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2012年8月5日 - 2012年8月11日

2012年8月11日 (土)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(13)

 「マルクスの価値論をめぐってのディスカッション(12)」にmizzさんからコメントを頂いた。mizzさんのコメントの一部をそのままここに引用します。

「資本論は、資本主義的生産体制が作り出す多くの商品をその入口にして、その商品に込められた意味合いを解き明かして行く理論です。それらの商品は、多くの人々の労働から成り立っていて、全労働が全商品を生み出しているという全体から、平均的労働単位の集積が全商品となっていることを説明します。

 さて、個々の商品はそれゆえ、平均的労働単位で表され、その単位量が同等であれば、それらの商品の所有者同士間で、互いに交換に合意することができることになります。そうして初めて労働力商品と賃金との交換の問題や、剰余労働時間の問題に言及して行くことができるようになり、資本の実体を暴き出せるのです。まさに資本主義的生産体制の社会ならではの仕組みが歴史的に登場し、人々を支配する実体と、その社会の進展を描き出して行くのです。社会の変革が必然的に追究されざるを得ない状況を刻々と今も見通しているのです。」

 まさにその通りだと思います。mizzさんや私に理解できて、少なくとも私よりはるかに知能指数の高いであろうAさんに何故、マルクスの言うことが理解できないのか、それが問題なのだと思います。

 それは 、例えば、何が真なのか?という問題に関連しているように思えます。Aさんに代表される、現代科学の基礎を問題にしている科学論の分野で定説とされているように、「論理的に明解(無矛盾)であること」、そしてカール・ポパー等が言うように「反証可能であること」が科学の科学たるゆえんである、という考え方それ自体に矛盾があるのですが(無矛盾であれば反証は不可能)、百歩譲ってそれを認めたとしても、それによって人間の存在や社会の仕組みが解明できるかといえば、"NO"と言わざるを得ません。現代科学は多くの自然界の仕組みを明らかにしてきましたが、われわれの生活や社会の仕組みにある基本的矛盾を明らかにすることは出来ませんでした。

 それは、現代科学が、対象的自然を認識するという人間の思考の側面であって、社会の仕組みの矛盾を認識してそれを変革していくという目的意識的な「実践的立場」の認識と種類が異なるからだと思います。

 私は科学的思考が間違っているとは決して思っていませんが、それのみでは、人間や社会全体を理解することは決してできないと思うし、もっとも重要なことは、「歴史の論理」というものを理解することができないと思うのです。

 なぜ、いま自分がこのような存在であるのか?という疑問を持った場合、なぜそうなったかのか?という疑問に到達せざるを得ません。それは「いま在るもの」は、「歴史的過程の結果」であるからです。そこから歴史的真理への洞察が始まるのだと思います。

 歴史的真理への洞察は、「論理的に明解な」説明を必要としていますが、それは、対象的自然の仕組みとともに、自分自身の内面を含んだ、「実存」の解明を目指すのだと思います。そこにマルクスの論理が必要なのだと思います。

 いかに現代の自然科学の成果がすばらしいものであっても、自分の存在が矛盾に充ちているという「直感(否定的直感)」を自然科学的認識によって「説明」し「解決する」ことはできません。そこには、その矛盾が何であり、それをどう克服していかねばならないのか?という疑問に応えるものが何も含まれていないからです。そこにマルクスの資本論で初めてその新たなスタートを切った、社会科学と資本主義社会とともに生まれ育ってきた自然科学の目指す目的の相違があるのだと思います。

 マルクスの目指す「歴史の科学」は、自然科学をその内部に含みながらより高い次元からの視点で、人間と社会の歴史を射程とし、その目的を内包する科学なのだと思います。

 自然科学は、資本主義社会が生み出した偉大な人類の成果であると同時に、それが結局は暗黙のうちに矛盾に充ちた資本主義社会を「普遍的な社会」と前提するための「論理装置」として機能し、そのために奉仕する手段となってしまっていることに気づくことが重要だと思います。

 核兵器や原発の開発を可能にし、際限なき自然破壊を促進させ、生きて行くために懸命に働く人々から、不当にその労働の成果を収奪し、世界の90%以上の人々を貧困に追いやっているという事実に、そして「国家」という名の下に階級社会の矛盾を覆い隠され、一人一人の人間としては何の恨みも殺意もない相手の国の人たちを戦争という場では殺さねばならなくなるという矛盾に無自覚である以上、現代科学は決して「歴史の科学」の一部にはなり得ないのではないでしょうか?

 Aさんに代表される現代科学絶対視の立場からでは、マルクスの論理が理解できないのは、むしろ当然なのかもしれませんね。

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2012年8月 8日 (水)

マルクスの価値論めぐるディスカッション(12)

 すでに、このブログの「マルクスの価値論をめぐるディスカッション」シリーズでこれまで、11回に渡って書いてきましたが、その後、7月4日に、ある研究購読会で行った私の「マルクスの価値論をめぐって」という演題の発表に関して、その会の主要メンバーであるA氏(数学基礎論が専門で、ある有名ソフトウエア会社の取締役だった人物)からすでに2回の質問状をもらい、それに対する私からの回答を送っていますが、7月19日にA氏から3回目の質問状をもらいました。

この3回目のA氏からの質問状は以下のファイルからダウンロードできます。

ダウンロード Aquest3.doc (62.5K)

 昨日私は、そのA氏の3回目の質問状に対する私からの3回目の回答書を以下のファイルで示すような内容で書き送りました。

ダウンロード HNans3.doc (55.0K)

 少々分かりにくいやりとりかも知れませんが、マルクスの価値論に興味のある方はぜひ、このシリーズの中で何回かにわたってアップロードされたファイルをお読みください。その中で非常に重要な問題がディスカッションの対象になっています。

前回までのやりとりは以下のファイルでご覧になれます。

1番目の解答書

ダウンロード ValueDiscussion.pdf (160.7K)
2番目の質問状
ダウンロード ValueDiscussion2.pdf (143.0K)
2番目の質問状への回答
ダウンロード ValueDiscussion2ANS.pdf (188.2K)

 私は、このディスカッションを通じて、ひとつ考えさせられたことがあります。それは、近代資本主義社会の成立とともに現れ、近代科学と、その発展形である現代の科学を基礎で支えている「論理」(A氏のいう「標準論理」)が、いまの社会ではいかに「普遍的な論理」として確固とした座をかちえているか、ということと、同時にそれがいかに近現代科学の矛盾を覆い隠しているかということです。
 ヘーゲルからマルクスへと否定的に引き継がれた弁証法的論理が、資本主義社会では隅に追いやられるのは、いわば当然かも知れませんが、それがあたかも自ら「標準論理」であると確信している人々に、その歴史性を突きつけ、その歴史的変革における無力性を自覚させるまでにはまだ時間がかかりそうです。
 マルクスの弁証法的論理が新しい「標準論理」に成長するためには、それを土台で支える社会の変革が必要であり、同時にその論理が社会的変革への強力な武器になるだろうと思います。
 マルクスの価値論で展開されているような弁証法的論理がわれわれにとって「難解」であることは事実ですが、そこに内包されている、新たな歴史を生み出すであろう強力な論理の力を、自らの理解として獲得しようとする意欲は消し去ることはできません。
 残念ながら私には肉体的にも精神的にも残された時間がそう長くはないことを感じます。しかし、私という個人における普遍への実現過程は、必ずや次世代の人々の実存の中へと引き継がれていくものと信じています。

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2012年8月 5日 (日)

CogSci 2012に参加して

 アメリカの認知科学会を中心としたCognitive Science 2012という国際会議が札幌で開催され、私の所属する日本認知科学会も共同主催者側なので、メンバーアブストラクト発表という形でのポスター発表を行ってきた。参加者はおおよそ300人位であったと思われるが、その70%位はアメリカ人とヨーロッパ系の研究者で、残り30%位が日本人や中国、韓国、台湾などのアジア系の研究者であったと思われる。

 キーノートスピーチやラメルハート賞記念講演などは型どおりで、アメリカ人特有の早口で聞き取りにくい英語のせいでキチンと理解できていなかったためもあるかもしれないが、大して目新しいものではなかったように感じた。全体の中では、これまで主流であった、科学的手続きによる実験を主体とした実証研究やコンピュータ・サイエンス的な視点の研究がそろそろ行き詰まりに陥っているのではないかと感じられた。

 私のポスター発表は、"What is the trial-and-error process in design thinking?"というテーマだった。デザイン思考を人間のものづくり(つまり生産的労働一般)において見られる人間特有の思考の核になる部分と見て、それを主体の内的世界とその外側にある外的世界の間で、媒介物を介して行われるやりとりとして捉える旧ソ連の心理学者L. S. ヴィゴツキー(1920-30年代に活躍し若くして逝ってしまった天才的心理学者)の考え方を下敷きにした「デザイン思考単位」という仮説モデルを提案し、その仮説モデルのらせん的繰り返しとしての試行錯誤モデルを提案した。

 ヴィゴツキーの「思考単位」では主体と客体が対立項として描かれそれを媒介する項がいわゆる「道具」として位置づけられている。この媒介関係は例えば人間の言語活動がその典型である。ヴィゴツキー流にいえば「道具としての言語」である。ヴィゴツキーは当然、マルクスの労働過程論を念頭に置いてこのモデルを考えたと思われるが、しかし、私はそれをもう一歩唯物論的に深めて、主体自身が客体の一部であって、その内的世界と外的世界の間で内面の「リプレゼンテーション(内面の外化)」としての媒介項を通じて機能的な関係(つまり目的に対する手段の関係)を形成しながら、外的世界に働きかけつつ主体の内面自体をも変化させていく過程として考えた。(これについては、以下をクリックして、ダウンロードすることができます)

ダウンロード CogSci2012HN.doc (922.0K)

 これを1サイクルのデザイン思考単位として人間の生産的思考の核と考え、その過程で問題解決案として内面の思考が外的にリプレゼンテーションされ、具体化されていく過程が試行錯誤であると考えた。

 私がこれまで続けてきたデザイン思考過程の研究の総まとめのつもりであったが、やはりへたくそな英語と知名度の低さから欧米人の目にとまることはほとんどなかったようだ。しかし、何人かの日本人やアジア系の研究者から質問と説明を促され、ディスカッションが出来たのは大変うれしかった。

 このCogSci 2012の印象としては、やはりまだ認知科学という世界はアメリカ主導の世界であって、例えばアップル社のフェローでもあったドン・ノーマンなどのようなインターフェースの研究や、"Computational" というキーワードで示される、ラメルハート、ミンスキーなどに見られるような実践的で産業界に役立つ研究がもてはやされる世界なのだと感じた。

 まして、旧ソ連での心理学の研究などは、カヤの外であり、いまの認知科学研究での「唯物論」はfMRIのような脳科学に基礎を置いた神経生理学的ベースで進んでいるように見える。

 しかし、いくら「外側」から人間の思考や脳を観察しても決して解明できない問題がある。それは、人間がなぜ、ある状況を「問題」として認識し、それを解決しなければならないと思うのか?そしてなぜ、驚くべき能力を発揮してその「問題」を解決してゆけるのか?ということである。これは、人間の問題解決思考のメカニズムを知ることとは、別の次元の問題であると言われるかも知れないが、それなくしては、なぜComputationalな脳のシミュレーション・モデルからだけでは人間の思考が説明しきれないのか、という重要課題に関わる問題であると思う。

 人間のもつこの驚くべき能力は、実は、その普遍的で基本的な「デザイン能力」に一つのカギがあるように思う。それは、今日のような資本主義社会という、歴史の一時期に登場した特殊な、そして矛盾に満ちた社会を構成している職能や分業種の内部に(例えば、デザイナーという職能もその一つである)その能力を閉じ込められ、それら分業種の形に適合できない能力の持ち主を「規格外の人間」として排除していくような社会の仕組みからは、到底育ってこない能力であろう。

 ある場合には、そうした状況に適合できない能力こそが、その社会の矛盾をえぐり出すことができ、その矛盾を根本的に乗り越えて行ける実践的行為としての本来の「デザイン能力」を発揮するものなのではないかと思うからである。

 つまり、人間のもっとも人間的であるとさえいえる「デザイン能力」は、その思考主体である具体的諸個人が置かれた具体的・歴史的現実の状況と深く関わっているのであって、そこから切り離されたシミュレーション・モデルの次元で説明しきれるモノでは決してないということである。

 そんな視点からみると、やはりいまのCognitive Science界ももっと大きな包容力を持つべきなのではないかと思ってしまうのである。

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