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2012年8月26日 - 2012年9月1日

2012年8月29日 (水)

「生活水準」の差とグローバル通貨の矛盾

 前回のブログにおいて指摘したように、ハイテク技術の生活資料商品化を象徴するような商品(例えばクルマ、パソコン、ハイテク家電、デジカメなど)について言えば、その商品としての完成形に至る過程は、様々な形で、国際的に分業化された労働(例えば、開発・設計労働は「先進資本主義国」で、製造労働は低賃金を可能にしている生活水準の国々で行われている)を、数少ないグローバル資本企業が統括支配する形態で行われている。

 したがって、製造労働に従事する労働者は、自国の生活水準に見合った賃金を受け取りそれで生活資料を購入することによって生活を営んでいるが、開発・設計労働を行う労働者は、彼らが生活する国(あるいは地域)の生活水準に見合った賃金、つまり製造労働を行う労働者の何倍、何十倍もの金額で支払われる賃金で生活している。

 なぜこうなるかは、言うまでもなく、商品の生産にかかる「生産費用(これは資本家的用語であるが)」を低く抑えるためである。ここで問題なのは、「生活水準の差」を示す、労働賃金の差が、同じ貨幣尺度の基準で計られているということである。例えばすべての賃金をドルやユーロに換算した場合に初めて明らかになる差なのである。ここで例えば中国の人民元とドルの間の為替レートが変更されれば、その賃金の差も変わることになる。

 「生活水準」とは、その社会で普通の生活が出来るため(労働者の労働力が再生産されるため)に必要な生活資料商品の価格で決まるものであって、もし生活資料商品の価格が上昇すれば、同じ生活状態(つまり同じ労働力)を保つためにはより高い賃金が必要になる。だから労働賃金が安いということは、その労働者たちが生活している社会では生活資料商品が安いということを意味している。

 そのことは、その社会で生活資料商品を作り出している労働者もまた安い賃金で働いているか、あるいは賃労働者でない人々(例えば農民)であってもその労働の成果を安く売らざるを得ない、ということをも示している。

 グローバル資本がグローバル市場で競争に勝ち、利益をあげるためには、こうして「生活水準の低い社会」とそこで少ない金額の収入で働き生活する膨大な数の人々が絶対に必要なのである(だから格差は決してなくならない)。

 国際通貨というグローバルな価格基準の上では、「生活水準の高い」いわゆる先進資本主義国に生活する開発・設計労働者たちは、「生活水準の低い国」で生活する製造労働者たちより遙かに高い賃金を受け取るのである。それは生活資料商品の価格がはるかに高いからであるが、しかし、国際的な市場の中で商品を売買するときには、同じ貨幣の基準で計られるため、その差が効いてくるのである。

 また「生活水準」を考えるとき、重要なのは、その生活形態である。いわゆる「先進資本主義国」の労働者は、クルマを持ち、ハイビジョンTVや高性能な家電機器や携帯電話を持っていることが当たり前であり、それに対して生活水準の低い地域の労働者は、生活に最低限必要な食料、衣料、そしてアパートの家賃、粗末な家具、自転車などによる生活が当たり前となっている。要するに生活に必要な資料そのものが異なるのである。

 「生活水準の低い」国の労働者は、彼ら自身がその製造に多大な労働力を支出しているにも拘わらず、最初から彼らのものではなく、しかも彼らの賃金からは完成されたハイテク商品を買い戻すこともできず、その恩恵にあずかることは決してない。それらを買うことができるのは「先進資本主義国」の労働者であり、また国内に「生活水準の低い」地域をかかえ、そこで低賃金で働かせる労働者から莫大な剰余価値を収奪しているその国の資本家たちである。

 私は、生活資料を買いに、街の100円ショップに行くときいつも、この安っぽく、壊れやすい製品を毎日汗水流してわずかな労働賃金で雇われて働く彼の国の労働者たちを思い描くのである。そしてわれわれの国でもアメリカやヨーロッパでもどれほどこの低賃金労働によって生み出された生活資料商品の恩恵をこうむっているかを考えるのである。

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2012年8月27日 (月)

沼上氏の「ものづくり」論について

 8月24日の朝日朝刊オピニオン欄に、「<組織の読み筋>ものづくり 感情的な言葉が議論阻む」という沼上幹氏の見解が載っていた。

 沼上氏は、「ものづくりが危機に瀕している」「ものづくりが基本だ」と言っても「ものづくり」という言葉が何を指すのかあいまいであり、それぞれ勝手な意味を込めていることに警鐘を鳴らしている。

 沼上氏は、かつて日本では、技術屋と熟練工と未熟練工が濃密なすりあわせを繰り広げて製品を練り上げ、コストを削減し、大企業が中小企業などとネットワークを形成し、多様な人々と企業が互いに切磋琢磨し知恵と技術を磨き、豊かな果実を享受できた時代があった、と捉え、その時代は「ものづくり」という言葉にそれらを糾合できた。しかし、現在では、皆が協力しても成長が望めず、限られたパイの奪い合いとなり、開発と試作は日本、量産は海外、少量の需給バランス調整は国内の中小企業、というバラバラな役割分担になり、濃密な相互作用による知恵の蓄積から離れてしまった企業ももある。と述べている。

 沼上氏は、このような状態で「日本のものづくりを守れ」と言っても、それは感情的には訴える力を持っていても、何を守るのかが分からなくなってきている。したがって、この感情に訴える「ものづくり論」は、政治的な意味はあってもより実質的でリアリティーのある議論を妨げている、と述べている。そのため、(沼上氏が)「ビジネスモデルも考える方がよい」と言っても、「君はものづくりを否定するのか」という感情的な反発を招くことにもなる、というのである。

 これは、感情的「ものづくり論」を超えて、いまの資本主義社会の変貌をリアルに捉え、その中で、より現実的な答えを見いだせ、という主張と考えてよいであろう。

 資本主義社会の変貌をリアルに捉える必要性は私も同感である。しかし、そのリアルな姿を捉える自らの視点こそ重要ではないのだろうか?

 私が「ものづくり」が社会経済の基本であると考えるのは、かつての高度成長期をたたえる視点や「脱ものづくり」的ビジネスモデルを考える立場からでは決してなく、人類の歴史を形成してきた文明社会の変遷はその基本的推進力が「ものづくり(生活を支える「もの」を作る体制)」にあって、その社会でどのような社会的仕組みでものが作られ、消費されてきたのか、が普遍的に重要なキーポイントだと思うからである。

 現在の「グローバル資本主義」では、一国内で完結する閉じた「ものづくり」経済ではなく、いわば一つの製品を完成させるために必要な、個々の労働種(分業種)が国境を越えて国際的な分業体制を形成し、これらをまとめ上げて商品に統合するのが「グローバル資本」であり、そういう形の資本がグローバルに「ものづくり」体制を形成し、それを推進しているのだと考えてよいだろう。要するに一方で資本はとうの昔に国境を越えているのであるが、他方で労働者は国境の壁によって区切られた経済圏の内部に閉じ込められ、その国における労働賃金水準すなわち生活水準のレベルで働かされるのである。

 だから、前回このブログで述べたようにパソコンというグローバル資本の象徴的商品は、デザインや開発は「先進資本主義国」で行われ、量産アセンブリーは低賃金労働の国々で行われるのである。

 ところで、以前にもこのブログで書いたように、設計や開発という業務(分業種)は、一商品種において一定期間だけ行われるため、それによって製造される商品の価値には商品の生産された個数で割った値しか含まれない(したがって生産台数が増えれば増えるほど個々の商品に含まれる開発・デザイン労働の価値の比率は低くなる)のに対し、ハードウエアを生産する労働の成果は、労働生産性(一定の労働時間によって生み出される生産物の量)が変わらないとすれば、生産台数が増加しても個々の商品に同じ価値量だけ含まれることになる。したがって、同じモデルの商品の生産量が増えれば増えるほど、一商品に含まれる開発・設計労働の生み出す価値部分の比率は低下する。

 しかし、商品が販売されて得られる利潤の配分は、むしろ開発・設計労働部門を擁する国々の企業に対して、より多い比率で行われる。製造現場で低賃金労働の下で働く労働者には、その国での生活レベルにふさわしい賃金しか支払われない。

 もちろん、いまのところ、開発・設計労働を行う頭脳労働者の多くはいわゆる「先進資本主義国」の住人であるため、その国の生活水準にふさわしい労働賃金を得ることになる。しかし、たとえば、彼らがもらった賃金の一部を使って、低賃金労働で働く製造部門労働者の住む国に観光旅行に出かけることは簡単にできるだろうが、反対に低賃金国で働く製造部門労働者が「先進資本主義国」に観光旅行に出かけることは大変難しいことであろう(もちろんこうした低賃金労働をその国で収奪している資本家や富裕層はその範疇に入らない)。

 いまの資本主義社会での「ものづくり」(ここではパソコンなどのいわゆるハイテク商品)はこうして生活水準のあまり高くない自国内で生活せざるを得なくされている製造部門の労働者の低賃金長時間労働という多大な犠牲をもって行われ、「国際市場」という名の、「先進資本主義国」や豊富な地球資源を独り占めする国々の資本家連中が互いに利益争奪戦を行う場(グローバル市場)で販売され、それによって一握りの人々が莫大な利潤を収奪できる体制で(そしてその目的で)行われていると言ってよいであろう。

 この「ものづくり」問題は非常に重要なので今後もこのブログで検討して行きたいと考えている。

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