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2012年10月28日 - 2012年11月3日

2012年11月 2日 (金)

世界不況は結局労働者の犠牲によって「回復」を目指す

 今朝のNHK国際ニュースでスペインの経済状況を伝えていた。周知のようにスペインでは失業率が40%にもなるという不況(この不況の原因は労働者側にあるのではなく全面的に資本家とその代表政府の側にある)の中で、EUからの支援を受けて経済の立ち直りを図っているが、その中で、日産自動車などの自動車メーカーでは、労働者が低賃金や労働時間での不利な条件を呑んで就業することになり、「労働コスト」が格段に安くなったので、国際競争力がつき、そこに資本が投資されるようになり、活況を取り戻しつつあるというニュースであった。

 日本でもやがてそうなる日が来るだろう。大手電機メーカーが軒並み大赤字(この原因も全面的に資本家側にある)を出し、おそらく、人員整理も行われるであろうし、労働賃金のカットも当たり前ということになるであろう。つまり結局労働者階級が雇用を確保してもらうために賃金や労働条件が不利であっても受け入れざるを得なくなり、それによって資本家側は競争力を回復させることを目指すのである。
 実際に価値を生みだすのは労働者であって、資本家ではない。結局資本家たちは価値の源泉である労働力をいかに安く獲得するかによって延命を図り、それによって資本の側は息を吹き返すのであり、「資本の血液」である金融資本もそうした状況が出てくれば資本家によろこんで融資をするようになるのである。
 一方「世界経済の牽引車」(正確には死にかかった資本主義経済の救世主)としての中国と日本の間で起きている尖閣諸島問題で、日中間の貿易が冷え込みこの影響も日本の資本家に打撃を与えている。そして第18回共産党大会を控えて中国の支配者たちは、労働者の不満を押さえつけることに躍起になっている。鄧小平の「豊かになれる者から豊かになればよい」という考え方は、まさに資本家的発想であり、当然の結果としていまの格差社会があることに彼らは気づいていないらしい。
 中国は「安くて優秀な労働力」を最大の武器として、国際的な商品市場で圧倒的に有利に戦ってきたが、ここにきて、労働者階級の両極化が進み、リッチなグループと貧困グループの格差がどんどん拡大してきたため、貧困グループに属する労働者や農民たちの不満が沸騰している。中国に投資された海外資本のもとで働いている労働者たちは、当然のことながら賃上げを要求し、ストライキなどで戦っている。しかし中国の支配階級は、労働者の賃金が国際競争力を維持できなくなるほどに高騰することをもっとも恐れているのである。中国共産党は本来は労働者農民の党ではなかったのか?
 つまり、「世界経済」(正確にはグローバル資本市場)の「回復」は、世界的レベルでの労働者の低賃金化と労働の強化によってなされようとしている。世界の労働者階級は「生活水準」の違い(つまり労働賃金の違い)を維持するためにナショナリズムを吹き込まれ、国境内に閉じ込められ、資本の側は国境を越えたグローバルな資本の回転によってその「生活水準」の差を最大限に利用して肥え太ってきた。しかし、それがいま行き詰まっているのである。
 だから確実に言えることは、世界経済が「回復」に向かい、雇用が増えても労働者階級の生活は決してよくならないだろうということだ。「世界経済の回復」とは、グローバル資本の蓄積が回復されることであって、労働者の生活が回復することでは決してないからである。
 世界中の労働者階級は、ともに同じグローバル資本のくびきのもとで、その労働を搾取されていることを決して忘れてはいけないと思う。そしていまこそ誰のための景気回復なのかを考えなければならないときだと思う。
 

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2012年10月30日 (火)

「置かれた場所で咲きなさい??」へのコメントにお応えして

 前回の「置かれた場所で咲きなさい??」にmizzさんからコメントを頂いた。

私はこの本の著者が先日、NHK FM放送の「日曜喫茶室」に登場したのを聞いていました。司会のはかまさんはこの言葉に甚く感動されたようだったが、ご本人がしゃべり出すと私は「何だそうだったのか!」と気がつきました。著者は、自分がある宗教団体の経営する大学の学長であったこと、そしてその後理事長を務めていること(つまり支配階級を構成する一員であること)をまず誇らしげに強調し、この本を書いたいきさつを述べていました。 mizzさんが言われるとおり、「"Bloom where God has planted you." (God has をYou have been としたところが、いかにもの、神かくし。)」なのです。信仰あつき人が人々の救済を願って書いたということなのでしょうが、それはまったく、世の中の矛盾を補完するものでしかなく、「与えられた人生を悔いなく満足感をもって生きること」で、矛盾を神のご意志による試練として受け止めさせようというわけです。
 頭が良くて行動力のある人が資本家や政治家になるのは当然で、そうでない「フツーの人々」はその人たちの言うがままに自らに与えられた役目(賃労働者)を果たせばよいのだ、という支配的イデオロギーの中で、煩悶し苦闘しながら不条理な人生を送っている人々に「迷い」を捨てさせ、「仕事に励め」というわけです。
 資本家は資本家になるべくしてなったのであり、賃金奴隷は賃金奴隷として生まれてきたのであって、その事実を謙虚に受け止めよ、というわけですね。ここに現代社会での宗教の役割が端的に表れていると思います。
 こういう人たちから見れば、労働者のストライキやデモなどは、「おまえたちは信心が足らん!」ということになるのでしょうね。社会的な矛盾に異を唱える人々を「不満分子」として捉え、宗教の助けを借りて「心の持ちよう」で解決しようとする態度は、歴史に登場した支配階級が常に用いてきた宗教を援用した支配の常套手段です。
 われわれはこのようなごまかしに乗せられず、徹底的に客観的事実をもとにした論理的思考と冷静な行動によって矛盾と対決し、真実を暴き出すことで、歴史を前に進めるべきだと思います。
 宗教は、唯物論を「悪魔」の思想と決めつけ、心の問題を無視していると考えているようですが、実は唯物論の本当の姿は、物質の自己運動という自然の摂理の中で、その一部を構成する人類が、その自然の摂理を科学的真理として理解することで、より一層自分自身を深く理解し、人間的なものの意味を理解しようとする考え方であって、虚偽を信じることで心の安寧を求める態度よりはるかに深く真理の追究をする態度だと思います。
 キリストや仏陀がその当時の文化社会状況の中で、人類世界や宇宙の成り立ちをそれなりに精一杯理解しようとしたことは確かに尊敬に値しますが、その世界観は現代においてはもうほとんど通用せず、したがってもう一つの別の機能(政治的支配の道具という)が全面に出ざるを得ないのだと思われます。
 ただただ「置かれた場所で咲く」ことを強調する前に、「置く人」と「置かれる人」の関係がなぜ、どこから生まれるのかを冷静に見抜くことこそが必要なのではないでしょうか?
 

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2012年10月29日 (月)

置かれた場所で咲きなさい??

 これはいま売れている本のタイトルである。「置かれた場所で咲きなさい」は確かに美しい言葉ではある。生きにくい世の中を人のせいにすることではなく、自らの立場をわきまえ、そこで十分に与えられた役割を果たすことこそが生きる意味なのだということであろう。
 しかし、世の中では、「置かれた場所」でどうしても「咲く」ことができずに苦闘している人々や、その「場所」に疑問を持つことに疲れ果て、あきらめたり、その「場所」から脱出できずに絶望の中で死んでいく人々が圧倒的に多いのではないか?こうした人々にとって、この言葉はある種の慰めにはなるだろうが、客観的な事実を知って自分の実存を変革しようとするポジティブな意思を捨てさせることにもなる。

 ここでよく考えなければならないことは、世の中では「置く」人と「置かれる」人がいるということである。この本の著者は聖職者のようだ。つまりここでの「置く」人は神である。そして神のみこころによって「置かれた」人は、そこで咲くことこそが生きる意味であり神の意図なのだというのであろう。
 しかし現実の社会においては「置く人」は神ではない。生身の人間である。そしてこれらの「置く人」は人間が生きるために必要な社会的営為を支配する手段や方法を手にしている。「置かれる人」は彼らの意のままに生きざるを得ないのである。これを「置かれた場所で咲きなさい」と言えるのは、「置く人」からの目線である。
 人間にとって与えられた肉体的・生理的条件は変えることができない。そしてこの世界に生まれてきたことも自分の意思ではない。しかし、いったんそうした変えることのできない条件のもとに生まれてきた自分が、それを「置かれた」ものとして受け止めざるを得ないことと、それを前提としてこの世界で自らの意思のもとで生きようとすることは別である。
 人は、本来、置かれた条件があるからこそ、その制約をむしろ手段として、あらたな自分の場所を自らの意思で決めることができる存在なのではないか?しかし、いまの世の中はそうなっていない。そして、そのようなことができる世の中にすることこそが、必要なのではないだろうか?
 なぜ、そのような場所に置かれているのか、なぜそうなったのか、そこにある、ごまかすことのできない事実を知り、それと戦うことこそ、神によって与えられたものではなく、歴史が自らに与えた使命といえるのではないだろうか?
 

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