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2012年2月19日 - 2012年2月25日

2012年2月24日 (金)

いまふたたび次世代社会を考える(4: 「自由市場経済」と「計画経済」の矛盾的対立)

(3)から続く。

 前回では、資本家的な「商品所有者」としての立場からすれば、「自由に」商品を市場で売り買いし利潤を獲得できる社会が、労働者の側から見れば、社会的に必要となる労働力を、生産手段を所有する資本家に売りに出さねば生活することができず、その結果そこで生産される生産物は剰余価値部分を含めてすべて資本家の手に占有されているという形の階級社会であることを述べた。社会を支える諸労働を行っている人々が、資本の賃金奴隷となり、自由な社会の主人公になることが決してできない社会なのである。例え労働者が努力して金を集め、企業を経営する資本家になり資本家的自由を獲得したとしても、それは必ず他方で賃金奴隷としての労働者が存在しなければ成り立たない「自由」であり、それゆえ資本家自身も、「市場の法則」の奴隷とならざるを得ないという矛盾のもとに置かれるのである。

 例えば、ハイエクやフリードマンなどが主張する「自由」とはそういう資本家的生産手段の私有とそのもとで働く賃金奴隷としての労働者たちの存在を前提とした「自由」なのであり、したがって商品所有者(資本家)同士の「自由」な競争のもとで、社会的経済活動全体が、本質的に無計画な市場の動向に振り回され続けるという矛盾において初めて可能となる「自由経済」なのである。

 それを否定して、労働者階級の立場から計画的な生産と消費を行える社会を対置しようとすると、資本家たちやそのブレーンたちは「自由な個人の行為を否定する統制社会だ」と言って猛烈に反発する。

 彼らのいう「悪しき計画経済」のイメージは、かつてのスターリン的体制の「社会主義経済」やそれを横目で見ながら、資本主義体制の修正を図ったケインズ型資本主義経済などにおいて実施された「社会資本の国有化」という政策とその失敗(この失敗とは、いわゆる「社会主義」諸国での党と国家官僚独裁体制下での経済統制とそれによる労働者の労働の「ノルマ化」やケインズ的政策を採ったイギリス労働党政府の政策下でのいわゆる「イギリス病」という形の経済の不活性化などを指す)がもとになっているようだ。

 しかし、これらの「国有化」や市場経済への統制の形は、マルクスが目指していた本来の共産主義社会とは異なり、かつての「社会主義」諸国では、インターナショナルな共産主義社会への過渡期であるはずの「社会主義経済体制」が、「一国社会主義」という旗印のもとで党と国家官僚による労働者への独裁的支配体制として固定化され疎外された形となっていたことが問題なのであり、イギリスなどの労働党政府での政策は、あくまで資本主義経済体制の枠組みの中で、いわゆる「社会資本を」国家が管理運営するという形ゆえの矛盾であったと考えられるのである。

 だから、こうした経済の「社会主義化」や「国家管理体制」が挫折したあとに、「新自由主義」といわれる初期のアダム・スミス的資本主義思想が形を変えて再び登場することになったのである。彼らが「自由がない国家統制社会ではなく自由な個人の活動が保障された社会」を提唱し、「小さな政府」を主張する中で、労働者階級は再び混乱に巻き込まれることになってしまったのである。

 では、本来の計画経済体制とはどのようなものであるべきなのだろうか?そこでのキーワードは「だれが社会全体の経済を計画し運用するのか?」である。それはもちろん党と国家官僚によるトップダウン体制ではなく、また生産手段を占有し、それを元手に市場で「自由に競争する」資本家たちが、そのために共通に必要とする社会的経費を「社会資本」として国家機構の管理運営に任せるような体制でもない。

 まずは「国家」というものの形をこれまでの様な、中央集権的な総資本代表政府とは全く違ったものにして行くことが必要であろう。それはひとことで言えば、自立経済的地域社会の連合体というイメージである。もう少し具体的にいえば、自然発生的な地域社会内で基本的に必要な生産と消費をまかなうための経済的骨組みがその地域社会の中で自足されているような形の社会を一つの単位として、それぞれことなる地域社会同士が互いに必要に応じて生産物や労働力を交換し合えるような形の連合体を形成する「国家」である。それは総資本的利害を守るために作られ、「民族」や「宗教」などをも統治手段として駆使した政治的な「幻想共同体」としての国家を作り上げ、労働者階級を「国民」の名の下に結束させ、他国との戦争(例えば経済的国土支配権や資源の奪い合いという形での戦争)に駆り出すことを可能にさせるような国家では決してない。

 こうして作り出される自立経済的地域共同体の主要な構成員である労働者たち(この中には従来の様な土地所有者としての農民ではなく、共有地において農業に従事する人々も当然労働者として含まれる)がボトムアップ的統治機構を通じて自分たちの社会の生産と消費の計画的策定を行い、社会的共有財を管理運営をするのである。

 そしてそれらの地域共同体の連合政府は、各地域社会の運営をバランスよく保つことのみが目的となる。そこには「強力なカリスマ的リーダー」など必要ないし、共同体構成員としての絆の中で、民族や宗教での対立の原因となるものはほとんどなくなるだろう。

 こうした社会の形において初めて、社会のために働く人々が、「市場の法則」から解放され、計画的経済体制をデザインし運営する一員であると同時に、自分自身の主体的判断による自由な生き方や生活を手にすることができるのではないか?けだし「自由とは必然性への洞察である」のだから。

 (続く)

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2012年2月23日 (木)

いまふたたび次世代社会を考える(3: 私的所有に基づく個人の自由という矛盾)

 では、われわれが目指す次世代社会とはどのような姿なのだろうか?すでにこのブログの「現代における資本家階級の構造(3)」において、次の様に書いた。

 「新たな社会を築き上げるための必須の第一目標は、社会的労働の目的を労働者階級自身の側に取り戻し、労働者階級が主体となって社会的生産と消費の合理的で計画的な推進を行うことにある。それはきわめてシンプルで明快な社会経済システムとなるだろう。社会的に必要なものを必要な量だけ生産し消費できる社会である。そこには過去の労働の成果は「資本」という私的所有において疎外された形では存在せず、初めから社会的共有財の形を採るだろう。だから労働の生産性が高まり、剰余労働部分が増えれば、それが資本や過剰資本としてではなく、そのまま社会的共有財を増加させることになる。」

 そこでまず「私有」と「個人の自由」とはどのような「誕生の秘密」をもち、したがってどのような「論理」として成り立っているのかを見てみよう。けだし「発生の論理は存在の論理である」のだから。

 もともと人類が自然の産物として数十万年前に地球に現れた存在である以上、地球という物質的自然は人類の「所有物」ではなく、その存在条件として自然界から与えられたものであった。人類が社会を形成し、そこで生活に必要なモノを分担労働によって生み出しながら生きて行く様になってからは、自然はいわば社会的共有資源という形で扱われていたと考えられる。自然の一部を人間が必要とする形に作り換えそれを必要なだけ消費する一方で、社会の組織やモノを作り出す方法などが進化発展するにつれて、剰余生産物が蓄積されて行くようになり、それらは天災や戦争などの非常事態に備えるために備蓄され、それを管理する役割の人々がその権利を主張するようになったと考えられる。そういう物質的基盤の所有関係のもとで社会の内部に階級が生まれてきたと考えられる。階級社会においては、剰余生産物を支配的階級が所有し、彼らはそれらの生産物を生み出すために日々労働する人々を特定の「権威」のもとで支配するようになる。

 その中で、ある社会での剰余生産物を取得し、それを他の社会に持ち出して売ることで生活する商人たちが登場した。商人たちは通商という形で貨幣経済と交易ルートを拡大させながら、あるときは略奪や支配階級の権威を利用した戦争によって、莫大な富を獲得し、それを私的に占有し、その財力を背景に、職人たちにものを作らせ、それを買い取って売る(つまり売るために作る)という形で社会的な生産システム全体を支配し始め、商品経済を社会に全面化させた。資本主義社会の登場である。

 商品市場においては、買い手の要求に応じて商人たち同士が自由な競争を通じて損をしないで売れる範囲において決まる価格で商品が取引されることになり、ここに市場の動きに社会的な生産全体が支配されるこという状態が確立され、その中で生産に必要な労働力までもが商品として扱われることによって、一方では、社会的に必要な様々な生産部門への労働力の配分までもが、労働市場での需要供給バランスのうちに「自動的に」調整されるという資本主義的市場経済のメカニズムが完成し、他方では「資本家的個人主義」のイデオロギーが確立されたと考えられる。

 この資本主義社会では、剰余生産物の一部を「私有する」商人たちが、古い権威や圧力から解放され「自由に」市場で売買できるということが前提条件となっている。そこでは支払い手段である貨幣が社会的流通全体を支配し、商品所有者である資本家は市場での売買を通じてその万能の力を持った貨幣を獲得することが主目的となる。つまり「私的所有」とそれを市場で処分し金に換えるための「自由」とそれによって得た貨幣であらゆるものが買えるという形の支配権を獲得することが経済活動の第一義的目的となる。しかし同時にそのような「自由な私的所有者」が互いに「対等の立場で」市場において行う売買行為全体から生じる「市場の法則」に彼ら自身も支配されることにもなる。

 そして、その中で社会的に必要とされる労働を行う人々の労働力も商品と同じ土俵で扱われ、資本家は生産手段の所有者として、労働者は労働力の所有者として労働力商品市場で向き合うことになる。資本家から見れば、これは「対等な商品所有者」同士の取引であるが、労働者側から見ればこれは労働力を資本家に売りに出さねば生きて行けない賃金奴隷としての関係である。こうして資本主義社会は資本家から見れば、「自由で平等な」商品所有者の世界であり、労働者としては生産に必要な手段を持たず、したがって資本家に労働力を売り渡たすことで生きるために必要な生活手段を購入し、労働の成果である剰余価値を含むすべての生産物は資本家の占有物となるという階級社会なのである。

 しかし、このような「自由な商品所有者」による市場での自由な競争がもたらす市場の法則(「神の手」)によってすべての社会的生産消費システムを自動的に調整される(アダムスミス的「レッセ・フェーレ」)、という資本家的神話はすでに100年近く前に行き詰まり、世界大戦や世界金融恐慌といった形でその矛盾と限界を露呈しているのである。

 それは、本来社会的な共有財であるべき生産手段および社会的労働力や剰余価値の蓄積が、それらを私的に所有する資本家たちによる金儲けのための自由な競争の手段に貶められているという根本的矛盾から来る必然的結果であるといえる。だからその根本的矛盾をそのままにして、如何にケインズやフリードマンなどのように資本主義経済体制の仕組みをいじくり回してみたところで、そこからは結局さらなる新たな形の矛盾以外の何物をも生み出さないのである。(続く)

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2012年2月22日 (水)

いまふたたび次世代社会を考える(2: 資本主義経済体制の限界)

(1)から続く。(この章は2月23日にかなりの部分を書き換えた)

 こうしていまの世界情勢を見ると、世界中で民衆のプロテスト運動が起きているにも拘らず、それらはまだ、目の前にある生活権への要求や圧政からの解放といった直接的な目標しか掲げられておらず、長期的な展望に基づく「獲得すべき社会形態」のイメージはできていない様に思える。

 先進資本主義諸国のプロテスト運動も、このままではおそらく再び支配階級である資本家たちの存在を認める形で、一見「豊かな」消費生活を送れる「分厚い中間層」の社会を「選挙」などを通じて再現させようと模索することになるだろう。しかし、残念ながらそのような「幻想」はもう現実化しないだろうと思う。その理由は以下のようである。

 例えば日本では、かつての「高度成長期」から「バブル崩壊」直前までの間に維持された「分厚い中間層」による「豊かな」社会は、資本の生産拠点が国内にあり、労働者は雇用の機会に恵まれ、国際商品市場で日本製品がまだ競争力があった時代である。ここでは資本家階級はまだ労働者にその搾取した剰余価値の一部を形の上では労働賃金の一部として(実は結局資本家の手に還流する単なる前貸し資金なのだが)上乗せする余裕があったのである。その中で、われわれの生活は「高度消費社会」と呼ばれる様な大量消費時代を迎え、アメリカやヨーロッパと同水準の消費生活ができるようになった。そして先進資本主義諸国の労働者階級は自らを「中間層」と位置づける様になったのである。

 しかし、それは1930年代の世界恐慌を乗り切った新たな資本主義経済体制が、実は、その高度な生産力によって絶えず生み出される過剰資本の処理形態を大きく変え、東西対立の中での軍事バランスを生み出す軍需産業への莫大な投資(アメリカの場合)や、国中の道路や電力などのインフラ整備(日本の場合)への投資、そして資本家の搾取した富の一部を労働者たちに、一定程度の水準の賃金として前貸しすることで消費力を高めさせ、消費資料商品市場の活性化という形を通じて資本家階級の手にそれを還流させ、他方では労働者の購買欲を一定程度満たす「豊かな消費生活」の演出によって労働者が階級的な自覚や結束を高めない様に手なずけることに用いられた結果なのである。

 そのため、やがてその無計画でグローバルな消費拡大経済は、大量の排気ガスによる大気汚染や、石油や森林を初めとする自然資源の枯渇を招き始めることによって、物理的に「消費拡大」の限界を示すことになった。

 それに対して資本家側の立場に立つ知識人たちは「持続可能な経済成長」を訴えるようになった。これに対して以前挙げたセルジュ・ラトゥーシュが痛烈な批判を浴びせているのでそれも読んでほしいが、要するに彼らが目指す「持続可能性」は本当は「経済成長」ではなく、資本主義体制なのである。しかし、資本主義体制それ自身、「経済成長」と呼ばれている資本の拡大が見込まれなくければそれは絶対的過剰(投資した資本に見合う利潤が得られないという形の過剰)に陥ることであり、投資先を失った資本主義経済体制の運営は必然的に立ち行かなくなるのである。この矛盾がいまの資本主義経済体制の完全な限界状態をあらわにしているのだ。

 そもそも地球全体が人類の共通に生きる場であり、それはまた人類社会全体の共有財であるにも拘らず、私的にその一部を占有する個人(資本家)が自由にそれを売買し合って私的な富を増やして行くという矛盾した資本主義社会の原理において、地球という限られた空間における資本の拡大が、したがって資本主義経済体制の発展がもはや物理的に不可能であるという厳然たる事実がいまや示されているのだ。

 それに対して、いま資本主義国の社会的分業種のすべてを支配している資本家階級は、その矛盾した資本の論理を「個人の自由」という看板のもとにそのまま維持して、それぞれの国の状態に応じてその矛盾を取り繕うための対策を模索しているのである。

 日本やヨーロッパ諸国では、直接社会的に必要な財を生産する労働の場ではなく、「サービス産業」「レジャー産業」や「ソフト産業」といった第3次産業的分野に重点投資して資本を稼ぎだすことを模索したり、いわゆる「付加価値」の高い商品(高級ブランド品や高価な労働集約的商品など)を市場に送り出し、本来の価値よりはるかに高い市場価格の商品を富裕層に対して売りまくることで利益をあげるべく国の産業構成を変化させようと模索しているようである。

 これらの「サービス」や「ソフト」は、産業の形としては成り立つかもしれないが、あくまで別な国での生産的労働が生み出した膨大な価値の蓄積を前提としており、その蓄積された膨大な価値(資本)の存在あってこその「サービス」や「ソフト」なのである。サービスやソフトそれ自体は本来の意味での価値を生み出さない。それはいわばサービスやソフトという形での消費と交換にすでに蓄積された過剰流通資本の一部を獲得する寄生的産業であるといえるだろう。

 結局、日本などではこうした寄生的産業や金融業などの非生産的産業、それに消費市場を支配する商業資本や流通産業など間接的生産分野での産業により多くの資本を投入して、そこに労働者の雇用を生み出す「寄生産業国家」に変貌させることを考えている様だ。

 しかし、それは一方でアジア、アフリカ、中南米などのいわゆる後発資本主義諸国が、その安くて豊富な労働力を武器にして、生産的労働を行い、そこで世界中の労働者階級の生活に必要な物質的財の多くが生産され、その労働の成果を占有する資本家たちは、それをグローバル商品市場の中に投じ、先進資本主義諸国の商業資本家たちがこれを大量に買い取り自国内で労働者たちに販売することでその賃金を貨幣という形で還元させ、莫大な利益を上げることが前提とされている。

 先進的資本主義国の寄生的産業を経営する資本家たちは海外の後発資本主義国も含めて比較的富裕な労働者や資本家などを相手にサービスやソフトを売りまくることで莫大な利益を上げる。先進資本主義諸国の労働者の多くはこうした資本家たちの経営する産業に雇用され、生活する。だから彼らは、生活資料の生産を後発資本主義諸国の労働者や農民の労働に依存し、その生活資料を購入するお金を自分の雇用主である資本家から前貸しされるという形で生きているのであって、かつての「高度成長期」の「中間層」とは中身が異なる「寄生的労働者階級」になってしまっているのである。

(続く)

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いまふたたび次世代社会を考える(1: 流動化する世界情勢)

 これまでにも何度か現代資本主義社会への批判のもとで、次世代社会について考えてきたが、ここでは、前回まで3回に渡って述べてきた資本主義社会の本質的構造を根本から覆し、社会のために働く労働者たちが本当に主人公になれる社会を生み出すにはどうすればよいのかという問題についてこれから数回にわたって考えてみようと思う。

 いま、世界中で、労働者たちのプロテスト運動が起きている。アメリカでもヨーロッパでもそしてロシアや中東でも。一方で資本家たちのソサイエティーは、資本主義国家という形において「民主主義」という名目の統治形態で、労働者階級を支配している。しかし、資本家的経済体制は、すでに一国ではその経済体制を支えきれなくなっており、グローバル資本を基礎とした国際的な資本主義国家の連合を模索している。その先駆けとなったEUは、20世紀末に自己崩壊した東側の「社会主義国家群」をも取り込み、通貨の統合も成功したかに見え、やがてアメリカや日本を中心とした資本主義国家連合と肩を並べる政治経済体制となるかの様に見えたが、いまやEU全体が域内のギリシャ、イタリア、スペインなどでの国家財政運用の失敗を引き金としてEUの経済体制全体が資本主義体制として危機に直面している。経済的に破綻したギリシャの国家財政支援を行わねば世界的な「信用不安」や経済恐慌を引き起こしかねない状態である。EUは莫大な税金を元手とする金を注ぎ込むためには、ギリシャが経済政策を転換し自国の労働者階級への賃金カットや年金削減を行うよう要求している。

 この事実を見ても、いかにいまの資本主義経済体制の「民主主義諸国」が資本家階級の利害に左右され支配されているかが明白である。彼らは、資本家的企業体制を維持するために労働者階級に大きな犠牲を強いているのだ。アテネで「メルコジ体制批判」という形で労働者たちがプロテストするのも当然ではないか!

 いまの先進資本主義諸国の経済体制は実は、アジア、中東、中南米やアフリカなどの専政的国家で「グローバル資本」に搾取される労働者階級や、それらの国々から先進資本主義国に出稼ぎにきている労働者たちの低賃金労働に支えられており、高い生産性ゆえに莫大な蓄積をもたらす過剰資本を金融資本家たちが占有し世界中に投資しまくり、同時にそれら流動過剰資本が資本にとって本当に過剰化しないように先進資本主義国の労働者にさまざまな形の浪費を「消費拡大」として強い、また軍需産業へ過剰資本を注ぎ込むことで、経済恐慌をかわしながら肥え太り、資本主義諸国の政治経済を支える資本家階級たちに分配し、その国の総資本の立場を代表する国家が発行する国債を持つなどという形で支え合い、その支配力を維持し続けているのである。

 もちろん、世界中で起きているプロテスト運動は、その国や地域特有の政治経済体制の背景のもとにあり、例えば、「アラブの春」と呼ばれた一連の北アフリカや中東のプロテスト運動は、先進資本主義国の支配階級と経済的な利害上結託してきた独裁者たちが、「反独裁」を旗印とした民衆の革命によりひとまず放逐された、という状態である。しかしその後のエジプトやリビアなどの状況は、その混乱の中で、再び宗教的独裁への動きがあったり、部族や宗派間の対立が表面化したり、インターネットなどを駆使して革命を成功に導いた若者たちが必ずしも「あるべき社会体制」への展望を持ち合わせていなかったりしたため、紆余曲折が予想されている。

 EUでのプロテストでは、大量の失業や賃金カットという状況に対するプロテストが主であり、労働者たちの多くは「もとの生活状態を取り戻せ」と要求しているようである。

 アメリカでは、破綻しかけて政府から莫大な税金を使ってテコ入れされながらウォール街の金融資本家たちのあまりの勝手な振舞いに対する怒りが大きい流れを作っていたようである。そして雇用の拡大要求や「アメリカ産を再び」という旗印のもとに、海外に流失したアメリカの生産拠点を再び国内に戻そうとする運動や、オバマの社会福祉制度に重点を置いた「大きな政府」型経済政策に対して「自由経済」を旗印とした右派資本主義者がそのプロテストには入り混じっているようだ。

 そしてロシアでは、あのスターリン主義的に変質した「社会主義」政権崩壊後に、豊富な地下資源を獲得した新興資本家たちを代表する半独裁的なプーチン体制に対する民衆の怒りが爆発しているようだ。

 中国はもっと複雑で、アメリカ、ヨーロッパそして日本などの先進資本主義諸国の「消費経済型市場」をテコにして、いまや中国型「一党独裁体制国家独占資本主義」として成長した資本主義経済体制を国家指導で突き進めている中で、かつて革命の主人公であったはずの労働者や農民が「豊かになれる者から豊かになればよい」という鄧小平の号令以来、「豊かになれなかった」民として「豊かになった」人々(新興資本家)や、それと結託し汚職にまみれた官僚などの権力のもとで過酷な搾取を受けている。特に奥地の少数民族への搾取がひどく、彼らがプロテストのおおきな力になっている様に見える。

 さて、そのような状況の中で日本は一体どうなのか?われわれは、「資本主義以降の社会」のあり方をどのように考えて行けばよいのだろうか?(続く)

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2012年2月19日 (日)

現代における資本家階級の構造(3)

(2)からの続き。(この章は、2月23日に大幅に書き換えた)

 いま巷では、資本主義以後の社会に関する本がベストセラーになっている様だが、それらの本の著者たちはほとんどの場合「資本」というものの本質についての理解がまったくできていないため、資本主義イデオロギーの補完を行っているに過ぎないことが多いのである。ハーバード大学を卒業して一橋大学の名誉教授になったりすればそれだけで、その人の言うことが大きな影響力を持つという世の中だけに、これは重大な問題である。そこで次の様な基本的事項を確認しておこう。

 「資本家」とは、あこぎに金儲けばかりを追い求める「悪しき資本家(マネタリスト)」のみを指すのでは決してなく、本来社会的共有財であるべき土地(つまり人間が生み出したものではなくその存立条件となっている地球全体の自然)と過去のすべての人間労働の結果であり社会的共有財であるべき生産手段を私的に占有し、これを元手にして労働者の労働力をその労働者が生活するために必要な資料の価値と等しい価値で購入し、その労働力をすでに占有する生産手段と結びつけることであらゆる社会的に必要な諸労働を「企業」という資本家的組織において行わせ、そこで労働する労働者たちの生きた労働の成果から絞り取った剰余価値部分(労働力の購入のため支払われた価値を超えて労働において生み出された価値部分)を含む商品を市場を通じて売ることでそれを利潤として獲得し、金融資本という形態で異なる分業種を経営する資本家間に融通分配させながら、社会的生産=消費のサイクルを推進させ、その過程で投資した資本に見合った利益を私的に獲得しつつさらに拡大させることを究極の目的として活動している人たちのことである。

 したがって当然、資本家自身も「自由な商品所有者」という自覚において「平等な権利と条件」のもとで市場競争を行って利潤を追求すると自身考えているであろうにも拘らず、実は「人格化された資本」として彼ら自身、資本の論理を実践することにおいて「資本の法則」に支配されているのである。

 この資本家たちは一つの階級ととして存在できるためには、生きた労働を、したがって諸個人の実存と社会的存在意義を表現する力である労働力を資本家に売り渡し、そのすべてを資本の生産過程とさせることにおいてのみ、資本家階級にその存在意義を認められ生活する諸個人、つまり賃労働者たちの存在を前提とする。資本家階級は労働者階級なしには存在し得ないが、労働者階級は資本家階級なしに存在することができる。いやむしろ資本家階級の存在がなくなることによってこそ、初めて本当の意味での社会の主人公になれるのである。

 資本家階級の存立基盤はあらゆる労働者たちの過去の労働が生み出した富(その歴史的搾取過程はマルクス「資本論」の資本第24章「いわゆる本源的蓄積」を参照)、つまり「過去の労働の成果」の私的所有であり、その意味では資本主義社会は、本来社会全体の財産であるべき死んだ過去の労働の成果を私的に占有することで、現在における生きた社会的労働すべての支配が確立された社会(つまり本来社会的に共有されるべき「モノ」が私的に所有されることで、社会的人間のあり方そのものを支配するという形でモノと人との関係が逆転した社会)なのである。

 だから、資本の軛のもとに置かれた労働者たちが、互いにその立場の共通性を理解し、ひとつの階級としての歴史的な自覚を持つことを出発点として、矛盾に満ちた資本主義体制を覆し、新たな社会を築き上げるための必須の第一目標は、社会的労働の目的を労働者階級自身の側に取り戻し、労働者階級が主体となって社会的生産と消費の合理的で計画的な推進を行うことにある。

 言い換えれば、過去の死んだ労働の成果を、あらゆる、社会的に必要な生きた「現在」の労働を行う人々自身が直接(つまり資本という疎外態を媒介することなく)その共有手段として用い、それを通じて確かな未来を計画的にうみだすことができるような社会を獲得することなのだ。

 それはきわめてシンプルで明快な社会経済システムとなるだろう。社会的に必要なものを必要な量だけ生産し消費できる社会である。そこには過去の労働の成果は「資本」という私的所有において疎外された形では存在せず、初めから社会的共有財の形を採るだろう。だから労働の生産性が高まり、剰余労働部分が増えれば、それが資本や過剰資本としてではなく、そのまま社会的共有財を増加させることになる。

 現在の様に、資本の支配のもとでの疎外された労働ゆえに、労働の中ではなく、商品の購買や浪費においてしか「自己実現」できないような「浪費社会」ではなく、人々はその労働そのものにおいて、自分が社会の中でどのような存在意義を持つのかを直接感じ取ることができ、いきいきとした日常生活が営まれ、未来社会を計画的に生み出して行ける社会になるであろう。そこではかつて資本家階級だった人々もまた資本の論理(法則)から開放され、一労働者として本来の人間性を取り戻すことができるようになるだろう。

 以上は、資本主義社会崩壊後に生み出されるべき社会を考えるためには必須の大目標であり、しかもこれは単なる主観的目標ではなく、歴史の科学が実証する目標であるといえるだろう。

 以下の議論はこの大目標を前提として行っていきたいと考えている。

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