« 2012年10月28日 - 2012年11月3日 | トップページ | 2012年11月11日 - 2012年11月17日 »

2012年11月4日 - 2012年11月10日

2012年11月10日 (土)

アメリカ大統領選挙後の争点を巡って

 アメリカ大統領選挙は民主党オバマ氏の再選という結果になった。莫大な政治資金をつぎ込んだ互いの中傷CMなどでの醜いやりとりは、あたかも商品市場での醜悪な競争ではあれ、とても大統領選挙とは思えぬほど露骨で品のないものだったが、当選してしまえば、大統領はアメリカ国民の民意を代表する存在として振る舞う。

 そして選挙後最大の争点は来年1月に生じると考えられる"Fiscal Cliff"問題である。アメリカ政府の財政が行き詰まって崖から落ちることを防ぐために、まず共和党もそれほど反対していない「中間層」の減税を議会で決めようというのがオバマ氏の提案である。そしてその後に共和党との大きな政策の違いである「富裕層」への増税問題が控えている。オバマ氏は「富裕層」の増税によって「貧困層」の救済や社会保障などの負担増にあえぐ財政を立て直そうとするのに対し、共和党は、「富裕層」といわれる人の大半は中小企業の経営者であって、彼らに対する増税は、結局雇用を減らし、経済活性化の障害となる、という主張である。
 しかし、この「富裕層」と「中間層」という区別の基準はまったく曖昧である。「中間層」の上層は「富裕層」の下層と重なるかもしれない。ここでは雇用者と被雇用者という区別がされていないからである。中小企業の経営者と大企業の比較的リッチな従業員の収入の差はあまりないかもしれないが、問題は雇用した従業員の生殺与奪の権利を握っている人と握られている人の立場の違いである。
 どんなに規模の小さな資本家的企業であってもその経営者の生活は、雇用する労働者の労働が生みだす価値のうち剰余価値部分を獲得することで得る「所得」であるが、従業員は、経営者が価値を得るために必要な従業員の労働力の再生産に必要な費用として彼らに渡す賃金によって生活しているのだ。
 従業員はその賃金によって経営者に提供する労働の過程で賃金の価値をはるかに超えた価値を生みだし、それがそっくりそのまま経営者の獲得する利潤になる。経営者自身の生活に必要な生活費はこの利潤として得た「所得」から支払われるが、従業員の生活費は生産手段などと共に、経営者の必要経費として計上された資本の一部(可変資本)なのである。
 賃金は従業員にとっては「所得」ではなく、生きるために必要な生活資料の価値であり、経営者にとって従業員に支払う賃金は、彼の資本の一部を従業員に前貸して労働力を確保し、その労働から、賃金の価値を超える剰余価値を得るための手段であり「必要経費」なのである。
 だから「富裕層」への増税は資本家的経営者の所得への増税と言い直されるべきであり、「中間層」とは、被雇用者の立場であり、現状では比較的安定した生活を得ているが、絶えず失業の不安に置かれている労働者階級と捉えかえすべきであろう。
 もし共和党の主張するように、「減税」が「富裕層」である中小企業の経営者を中心に行われたとすれば、決してそれは雇用の拡大などには用いられず、市場での競争力を付けるために、海外の安い労働力の獲得に向けて投資されるか、企業で用いられる生産手段をより生産性の高いものに置き換え、労働者数を減らす方向に投資されるだろう。だからそれは決して雇用を拡大したり、労働者の生活を安定させるためには用いられないといえる。
 フランスでも同様なことが争点となりつつあり、日本では、衆議院の解散を賭けた「赤字国債法案」とその後の選挙によって登場する政権の施政によっておそらく同様な問題が浮上するであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年11月 7日 (水)

フランス社民党の資本家的本質

 今朝のNHK BSTV国際ニュースで、フランス・ドゥーのニュースが報じられていた。驚いたことに、オランド大統領が、フランスの経済的状況を回復させるために、企業への減税を実施し、その減収分を付加価値税の増加によって補うことを考えているようだ。それによると、企業への減税によって企業の税負担を軽くし、その分雇用を増やせるようにすること、そしてそれによって減じた政府の税収を付加価値税(日本の消費税に当たる税金)を増やしてこれを埋め合わせるというのである。社民党系の大統領の政策とはとても思えない。

 これをフランスの労働者は許すであろうか?消費税増額に敏感な日本なら多分この政策は通るまい。まず、第一に、「企業への減税が雇用を増やす」という考え方がそもそも間違っていると思う。資本家的経営においては、減税はそのまま「生産費用」の減少となり、資本家の獲得する利潤の増大になるが、その利益増大分は必ず新たな投資先に向けられ、労働者には決して還元されず、その反対に、企業内での「合理化」によりますます労働者を圧迫することになる。

 雇用を増やし、価値を生み出す労働力が増えれば、資本家の利潤率は上昇するが、国際市場での競争においては、同じ商品を生み出すのに要する労働力が安い国で作られた商品が圧倒的に強い。だから、資本家は労働賃金の高い自国の労働力をできるだけ「合理化」によって減らし、労働力の安い国の生産資本に投資しそこでの労働力を獲得し、搾取を拡大する。

 その結果どうなるかといえば、国内(ここではフランス)の労働力は生産部門から放逐されて不生産部門に流れざるを得なくなる。不生産部門とは例えば、宣伝広告業、レジャー・エンタメ部門、外食産業、付加価値産業(こういう言葉が適切かどうかは分からないが例えばデザイン業などもこれに入る)など、そして軍需産業や金融業も位置づけは異なるが不生産的産業である。

 企業減税によって、資本家を初めとした富裕層は潤うので、彼らの収益を私的に消費する場所として、こうした不生産的産業が活気を得て、そこでの雇用は若干増えるかもしれないが、大多数の労働者は、生活資料への出費が付加価値税増税によって、増加し、生活は苦しくなる。結局、労働者は不生産的企業での不安定な雇用に活路を見いだすしかなくなるのである。そしてこの不生産的産業でもつねに資本間の競争が行われ、倒産や企業買収が繰り返され、ここからもつねに「合理化」によって多くの労働者が放逐されるのである。

 アメリカの大統領選はいま開票の最中であり、現時点で結果は不明だが、もしロムニーが次期大統領になればこれと似たような政策をとるだろう。いまやヨーロッパの社民党勢力はアメリカ保守系の政党と同類になってしまったようだ。

 「企業は社会に奉仕するためにその業務を行っており、そこでの経営者と従業員は一心同体であり、ともに運命共同体を形成している」という思想こそ資本主義社会における支配的イデオロギーであることに気づくべきだ。

 資本主義経済の法則下においては、企業を経営する立場にある者は、どんなに優れた人格の持ち主であれ、資本の人格化された形でしか機能しえない。その経営において、雇用という形で労働者の労働力を「賃金」と引き替えに買い入れ、労働者の労働によってその賃金分を超える剰余価値を生み出させ、それを無償で資本家的経営者が獲得し、それが結晶化された商品を市場で売りさばくことで利潤をあげ、その企業の経営が成り立つという資本主義社会の基本形が「当然のこと」として認められているのである。

 ここで資本家的経営者が、企業経営の必要条件として労働者から無償で奪取している剰余価値部分は、本来、社会を成り立たせるためにともに働いているすべての労働者たちが必要な共通財として蓄積し、共通の目的(例えば、医療、教育、福利厚生など)のために支出されるべきものなのだ。それが資本家のあらたな投資のために「私的」に用いられ、社会にとって本来必要もない競争に勝つために支出され、一方で社会的に必要な共通経費は労働者の生活費として与えられた賃金から税として差っ引かれる。これが不条理でなくて何だろう?特に次世代を担う若者たちはこのことに気づき、世の中で起きていることの真実を知るべきだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年11月 5日 (月)

閑話休題:大統領選挙という「市場」の原理

 まず、mizzさん、コメントありがとうございました。「付加価値デザイン」は学科名ではなく授業の名前のようでしたが、どちらにしてもおっしゃる通り、矛盾にまったく無自覚ないまのデザイン教育の一面が分かります。

 さて、今回は、いまや追い込みで白熱しているアメリカ大統領選挙の話である。オバマ陣営は、追い上げてきたロムニー候補との「違い」(差別化)を必死になって宣伝していたが、ロムニー候補はオバマ大統領がアメリカの経済をダメにしたと(相手の商品の欠点をほじくり出すことで)これまでの施政を批判している。TVCMまで繰り出したこの「戦い」はまさに次期大統領候補という次期モデル商品の売り込み合戦という様相である。日本の総選挙とは若干違ったシステムのアメリカ大統領選ではあるが、いまのアメリカ社会がいかに商品の論理で貫かれているかが感じられる。
 アメリカ的民主主義は、実は商品の論理であって、被選挙人(候補)という商品を選挙市場で売り込み、選挙人は投票することによって、その商品を買うのである。そしてその商品は買い手が消費するのではなくて、選挙市場を制して当選した候補者が自身の行う施政によってそれを「消費」するのである。
 だから、ここで考えねばならないことは、その「消費」が選挙人ではなく被選挙人による施政であることだ。選挙人はつねに受け身の立場であり、ただ投票という形での「購買」においてのみ主導権を握れるのである。商品市場の常として、買ってしまった商品はどう消費されるかについては「売り手」の関心事ではない。つまり選挙戦という「売り込み合戦」の渦中においては、相手との差別化や政治公約(いわゆるマニフェスト)を宣伝しまくるが、「買ってもらえばこっちのもん」であとは「相手との差別化」や「政治公約」などなんのその、そんなものはできなければそれまでのことであって、世の中を自分のやり方で支配できるのである。
 選挙人はあたかも自分の考え方を代わりに実行してくれる人を選んだような気持ちにされ、その実、あらかじめ候補者という選択肢をしつらえられた「市場」でただどれかの商品を選ぶことだけしかできないのである。そしてその意味では本質的に受け身の購買あるいは選択マシーンでしかない。
 オバマからロムニーに支配者である「商品」が交代しても、民主党から自民党へと「商店」が代わっても、結局は選挙人は買わされた商品が支配者によって「消費」されることを下から指をくわえて見上げることしかできない立場に置かれ、その消費のされ方によって日々の生活まで脅かされることにもなるのである。
 社会を構成し、社会を成り立たせるために日々、その持ち場で働いている人々が、その持ち場において主導権を発揮できるシステムこそ、われわれの求める本来の民主主義ではなかったのか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年11月 4日 (日)

「付加価値デザイン」の現実

 先日大学時代のクラス会があり、私もそれに出席した。そこで企業デザイナーから大学教授になったある友人が、自分の居た大学に「付加価値デザイン」という授業ができたことを誇らしげに喋っていた。私は何も言わずにそれを聞いていたが、「何をか況んや」という心境であった。
 話は変わるが、私はもともと自転車に乗ってあちこち走り回っては写真を撮ってくるというのが健康法であり趣味でもあるので、昨日、幕張メッセで行われている「サイクル・モード」という自転車ショーを見に行ってきた。ところが期待に反してそれはまさに「モード」あるいはファッション・ショーという有様なので、がっかりして帰ってきた。
 そんなことがあって、ここで再び「デザインによる付加価値」という問題を取り上げてみたくなった。
 今夏、札幌でのデザイン学会で行った私の研究発表でも述べたが、「付加価値」とは、本来の労働によって生みだされた価値以外に、市場での需要供給という場面で販売促進の目的で、主観的価値観や美意識に訴え需要を恣意的に生みだすために付け加えられる虚偽の価値のことである。例えばまったく同じ製品であっても有名ブランドが付いたり、最新流行のスタイルであるというだけで実際の価値より高く売れるというのが典型的な例である。
 職能としてのデザイン労働にはもともとその出自に「付加価値」を生みだす武器という位置づけがあった。しかし、まだデザイン労働がスタイリング・デザインやカラリングデザインなどという具合にその労働が細分化される以前は、工学的な設計と一体となった形で製品の物理的・生理的機能を考えていたので、それなりにいまよりは健全であったと思う。
 ここで、これも私が大学で行ってきた講義でずっと述べてきたことであるが、デザインを、人工物の機能を形として実現させる行為として一般的な設計の視点で考えた場合に、機能を、その製品に目論まれた働き(目的意識)とそれを実現させるための物的(対象的)手段あるいは方法との関係として捉え、そこには物理的水準の機能と生理的水準の機能、そして心理的水準の機能という3層の機能があるといえるのである。この3水準の重み付けが人工物が商品として市場に出されるときの要求によって異なるのである。
 資本主義生産様式の歴史的変貌を背景とした設計労働の分業化が行われ、物理的機能を考えるのは工学的設計者の労働内容であり、使う人間の立場からその機能を生理的な視点で考えること、そしてそれらが使う人の心理的満足感を充たすかどうかという視点で考えるのが工業デザイナーの労働内容となってきたといえる。
 そしていま、この3水準のうち3番目の心理的機能が、もっとも大きな重みを付けられている。これが「付加価値デザイン」と呼ばれるものである。本来、そのモノが使われる目的とは直接関係のない私的満足感にデザインの重心が置かれるのである。
 これはまさに、現代の資本主義経済体制が、過剰消費、つまり浪費によって成り立っていることを如実に物語っていると思う。これでもか、これでもか、とばかりに様々な飾りや付属品を売り出し、自転車ライダー用のシャツやヘルメットなどけばけばしい色彩の流行デザインで埋め尽くされていた。そして本来の「自由に走り回る道具」としての自転車の機能は一つも目新しいものがなかった。
 スマートフォンやタブレット・パソコン市場の激烈な競争、国内で売れなくなったクルマの「新興国」への猛烈な輸出合戦、そしてその渦中で「付加価値」を生みだすため過酷な労働のもとに置かれているデザイナーたち、こうしたものが世界の「景気」を左右し、ひいてはわれわれの生活を大きく脅かしているというのが現実である。
 「消費者」として位置づけられた労働者階級は、一方で次から次へと市場に出される新製品に目を奪われ、それを競って買うことが生き甲斐となり、他方で、その同じ市場の動きが自分の被雇用労働者としての地位や賃金そのものを脅かしているのである。
 「付加価値デザイン」は、ついにその職能的矛盾がカテゴリー名として現れたと思わせる言葉である。「日本のものづくりに競争力をつけるために付加価値を生みだすことに力を入れるべきだ」などど息巻く前に、少なくともデザインを研究対象とする者は、この現実と正面から向き合うべきではなかろうか?

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2012年10月28日 - 2012年11月3日 | トップページ | 2012年11月11日 - 2012年11月17日 »