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2012年7月22日 - 2012年7月28日

2012年7月27日 (金)

閑話休題2:藤原智美の笑えるジョーク!

 あるサイトでの話題。最近、電車内で暴言を吐いたり、いわゆる「暴走老人」が増えたそうです。それについて、あるサイトで、ジャーナリストの藤原智美とかいう人が書いた、ある日刊紙の5月12日の記事を引用して次の様に「分析」している。

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 現在の老人の死生観は我々と全く異なる。そのうえ人間関係が希薄なため暴走しやすい。暴走する老人事情に詳しいジャーナリスト・藤原智美氏によると、「すぐキレる」老人が急増した背景には、この世代が育った環境の問題が影響しているという。「たとえば今の70代は’42年以前生まれで、人格形成の最初期に終戦直後の混乱を味わっている。家族や知人が死んでいく様をリアルタイムで見ているため、死生観が我々とは大きく異なるのです」

 まさに生きるか、死ぬかの二元的世界観が形成されたのだ。また、青年期を’60年代に過ごしたことも、破滅的な人格形成の大きな要因だという。映画などでは美化されているが’60年代とは、貧困と暴力が横行していた。その中で成長過程を過ごし、人間的にタガが外れてしまっているのだという。

 対処法はあるのだろうか?

「とにかく今の老人は人間関係が希薄。社会的にも孤立しており、話し相手が近所のスナック常連だけといった人が腐るほどいます。下の世代としては、交友関係を広げてあげるよう手助けしていくことが必要です」

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ウ〜ム、ちょうどその世代に当たる私なんぞは、そういう目で見られているのかといささかムズガユク感じ、そののち、ハハハと大笑いしてしまった。「人格形成の最初期に終戦直後の混乱を味わっている」のは確かだが、「生きるか、死ぬかの二元的世界観が形成された」とはチト大げさな!

 戦争直後の日本は、空襲で街は焼失し、食料もなく、毎日虫のついた古米や、配給される沖縄100号とかいうまずいサツマイモが主食だった。しかし、私にとって、もう空襲の心配がない世界は、とてつもなく開放的で明るかった。だから少年時代は近くの川にザリガニ取りに行ったり、古ハガキで飛行機を作って友達と飛ばしっこをやったり、ターザンごっこで木に登ったりと、毎日がとても楽しかった。

 まして「青年期を’60年代に過ごしたことも、破滅的な人格形成の大きな要因だという。映画などでは美化されているが’60年代とは、貧困と暴力が横行していた。その中で成長過程を過ごし、人間的にタガが外れてしまっている」などという「分析」はぜんぜん当たっていない。

 私の同世代には横綱大鵬、ジャイアンツの王選手、ビートルズのジョンレノン(彼は日本人でないから関係ないかな?)、ついでにいえば写真家の荒木経惟などがいる。彼らはそれぞれ一癖も二癖もあるが、「人間的にタガが外れてしまった」「破壊的な人格」だといえますか?

 たしかに私なんかは多少「人間的にタガが外れてしまっている」部類に入るかもしれないが(笑)。

 そして60年代は第一次安保闘争の時代であり、その10年後は70年安保で学生運動が盛り上がった時代であった。この時代はいまと比べれば、比較にならないほど、若者にエネルギーがあった。つまり自分たちの力で世の中を変えることができると信じていたのである。そういう意味では、「60年代とは、貧困と暴力が横行していた」などというのはウソっぱちもいいところである。たしかに70年代の学生運動では、一部の党派間でいわゆる「内ゲバ」などがあったが、それはあくまで思想的な対立であり、昨今、起きている秋葉原事件、アメリカでの銃乱射事件、ノルウエーの小島での銃による大量殺人などのような、無関係な他者を無差別に大量に殺す様なおそろしい事件は起きなかった。いまの方が遥かに暗く鬱屈した暴力と格差による貧困が深まっているし、破壊的な人格が形成されやすくなっている時代とは思いませんか?

 われわれ世代の老人が「切れる」のはむしろいまの若い人たちにもっと未来を生み出そうとするエネルギーをもってほしいという「じれったさ」があるからだ、と言った方が当たっているのではないだろうか?

 それはともかく、藤原智美さんとやら、老人の交友関係を広げてくれるのは結構ですが、ジャーナリストならもう少し、深い人間観察と歴史観・社会観が必要なんじゃありません? でないとわれわれ世代の老人からはジョークとして笑い飛ばされてしまいますよ!

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2012年7月26日 (木)

閑話休題:笑えぬジョーク

 mizzさんから「日本商工会議所の原発推進見解を突く」にコメントを頂いた。私は普段あまり「にちゃんねる」やTwitterを見ないので、こういういろいろなジョークが飛び交っているとは知りませんでした。民主党の次期選挙キャッチフレーズとして、「国民の生活が二番じゃダメなんですか?」「最低でも国民生活は圏外」は傑作ですね。草の根からほとばしり出た、この笑えぬジョークは期待を裏切られた人々の怒りの表現でもあるわけでしょう。

 「コンクリートから人へ」とか言って勇ましかった政権交代直後の民主党は、沖縄の基地を「県外」どころか1センチも動かすこともできず、東日本大震災と福島原発事故という大きな自然災害と人災を経ても、その後われわれの生活に何も新しい状況を生み出すこともできず、結局、自公政権と同様、増税と「経済界の活性化」を待たなければ、何もできないということを暴露した。

 日に日に高まる政府への不信と抗議デモへの参加者の増大は。いまひとつの歴史的転換点にあることを感じさせます。

 しかし、このデモがいわゆる市民感覚だけで盛り上がっているうちは、支配階級はそれを単なる「ガス抜き」としか見ないでしょう。

 デモがむやみに「過激化」する必要はないでしょうが、このボトムアップ的パワーをもっと実力あるものにしていく必要があるように思います。

 例えば、国際市場での競争に明け暮れ、株価や為替レートに一喜一憂している資本家たちによって、それとは本来何も関係のないわれわれの日々の生活が脅かされるという不条理に対抗するために、生活必需品の生産と消費を直接結ぶネットワークを広げ、資本市場のネットワークとは別の、生活ネットワークを作って行くことも一つの可能性であるように思います。

 資本家の商品市場での取引に対する消費税が増税されても、このネットワーク内でしか用いられない「特殊通貨」であれば、それに課税される理由は何一つありません。資本家的企業が倒産して解雇になっても、この草の根生活ネットワークで一定の役割をもって働いていれば、それに見合った生活資料を受け取ることができる。

 本当の意味でのボトムアップ的社会を目指すのであれば、こういう視点から出発するのもいいと思います。

 そして支配階級が勝手な政治を行おうとすれば、そのときには「底辺の実力」をもってこれに対抗できるようでなければ、本当に世の中を良くすることなどできないと思います。

 やがては、このボトムアップネットワークが社会の運営主体となり、無駄な国際市場競争やそのために強いられる過酷な労働、そして無駄な浪費による「経済活性化」とそのために必要とされる原発推進などをやらずに、本来の意味での「コンパクトな社会」を生み出して行けるようになるのではないでしょうか。

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2012年7月25日 (水)

「民芸品」と「デザイン商品」の違いについて

 工業デザイナーの深澤直人氏が日本民芸館館長になられたそうである。日本民芸館はご存知の様に柳宗悦氏が設立した民芸品を収集した博物館であるが、そこには柳の「民芸」に対する思いが込められていた。まだ資本主義社会が浸透していなかった時代に生み出された無数の匿名の生活用具のもつ優れたデザインに対する驚きと賞賛の気持である。著名な作家の名前が入った作品がそれゆえに「価値」が高いとされ、商業ベースに乗る様になった近代資本主義社会の中で、それは逆にある真実を物語っていたからであろう。

 私もこの柳宗悦の思想には共感を持っている。そして深澤直人氏の「デザインしないデザイン」も好きである。深澤氏の考え方は以前、その講演を聴いて、現代のデザイナーの中ではある種特異な地位を確立した人物だと感じていた。だから彼が日本民芸館の館長になるのはある意味で当然かもしれないと思う。

 しかし、ここで一歩先に突っ込んで見ると、また違った光景が見えてくる。

 アノニマス(どこかのハッカー集団のことではない)性が取り上げられる様になったのは、工芸作品やデザイン商品などが市場で売買される近代以降になってからのことである。つまり普通に用いられる生活用品が、商品として市場で売買されるようになる以前は、ある地域社会の中で、必要とされる生活用具や食料衣類などは、ほとんど自給自足的な形で作られ消費されてきた。だからそこには生活用品を誰が作ったかということなど決して問題にはならなかった。そこでは、労働手段を含む生産手段は生活者自身のもとにあり、生活者自身が自分たちに必要な生活資料を社会的分業の中で互いに分担して生産し合い需要し合っていた。

 しかし、商品経済が全面化する資本主義社会が形成される中で、資本家により生活者から生産手段が奪われ、そのため生活者が自身の労働力を資本家に売りに出さねば生きて行けなくなり、資本家はその買い取った労働力を自分の所有する生産手段に投入し、すべての生活資料が資本家のもとで商品として生産されるようになったため、生活者があらゆる生活資料を商品として購入しなければならない社会ができあがったのである。

 その中で、作家やデザイナーの名前が付されることによって、高い市場価格で売買される、高級生活用品が登場し、ほとんどの工芸作家やデザイナーはそのような高価な高級生活用品を市場に送り出すために仕事をすることになり、自分の名前(あるいは自分が雇用されている企業)のついた商品が「グッドデザイン商品」として市場に登場する様になることが大きな目標になったといえる。

 しかし多くの平均的水準の生活者にとってそれらの高価な「グッドデザイン商品」は高嶺の花であり、ほとんどの生活用品はディスカウント・ショップなどで売られている名もない企業内デザイン労働者(現代のグローバル資本主義社会においてはほとんどが労働賃金の安い国の企業に雇用されたデザイン労働者)の生み出す量産商品で賄うしかないのである。

 こうした矛盾に充ちた社会で、それに気づいた人々から見ると、初めてそこに、かつての「民芸品」が輝かしい匿名デザインの世界であるという思いが生まれてくるのであろう。

 残念ながら深澤直人氏のデザインは、確かに優れてはいるが、「フツーの生活水準」にある大多数の人々にとっては「高嶺の花」なのである。「無印商品のデザイン」が一つのブランドになってしまうという、笑えぬ皮肉が現代社会の矛盾を象徴している。

 かつての民芸品の様な優れたアノニマス・デザインを社会全体が生み出すことができるようになるためには、少なくともわれわれが普段の生活で必要とする食料・衣料そして生活用具を、われわれ自身が(社会的共有財として)持つ生産手段によって、したがって自分の労働力を売りに出さなくとも、自らそれを生み出せるような生産体制が必須であるといえる。

 そこにおいては、資本主義社会のように生活用品を生み出す目的が「売るため」であり「必要」はその手段でしかないというのではなく、直接必要を満たすことが目的となり、それを生産物として生み出すための労働過程を取り戻すことによってデザイン行為が健全さを取り戻し、デザイン行為が一職能によって独占されたものではなく、あらゆる社会的分業種の中で労働する人々がもつ普遍的能力として、つまりアノニマスな労働過程の一環として捉え直されるようになるのだと思う。

 そして、実はマルクスが考えていた未来社会はそのような社会であるといっても間違いではないだろう。だから私は、そのような本来あるべきデザインを実現させるためには、マルクスの考え方を理解することが必須だと考えている。

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