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2012年10月7日 - 2012年10月13日

2012年10月13日 (土)

マルクス経済学のキーポイント(2 商品の価値構成が意味するもの)

 (前回よりの続き)資本主義経済体制においては、価値法則(通俗的には「市場の法則」と言われている)が資本家の「意思決定」に対する外的制約として支配しているが、これは、本来社会全体の共有物であるはずの生産物や生産手段を私的(私企業という形)に占有し、それを「価値増殖」のための手段として用いながら社会的需要を満たすという資本主義特有の生産・消費形態から来る必然であると言えるだろう。

 資本家の頭の中につねに存在する目的意識は、特定の具体的な生産物の姿ではなく、利潤という抽象的な対象への欲求しかないのであって、資本家が彼の利益追求のため選択する具体的生産物(商品)の違いは、たまたまそれについて自分が携わってきたという理由に過ぎない。いま作っている商品が売れなくなれば、より高い利潤を得る可能性があり、自分が保有する技術やノウハウ(正確には資本家自身ではなく彼が雇用する技術者など頭脳労働者の労働の成果をデータとして蓄積したものである)を有効に用いることができることを条件として、まったく異なった商品を選んで生産を行うであろう。
 そういう資本家の頭の中では、彼が売りに出す商品の価値構成 c + v + m は、現実には c +( v + m )つまり v も m も同じ労働の中で労働者によって生みだされた新たな価値部分であるにも拘わらず、( c + v )+ m としてしか見えていないのである。つまり、( c + v )は商品を生産するに要した「費用価格」(資本家的言葉でいえば、原材料費および設備投資+人件費)であり、m は、剰余価値としてではなく、市場での競争の中で「利益」を得るために設定した市場価格に含まれる「利潤」としてしか見えていないのである。資本家的視点からでは剰余価値は決して真実の姿で映らないのである。
 このようにしか見えていない資本家にとって、商品の生産は、市場で競争する他のあらゆる資本家たちとの「私的な戦い」(実際に生活を賭けて戦わされるのは資本家に雇用された労働者たちである)の中で、「利潤」を確保するための手段であり、社会的需要を満たす「必要にして十分な」生産物を生みだすという意識はないのである。売れなくなれば、それを作るのをやめる。売れればいくらでも作る、という個々の資本家たちの、いわば無政府的行動の結果が、全体として「市場の法則」を生みだしているのである。
 そして、その市場での競争の過程で、資本家間の利益配分が自ずとこの「法則」のもとで行われ、m は直接的な剰余価値ではなく、個々の資本家の利潤率の違いを均等化する「平均利潤」という形で資本家たちの獲得する「収入」となる。そして資本家たちは彼らの生みだす商品の価値を費用価格+平均利潤で表される「生産価格」という形で見るのである。商品市場での商品の価格は直接的に価値を中心とするのではなく、この「生産価格」を中心にして需要・供給関係に左右されながら、売買されているのである。
 マルクスは彼が「価値」の真実を摘出し得たことによって明らかにされた、この商品の価値構成 c + v + m から、m / v つまり可変資本部分として価値化される労働者の賃金に対する剰余価値の比率を「搾取率」と呼んでいる。そして m / ( c + v )、つまり可変資本部分(労働賃金部分)+ 不変資本部分(生産手段に投じた価値部分)、に対する剰余価値部分の比率を「利潤率」としている。前者は、資本家と労働者の関係を端的に示すものであり、後者は、資本家間の利潤分配関係を示すものであるもいえる。
 マルクスは、こうして資本家的経済の中で常識的に扱われていることの虚偽性を暴き、その真実の意味を見事に摘出し得たのである。マルクスが資本家と同じ対象を見ていながら全く異なる意味とその真実をそこに見いだし得たことの背景には、「頭で立っているヘーゲル弁証法」を足で立たせた、と彼自身が言っているような、思想の大転換があったからなのであろう。
(次回に続く)
 

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2012年10月11日 (木)

マルクス経済学のキーポイント(1 価値論から得られる真実)

 こんなことを「専門外」の私が偉そうに言う権利も義務もないが、率直に考えていることを手短に述べてみることにした。

 1950-70年代における日本のマルクス学研究は、当時の世界情勢の中で、際だつほど隆盛期であったように思う。当時のソ連を中心としたいわゆる「正統派マルクス主義」の矛盾や誤りが次々と明らかにされ、本来あったがままのマルクスの思想を捉え直そうとする共通の流れがあったように思う。

 それは大きく分けて二つの潮流があり、一つは、「資本論を哲学あるいは論理学として読む」という流れであり、もう一つは、「資本論を経済学として理解し直す」という流れであったと思う。もちろんこれらの中にはさまざまな見解や理解の違いがあって、「哲学あるいは論理学として」派ではマルクスとヘーゲルの思想的・論理学的な違いや、どこにマルクスの独自性があるかという視点からの研究、近代哲学の諸潮流の中でマルクスが築こうとした唯物論哲学の位置づけを行おうとする研究などがあったし、「経済学として」派には、資本論に展開されたマルクス経済学を、教条化することなく、科学としてキチンと再構成しようとする研究や、現代の資本主義社会の分析をマルクスの考え方に基づいて行おうとする研究などがあったと思う。
 こうした流れの中で、「哲学あるいは論理学としてのマルクス思想」と「科学としてのマルクス学」が統一されて捉えられる必要があることはもちろん誰しも考えていたことであろう。それはマルクスが究極的目標としていた「あるべき社会像」を明らかにし、それを実現させるための具体的努力に繋がるからである。
 私は、「経済学・哲学草稿」や「ドイツイデオロギー」でのマルクスから「資本論」のマルクスへと進んでいった理由を考えざるを得ない。「草稿」・「ドイデ」時代のマルクスはおおざっぱではあるが、近代哲学の歴史性とそれを突き抜けようとする自身の思索と、社会を形成させる土台となっている経済システムの理解にそれが強く結びついていることを全体として感じさせるが、資本論では、彼の思想がすべて、経済学批判の体系として一体化されていると思う。そこには「イデオロギー」と「科学」の乖離を再び一つの思想へと統合しようとする姿勢が感じられる。
 それは例えば次のような部分に典型的に現れていると思う。資本主義社会においてはすべての社会的生産物が資本家的商品として生産されるが、その価値構成は不変資本部分( c) + 可変資本部分( v )+ 剰余価値部分( m)で表される。
 ここで c とは、労働手段(機械や道具などの固定資本)および原材料などの生産手段を生みだした過去の労働{死んだ労働」の成果の一部であり、労働手段においては生産物を作り出す際に、摩耗や飛散などという形で消費され、その分生産物にその一部として転移する価値部分であり、原材料などは新たな生産物に直接再構成される価値部分である。v はそれらを用いて行なう労働を「労働力の発揮」として資本家に提供する労働者に支払われる賃金部分であり、これは価値としては、労働者が賃金と引き替えに、労働力を維持するため必要な生活資料商品として買い戻す商品の価値部分であり、m はその労働者が自分自身を維持するために必要な価値部分( v )を超えて生みだす価値部分である。ここで( v + m )はどちらも「現在の労働」によって新たに生みだされる価値部分である。 v  は「いまの生活」を営むに必要な価値部分であって、m は本来ならば「未来の生活」を保障するために必要な価値部分である。
 つまり過去において社会的に必要な労働を通じて生みだされてきた価値は、現在の生きた労働の中で再び現在の生活に必要な財として生まれ変わり、さらに未来の生活に必要な財をも生みだしている。どんなに単純で過酷な労働であってもそれを行ってきた過去の労働者の人生は決して無駄に終わったのではなく現在の労働のなかで再び生まれ直されている。そしてその輝かしい労働の成果がしかし、未だすべて資本家の私的欲望追求のための手段に化せられているのが現在の資本主義社会である。
 マルクスは価値という概念を単なる市場における売買の視点からとらえるのではなく、人類が営々と築き上げてきた文明社会の構成要素として捉え返し、その本質を明らかにしようとした。その人間観・歴史観を示すキーポイントが、価値を構成する c, v, m という三つの構成要素と「人は一日に24時間づつ死んでいく」という短い言葉の中に表現されているように思われ、そこにはマルクスの哲学が経済学の体系として表現されているのだと思う。
(次回に続く)
 
 

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