ドキュメント「メルトダウン連鎖」を放映していた。2号機のメルトダウンから格納容器一部破壊に至る過程と3号機が水素爆発を起こすまでの現場での切迫した状況を再現したものであったが、いずれも、こうした危機状況が起こることを想定していなかったための基本的ミスが原因であったことを暴いていた。

 津波による電源破壊で冷却水の供給が止まった際、過熱した炉内の水蒸気を外部に逃がして炉の破壊を防ぐSR弁が作動しなかったことの原因が、炉内の水蒸気の圧力が上がり、弁を開けるための窒素ガスの圧力を超えてしまって弁が開かなくなったという、そしてさらにメルトダウンして炉内から漏れだした核燃料が格納機内にたまり、格納機の圧力が高まり爆発を防ぐためのベントもそれに送る圧縮空気を送るパイプが地震で破壊されていたために不能となり、格納容器の一部が破壊され大量の放射線物質が外部に排出されたということらしい。また3号機のメルトダウンから水素爆発までの間に危機的事態を救うために必要な緊急物資がほとんど現場に届かなかったのは、危険地域にそうした物資を運び込むためのシステムができていなかったためらしい。いづれも何ともお粗末な基本的設計ミスであったようだ。

 原子炉に関しては、同じ機構を用いている原発が国内に26カ所もあるらしい。そしてこの原因がきちんと解明されない時点で原発は再稼働されたのである。

 再稼働に反対する人々の首相官邸付近でのデモはこれまでで最大規模にふくれあがった。しかし、日本商工会議所をはじめとした産業界、経済界の再稼働推進派の立場を擁護する野田首相と自公「連立」政権はこれを無視して再稼働を強行した。そして何と、労働者階級の代表組織であるはずの「連合」までもが、この政権を支持しているのである!

 廃炉に40年を要するという福島原発は、いまだ不安定な状況にあって、再び大きな地震があれば、危機的な状況が再来するであろう。

 世界で唯一、核兵器による無差別攻撃を(しかも2度も)受け、数十万の生命を失ったたわれわれが、こうして再びおろかな選択をすることになったということ、そしてそういう政治家を「民主主義的選挙」でわれわれ自身が選出してしまったということを次世代を担う若い人々は「嘆かわしい事態」として肝に銘じておくべきであろう。

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2012年7月19日 (木)

日本商工会議所の原発推進見解を突く

 政府が行った、「2030年での全電力需要に対する原発依存度を、0%、15%、20〜25%のうちどの選択肢を取るか」というアンケートに対して、日本商工会議所は、「このアンケートは、経済成長率を1%として想定したものであり、実際には2〜3%の経済成長がどうしても必要なので、この選択肢のすべてが現実的ではない」という見解を表明し、この立場を経済界全体が支持することになりそうだ。

 この一事を見ても、「経済界」の本質が実によく分かる。つまり、彼らにとって、すべては「経済成長」のためであり、人々の生活などは、そのための手段でしかないことが見え見えである。もし彼らにそのことを問えば、きっとこういう応えが返ってくるであろう。「経済成長がなければ雇用の増大もないし、政府の税収の増加も見込めない。そうなれば人々の生活が脅かされることは必至ではないか」これはいま、党の分裂をも顧みず消費税を上げようと必至になっている野田政権の立場そのものでもある。

 さて、考えても見よ、ここ何十年か、政府は「経済成長」を押し進めてきた、しかし、それによってわれわれの生活や人生が豊かになったであろうか? 1990年代末から2000年代初めにかけてのバブル崩壊で「経済成長」が縮小した時期から、やがて2008年頃には「経済成長が回復しつつある」と政府は公言していた。しかし、その後、雇用は一向に改善されず、ますます失業者が増えている。たとえ雇用が増えても、その内容は、過酷で不安定な労働であり、資本の成長のための「道具」とされた労働者のストレスと自己疎外に充ちた生活を生み出しているだけではないか!

 ここ数十年、懸命に働いてきた労働者たちは、その労働力を使い果たしたのちに、それに報いる充実した生活にたどりつけたであろうか。断じて否である。

 いまや日本商工会議所や現政府のいう「経済成長」とは誰のための「成長」か明白ではないか。資本家階級のためだ!労働者階級は、かれらのために何十年もの間、その労働力を彼らの富を増やすために搾取され続けてきた。そしてそこから搾取された富は、次々と無駄な消費を生み出しつつ、いまやグローバルな過剰流動資本となって、世界中で投資や投機の対象となり、世界中の国々の社会を混乱に陥れている。

 われわれは、そんな「経済成長」は決して望まない。われわれの望むのは、充実した人生を送れる社会であり、充実した生活である。ここでいう充実とは、資本家たちによって生み出されてきた、無駄な消費とエネルギーの浪費を促進させながら、生活をガラクタのようなモノたちで溢れさすことでは決してない。

 われわれが望むのは、必要なモノを必要なだけ作れば足りる「コンパクトな社会」である。そこでは「必要」の中身が重要であり、個人にとっても社会にとっても普遍的な意味をもつ「必要」である。

 そういう社会をつくっていくためには、資本家たちのいう「経済成長」などまったく必要がないし、まして「経済成長」のために必須の条件と言われる原発などまったく必要もない。むしろあってはならないものである。

そして「持続可能な経済成長」などという矛盾にみちた虚言に騙されないことが必要だ。持続可能な社会をつくるためのはむしろ「経済成長」は不要であり、障害でしかない。

 資本家イデオロギーによる偽りの「経済成長」幻想から決別しよう!そしてそのために原発全廃を第一歩として、そこから新しい社会システムの建設にむけて前進しよう!

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2012年7月18日 (水)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(11)

 mizzさんから新しいコメントを頂いた。

 前回のブログで、私が少しいらだち感情的になっていたことへの諌しめでもあり、私への励ましでもあると受け止めました。mizzさんは、「社会科学は科学ではない」という人たちに対して、次の様に言っています。

「この話は、将棋理論や麻雀理論ではなく、実生活、実社会、実歴史の理論であって、趣味やゲーム・賭け事の話ではないのである。避けることは何人もできはしないのである。投票や民主主義も歴史の産物に他ならないが、どうでもいいと思っていても、その成果を捨てることはできはしない。投票に行かなくても、他人の投票や、他人の投票妨害に影響される。やはり今度は投票しようと考えることになるだろう。これが社会科学理論であって、その理論的追究も人間が生きている限り続く。民主主義の理論に発明者名はないが、小学生でも知っている真理であろう。」その通りだと思います。そしてさらに「理解してもらうまで、続く一つの作業なのである。野口さん、いつものように続けるだけのことです」と。うれしい励ましです。

 mizzさんの励ましに応えて、マルクスの価値論をめぐる問題をさらに続けようと思う。

 価値論という経済学の基本問題は、実は、いまわれわれの眼前で起きている重大問題と深く関わっている。

 例えば、いま、モザンビークなどアフリカの豊かな農地をもつ国々で、欧米や中国による農地の収奪が急速に進んでいるそうだ。何千年も前から生活してきた多くの住民たちは、土地を追い出され、生活の糧を失っている。土地を収奪しているのは、グローバル農業資本家たちであり、彼らの思惑は、やがて世界的供給不足になることが確実な農作物の生産手段(つまり農地)をいち早く収奪し、これを資本化して食料品輸出でぼろ儲けをしようというのである。しかもそれが「国家的戦略」の一環として国家規模で行われている。まるで19世紀末から20世紀初頭にかけて激しかった植民地争奪戦(その結果があの第一次世界大戦である)のような醜い国家エゴが世界の食料品調達の名の下に行われているのだ。

 この問題では、次の様なことを知っておく必要があるだろう。もともと大自然の一部であり、基本的に労働生産物ではない土地(荒れ地を豊かな農地にするまでに要した多くの労働力を考慮に入れるとしても)が、あたかも商品のように価格が付いて売買されるということは、実は、その土地の価格が価値によらず、買い手と売り手の関係のみによって勝手な恣意的価格で売られるということを意味する。モザンビークの農民たちはおそらく、彼らが長年住み続けてきた土地を、ほとんどタダ同然の価格で売ったであろう。

 彼らをそうさせたのは、彼らの生活が商品経済のメカニズムに取り込まれつつあり、現金収入がなければ生活ができなくなりつつあったという状況であろう。彼らが組み込まれつつある商品経済社会(つまり資本主義社会)においては、こうして大自然の産物であり人間の労働による産物ではない(したがって本来商品になり得ないものである)土地や人間の労働力それ自体を「商品」化することによって、大自然そのものを資本の利潤追求という飽くなきエゴの餌食にしていく。

 そしてそれは同時に、人々の生活が、自立した自給自足の経済システムによるのではなく、グローバル資本の市場の中にいやおうなしに組み込まれ、それに依存することなくしては生きて行けないようにさせるのである。

 そしてその資本の利潤追求の渦中にいる人々(資本家の意図を代行する人々)にとって、それは「普遍的経済法則」として何ら疑問を感じさせないようだ。こういう人たちに対して、「あなた方が支配されている経済法則つまり卑俗なコトバで言えば市場の法則は、あなた方が日々実行者として押し進めている行為の産物なんですよ」と言ったところで理解できないのは当然であろう。資本家にとっては「利潤を生み出すもの」として映り、賃労働者や農民にとっては「奪われた能力や奪われた生産手段の体化物」である商品の「価値」とは一体何なのか?これが問題なのである。

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2012年7月15日 (日)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(10)

 mizzさんから前々回のブログに関するコメントを頂いた。mizzさんのおっしゃる様に、Aさんは「価値」という語の既成概念があるためにマルクスの導きだした価値が理解できないでいるようです。たしかに、向坂訳の分かり難さと私の引用のまずさも理解の妨げになっていたようですが、私はAさんのもっとも重大な問題点は次の様な点にあるように思えます。

 Aさんは、あのときの私の講演のあとで、数学や物理学においては、その歴史的過程の中で、見いだされ、体系化されてきたものが、誰が見ても分かる形で記述されている。数学や物理の世界では、さまざまな定理や論理を見いだした人の名前が付されているが、その名前を忘れてしまっても、その論理の正しさは誰の目にも明らかなものとして歴史の中で残って行く。しかし、社会科学は、ある理論を唱えた人への「共感」が大事であって、それがなければ「理解」できない場合が多い。その意味で社会科学は本来の意味で「科学」とは言えないのではないか?と言っていたのです。

 私は回答書の中で、次の様に書きました。

「総じて私が考えますに、マルクスを理解するには、まず、いまの資本主義社会において「当たり前」と思われていることの背後に実は「当たり前でないこと」があるということに気づくことが必要であると思われます。これに気づかぬ人にマルクスの考えをいくら説明しても理解してもらえません。しかし、いったんそういう事実に気づき、そのような視点でマルクスを捉え返してみると、彼の分析がいかに鋭い物であり、現代社会の矛盾を根底から解明しようとしていることが見えてきます。

 私はある理論を理解しようと思う「理解の端緒」はそのようにして始まり、したがってまだマルクスの理論の全貌が分からなくともそれを何とか理解しようとするモチベーションが保たれるのだと思います。それはAさんが以前おっしゃっていた、「社会科学における理解はむしろ共感なのではないか」ということに当たるかもしれません。分からないなりにマルクスの意図を共有し共感を深めながら理解を深めて行くということが、ない限りこういう理論は理解できないのかもしれません。そういう意味で、今回のAさんと私の議論には、立場の基本的な違いがあるのかと思う様になってきました。」

 最後の部分は、私がAさんへの、ある種の怒りを表明しているのですが、Aさんはこの部分を読んで、やはりマルクスにシンパシーを持った人間でないとマルクスの理論は理解できないのだ。と思ったかもしれません。

 しかし、私が本当に言いたかったことは、次の様なことです。

 ある既成概念による世界観が普遍的であって、それこそが本来の理論の基盤になる世界だと信じていることが、土台から揺り動かされることがない限り、人はその中ですべてを理解しようとする。少しでもナイーブで人間的感性の鋭い人は、この既成概念の内側の世界があちこちで大きなほころびを見せ、ひどい矛盾が噴出していることに気づくのですが、すでにステータスを得てその世界に安住している人たちはそのほころびや矛盾をできるだけ見ない様に努めるか、あるいは自分がもっている既成知識の内部でそれを「理解」しようとするのです。

 だからこういう人たちに既成概念をはるかに超えた真理があることなど理解できないのでしょう。Aさんは顔にこそ出しませんでしたが、マルクスや宇野弘蔵の理論を「理論」とは思ってもいないことは明らかです。だからこういう人たちにマルクスの価値論を分かってもらおうと思うことはそもそも無理なのだということがよく分かりました。

 Aさんは数学基礎論が専門のようですが、彼の「信じている」数学的論理が、いかに多くの「暗黙の前提」のもとで組み上げられた体系であるかを私は知っています。彼らが「信じて」いる論理実証主義は矛盾だらけで、しかもそれを基礎として生み出されたいまのコンピュタ・サイエンスが暗黙のうちに持っている論理的矛盾は、彼らにはまったく見えていないのだと思います。彼らのいう「抽象クラス」や、Trueの「否定」がFalseであるなどという論理はおおよそ本来の抽象や否定(マルクスが価値論において駆使している弁証法的論理)とかけ離れたものだと思います。彼らには、資本が、資本家の利潤獲得視点による労働の抽象化(収奪という具体を貨幣という価値体に抽象化している)にもとづくその否定、(つまり同じ物が対立している状態)であり、一方の極にある資本家に私有化された労働の成果を、他方の極にあってそれを生み出した無産労働者が取り戻すことでしかその否定が具体的に止揚されることがない、という真理は到底理解できないものだと思います。

 私のマルクスへのシンパシーは、宗教的「信心」などと決して同じものではなく、この矛盾にみちた資本主義的世界観の内部にどっぷり浸かっている人たちからは理解することが難しい、より深い真理をマルクスがわれわれに解き明かしてくれていることへのシンパシーです。

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