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2012年2月12日 - 2012年2月18日

2012年2月18日 (土)

現代における資本家階級の構造(2)

 同じ表題の(1)で書こうとしたことが、必ずしも十分な内容でなかったので、(2)(3)としてその続編を書くことにした。

 資本家の社会的活動の動機が「利潤」にあるのであって、倫理的な社会奉仕あるいは自己犠牲にあるのではないことは明らかであるが、すべての社会的生産活動がこうした資本家たちの支配のもとで行われる資本主義社会では、それが「社会通念」となる。

 人々の社会的活動への参加(非営利ボランティア活動を除く)が基本的に「利潤追求」によって動機づけられ、社会的に必要な労働はそのための手段とされ、「市場」という取引の場が世界の経済を牛耳って行く。こうした構造の社会の支配的地位にいるのが資本家階級であって、その中には、生産手段を所有し、労働力を購入し、直接的生産活動に従事する労働者から不払い労働時間分の剰余価値を吸い上げる産業資本家、そこから生み出される剰余価値部分を含んだ商品を市場に送り出し、売買によって利益を上げる商業資本家、それらの資本の回転をスムースに動かし、遊休資本を減らし、それを投資などによって他の資本家に融通することで有効利用し、その利ざやを獲得する金融資本家、そうした企業の資本を「株式証券」という形で所有し、企業の業績によってそれらを株式市場で売買し、差益を獲得する証券取引資本家(トレーダー)などなど資本の回転における様々な資本の形態の場に相応しい形の資本家たちが、全体として協力し合って社会的経済活動を支配している。

 一方、労働者階級は、こうした資本家企業に雇用され、資本家から前貸しされる労働賃金によって生活に必要な資料である様々な商品を商品市場で購入し、それによって生活を営んでいる。彼らが生活のため購入する商品に支払われる貨幣はいうまでもなくそれらの商品を生産し、販売する資本家の手に還流し、異なる分業種の資本家間で融通しあう形で再び労働者の賃金や設備投資などに回す資本となる。その意味で労働賃金は資本家にとって労働者に前貸しされる「可変資本」という形の資本の一形態であって、これは決して労働者の「所得」ではない(その意味でいまの税制は基本的に間違っている)。

 労働者階級は、資本家から前貸しされた賃金によって家族を養い、自分の子供にはその能力を資本家に買ってもらえる様になるために、労働賃金の大半を割いて、高額な教育費を捻出し、教育産業という形の資本家的経営のもとに置かれた高等教育機関で職業教育を受けさせ、卒業と同時に、労働力市場で資本家に自らを売りに出せる様にせねばならない。

 労働者はその雇用形態において、資本家の数だけ存在する様々な業種(社会的分業種)のどこかに雇用され、そこが彼の社会的活動の場となる。資本家企業は常に互いに激しい競争のもとに置かれているため、しばしな競争に負けて経営破綻する。そして労働者は解雇され路頭に迷う。たとえ労働力が使い物にならなくなるほど十分働けたとしても、その後の生活はわずかな「年金」や「介護保険」などに頼らざるを得なくなり、その社会保障制度の基金は大半が現役労働者の労働賃金の一部から天引きされた金である(残りの政府などの公的機関からの社会保障費は労働者や資本家から支払われた別の税や国が発行する債券の売買などによって得られたものである)から、それらを「もらう資格のない」労働者は生活困難者として生活保護などの救済対象として扱われる。

 しかし、元来、生産的労働者が生み出し、資本家が「所得(労働者の生み出した価値を無償でかすめ取るのだからこれはまさしく所得である)」としてそれを私有化し、グローバル市場に投資している剰余労働部分の生み出した価値(剰余価値)は本来すべて、それを生み出した労働者階級に、「社会共有ファンド」として還元されねばならないはずの社会的富である。

 どんな社会であれ、労働者階級が生活を維持できなくなるような社会では資本家も存在できないのであるから、資本家階級は社会保障システムなどの形で「資本家階級共通経費」として「税」の形でそれを政府など公的機関に支払う。

 しかし、資本家階級は、グローバルな市場でできうる限り安い海外労働力を漁り、それによって生産拠点や労働拠点を海外の労働力の安い国々に求める。そして商品市場においては国際競争に勝たねば、経営破綻に追い込まれるので必死に商品の売れ行きを伸ばそうと努力する。従って国内の雇用は減り、労働者はより労働条件の悪い企業に雇用されざるを得なくなる。そして市場のグローバル化によってもっとも大きな利益を上げるのが金融資本家や投資家なのである。

 いまの資本主義社会はかくして「経済成長」(つまり資本の利益増大)なくしては動かないし、それによって一方で労働者階級はつねに生活ぎりぎりの線に置かれ続け、他方で人類の共通財産である地球の天然資源が資本家たちの利潤追求の目的で急速にその埋蔵量を浸食されながら資本家のための財の姿に変えられて行くのである。

 労働者は、資本家がもっとも効率よく利益を上げることができる企業にもっとも高い賃金で雇用されるチャンスが与えられることになるが、しかしその限られた数のエリート労働者になるためには、労働力市場での労働者同士の激しい競争となり、莫大な教育投資が事前に必要であったり、有名大学を卒業せねばならず、大半の労働者階級はそれが不可能であったりその競争に勝つことができない。

 また「優秀な」労働者は努力によっては資本家になるチャンスも与えられている。しかし、そのためには資本の法則や市場の動向にいち早く反応し、激しい市場競争に打ち勝ち、その過程で多くの株主から資金をかき集め、競争企業を破綻させ、そこの労働者を放逐させ、世の中に必要とも思われなかったモノやコトを「必要化」させ、それによって利益をたたき出さねばならなくなるのである。

 こうして「人間的なるもの」の本質的要素は資本主義社会からは脱落し、単なるその「補間」(多くは宗教的倫理などとして)の位置におとしめられ、それに変わって利害、損得、他者を顧みず競争に勝つ、という自己中心的な思想が必然化され支配的になる。

 これがいまの資本主義社会とそれを支配する資本家階級の姿である。こうして「税と社会保障一体改革」と称する法案が持ち出され、労働者階級は「消費税」という不平等な税(なぜ不平等かといえば、それはあらかじめ労働者階級と資本家階級との決定的不平等状態を既定の前提としている「一律税」だからだ)を課せられ、資本家が「経済成長」できるように低い賃金でがまんし、失業しても毎日「ハローワーク」に通って自分の労働力を買ってくれる資本家を探さねばならないのである。

(3)に続く。

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2012年2月12日 (日)

橋下氏の主張に関する考察(2)

 (前回からの続き)橋下氏は、いま日本中が陥っている状態が、人々の「努力不足」に起因しているとでも言いたいのだろうか?いまあらゆる職場で働いている人たちは、むしろ20-30年前に比べてはるかに過酷な労働にされされていることをご存知なのだろうか?

 もし、本当に橋下氏が言う様に、東アジアや東南アジアの若者が日本の若者と同じベレルの教育と労働力を持つ様になっているのであれば、そもそもなぜ労働集約型製造業の生産拠点がアジアに置かれる様になるのか?それは完全な事実認識の不足である。アジア諸国の労働者の大半は大学はおろか高校レベルの教育も受けることができなかった人々である。いま急速に「経済成長」している国々の中にはいわゆる富裕層や中間層が育ちつつある。かれらは確かにかつての日本人が味わったであろうような「豊かな」生活を謳歌しているかもしれない。しかしそれはその国の労働人口全体から見れば少数派の人々である。それにも拘らず例えば中国やタイ国の様な国では、少しづつ労働者の平均賃金水準が上がってきているので、日本や欧米の産業資本家は生産拠点をそれらの国々からさらに労働力の安い東南アジア諸国(ミャンマーなど)やアフリカなどに移しつつあるのだ。

 その一方で日本国内では労働者階級の格差が拡大し、非正規雇用者を中心とした下層労働者は職場も収入もきわめて不安定で、結婚や家庭生活など夢のまた夢で人生計画も立てられない状態になっている。上層部に入る労働者階級はエリート大学出身者や支配的階級にコネクションのある人々が多く、そこではいわゆる「付加価値」の高い産業に従事する人が多い。

 この状態で橋下氏が言う様に「海外で稼いだお金を日本に戻す仕組みを考え、国内でサービス業などの付加価値を高める環境をつくり、民間でお金が回る税制にする。円高で生まれた輸入業のもうけを輸出業に回す「デリバティブ」のような仕組みを考え」たとしてもそこで捻出されたお金は相変わらず富裕層のもとに集まり、決してもっとも過酷な労働を強いられている大多数の人々の手には届かないだろう。

 個人の能力をトコトン発揮されることができる様な教育をタダで受けさせる、といっても、それには莫大な予算が必要でありしかももし実現できたとしてもどんな教育内容にするか、誰が教育するのか、卒業者全体の受け皿はあるのか、など問題だらけである。しかもそれによって格差ができることをあらかじめ許容しているのだからおそらくはエリート振り分け型教育になるだろう。卒業生はある能力に関してグレード付けをされてしまう。教育とは果たしてそのようなものであるべきなのだろうか。断じて否である。

 多様な価値観の中で、最終的な決断を行えることが政治家であるとすれば、それをどのような方法で行うのかが問題であり、これは単なる決断だけの問題ではない。すべてを政治家の決断に任せるのが民主主義ならばヒトラーもスターリンもすばらしい政治家だったと言わざるを得なくなる。彼らが一応「民主主義的」に選出されたにも拘らずなぜあのような独裁者になってしまったのかを考えるべきだ。いまこそカリスマ的リーダーの登場なくしてボトムアップ的意見をくみ上げてそれらを全体のバランスの中で「決定」に結びつけて行く民主的な方法を考えだすべきなのではないか?

 最後に地方自治について、これは私も将来は本来の意味で持続可能な経済体制を生み出すためには、現状の様な「グローバル市場経済」ではなく、ローカルな地域社会がそこだけで自立できる経済システムを維持し、そこで生産できないもののみを他の経済圏から輸入する方式が現実的であるように思う。しかし橋下氏のいう道州制はちょっと私の考えているローカル社会のイメージとは異なるようだ。これについては後日もう少し検討を加えてみよう。

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(2月23日に追記:橋下氏はなんと自分の配下にある大阪市職員のメール内容の調査や思想のチェックを強制するという行為に出た。なんという男だろう!これは絶対に許すべきではない。若い人たちに圧倒的な人気があると言われている橋下氏だが、若い人たちはこんな現代のヒットラーのような人間を決して支持してはいけない。後で必ず後悔することになるだろう。)

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橋下氏の主張に関する考察(1)

 昨年11月以来、しばらく「咳喘息」の症状が続いていたが、今度はA香港型インフルにやられてしまい、しばらくは高熱で思考不能の状態が続いた。しかしようやく熱も下がってきたので、ブログを再開しようと思う。

 今朝(2月12日)の朝日新聞の朝刊に橋下大阪市長へのインタビューが載っていた。橋下氏に関してはいまさら説明する必要がないほどあちこちで語られているのでここではそれを繰り返すことはやめるが、朝日の記者は「既存の「権威」やタブーに切り込み、そして人々に問いかける。リアルな肉体感覚を伴った言動が喝采を浴びる。一方、独断的な手法には怖さも感じずにはいられない。」と言っており、これが手短に橋下氏の印象を語った適切な表現と言えるだろう。

 彼は言う、「いまの日本人は世界の生活レベルでいえば五つ星ホテル級の生活を享受しており、これを維持して行くにはコストがかかる。東アジア、東南アジアの若者たちは日本の若者と同じレベルの教育と労働力を持つ様になってきた中で、日本はいまのレベルを維持したいなら競争に勝ち抜かねばならない。労働集約型製造業が海外に出て行くのは止められない。海外で稼いだお金を日本に戻す仕組みを考え、国内でサービス業などの付加価値を高める環境をつくり、民間でお金が回る税制にする。円高で生まれた輸入業のもうけを輸出業に回す「デリバティブ」のような仕組みを考えるのも国の知恵だと思う。一番重視しているのは行政サービスをユーザーの選択にさらすことだ。」

 これに対して朝日の記者が突っ込む「国民みんながありとあらゆることで「選択」や「競争」を迫られるのは、けっこう大変ではないか。」

 橋下氏は応える「国民の覚悟が必要だ。その号令をかけるのが政治だと思う。付加価値の創出は努力がすべてだと思う。とことん能力を発揮してもらい、そこに規制はかぶせない。いったん格差が生じるかもしれないが所得の再配分もしっかりやる。格差を世代間で固定化させないために、最高の教育をタダで子供たちに受けさせる。最低限の保障をすることは国の役目だ。僕のやりかたは事後調整型の格差是正だ。社会保障では「人生一生使い切り型モデル」を考えている。」

 そのあとで、朝日の記者が「橋下さんは「決定できる政治」を唱えています。リーダーの独善になりませんか。」と突っ込む。橋下氏は応える「議論はし尽くすが最後は決定しなければならない。多様な価値観を認めれば認めるほど決定する仕組みが必要になる。それが「決定できる民主主義」だ。そしてそのあとでさらに「政治家は選挙では国民に大きな方向性を示して訴える。(選挙は)ある種の白紙委任なんですよ。」以下さらに記者とのやりとりが続いたあと、「いまの国の統治機構は大きすぎる。(中略)国がやることと地方がやることをきっちり分け、それぞれを機能させる。国の仕事を絞り込み、地方に自立してもらう。従来の体制を変えることが政治家の仕事です。」と述べ、道州制を主張する。このあともやりとりが続くがそれは省力する。

 以上の記者とのやりとりを通じて分かったことは、橋下氏の主張にはまとめると次の様な内容が含まれているといえる。

(1)日本人はいまの生活を維持したいなら、それなりの努力が必要であり、国際競争に勝たねばならず、経済のありかたも製造業中心の輸出型産業から、海外拠点を中心とした経営に移行しそこでの稼ぎを国内に回し、国内ではサービス産業など付加価値重視の産業を育成し、そこで利益を稼ぎだす。

(2)個人の能力をトコトン発揮させるための教育が必要であり、それによって格差が出ても事後調整でそれを補う。

(3)多様な価値観を認めるほどますます「決定」の重要さが増す。政治家は主張の大枠を公表し、国民はそれによって選択した政治家にすべてを白紙視認するべきである。

(4)いまの国政は政治家が行える範囲を超えているので、道州制を導入してもっと明確に地方の自治体制と国政をそれぞれ役割分担させるべきだ。

 さてそこで、これらの橋下氏の見解について検討して行こうと思う。まず気づくことは、橋下氏が自分をあくまで地方自治を基盤とした立場であるとしているにも拘らず、言っていることはすべて国政に関する問題であるということだ。もう一つは、このインタビューの最後の方で、自分の「賞味期限」は4年と考えている、などと言っているが、彼の主張する「決定できる政治家」を自らが目指しているらしいということだ。つまり自ら「強力なリーダーシップ」を実現させたいと考えているようだ。

 そして教育に関しても何の規制もかけずにトコトン個人の能力を発揮できる様な教育を無償で与えられる体制を主張しながら、他方では、首長である橋下氏がその配下にある教育機関に介入し、教員の思想や資質に口出しをしようともしていることだ。

 そして最後にもっとも重要な問題は、彼が、いまの国際市場経済の矛盾を認識せず、むしろそれを利用していかにうまく銭を稼ぐかという問題設定をしており、そのために生じるであろう格差をむしろ当然視し、それを事後的に取り繕って行けばいいという考え方を持っているということだ。

 以下それらを詳しく考察してみよう。(次回に続く)

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