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2012年2月26日 - 2012年3月3日

2012年2月29日 (水)

いまふたたび次世代社会を考える(7:迫り来る危機)

 (前回からの続き)アメリカでは、一昨年、経営危機に陥って政府から巨額の支援を受けたGMが復活し、フランスのプジョーと業務提携をして市場の拡大を図っている。また同様に巨額の政府資金の支援を受けた金融資本も息を吹き返し、労働者階級も雇用が増え、「消費力」が回復するとしてこれを歓迎しており、アメリカの消費主導型資本主義体制は一息ついたかのように見える。しかし問題の本質は何も解決していない。

 EUでは相変わらず不安定な状況が続いており、ユーロの世界金融市場での信用回復のため、破綻した域内の資本家的国家へのドイツやフランスからのテコ入れが必ずしも成功してはいないようで、相変わらず世界金融資本市場への不安定要因となっている。

 そしていまやアメリカやEUそして日本を含む世界資本主義経済体制の牽引車となった中国も、トップダウン的人口抑制政策の効果もあって、地方の農民から供給される安い労働力が減り始め、労働賃金が上昇し始めるとともに、それに対して、少ない労働者数で大量に商品を生み出すべく中国内企業の資本家たちによる資本構成の高度化が進む一方、それに見合った固定資本(資源エネルギーなどを含む)の供給不足や先進資本主義諸国への輸出市場の拡大が見込まれなくなってきており、資本の過剰化という壁にぶつかりつつあるようだ。しかも、かつて労働者・農民のための前衛組織として生み出された共産党が、いまや資本家たちと結託して独裁的支配階級となっており、そこに当然起こる汚職と利権の腐敗が、労働者や農民たちの怒りを駆っている。

 日本ではどうか?首都圏直下型地震でも起きれば、それは直接的な危機としてすべての人々が受け止めるが、前回まで述べたような経済的危機においては、まだ人々はレジャーやエンタテーメントにうつつを抜かしていられる日常生活が平穏に続くものと思い込み、あまり深刻ににこれから起こるかもしれない生活や生命の危機的について考えてはいない様だ。

 来るべき危機がどのような形で起きるかを予測することはきわめて難しいが、私の乏しい知識と状況判断によれば以下の様な形がありうべき危機ではないかと思われる。

(1)飽くなき資本の利潤獲得への欲望と、限られた地球資源という絶対的矛盾の中で当然起こる結果として、それぞれの国の総資本の立場を代表する政府間での資源エネルギーの争奪戦が激化し、本来人類の共有財である大地や海を「国の領土や領海」として所有権(国家という形での私有の最高形態)を主張する国々の間で紛争が発生し、再び戦争となる可能性がある。

(2)増大する世界人口と、資本の工業生産への集中と自然破壊による農業の停滞。それによる世界的食料供給不足と、農業メジャー資本の農産物市場支配から来る食料価格の暴騰と、それによる大規模な生活破壊や飢餓の発生。

(3)金融市場に支配された国家財政が、負債と過剰資本を処理しきれなくなって起きる世界資本主義経済体制の崩壊とともに破綻し、それによって起きる、公共事業や社会福祉事業および年金制度の崩壊。

(4)こうした状況において当然起こるであろう大規模な失業や生活苦に対するさまざまな形での労働者階級のプロテストや階級闘争が、それらを新しい世界経済体制に導くための指導的組織がないために陥るであろう混迷。

(5)それに乗じて台頭するであろうネオ・ナショナリズムや宗教的国家思想による諸国間での対立の助長と、それを「ビジネス・チャンス」と捉えている軍需産業資本による兵器輸出がもたらす悲惨な殺し合いの増大。

 などである。このような諸条件がそろったいま、それは世界的規模でいつ起きてもおかしくない危機であり、現にいくつかはすでに始まっている。

 この中で、世界資本主義体制の崩壊による社会的危機を乗り越えるためにもっとも重要でありながら、もっとも遅れているのが、(4)で挙げた、労働者階級の指導的組織の再構築である。マルクスが資本主義以後の社会建設へのもっとも強力な理論的武器として残してくれた「資本論」に代表される思想を正当な形で発展させ、ボトムアップ的民主主義の総力を結集して階級的な力にまとめあげることができる21世紀型の労働者階級指導部を生み出さない限り、小市民的な個人の集合体でしかないプロテスト運動は敗北するしかないからである。資本の側がどんどんグローバル化しているにも拘らず、各国の労働者階級は、相変わらず資本家代表政府の「国境」の中に封じ込められているいま、マルクスがもし生きていれば彼は再びこう言うに違いない。「万国の労働者、団結せよ!」

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2012年2月28日 (火)

いまふたたび次世代社会を考える(6:「モノづくり立国」の崩壊)

 昨夜から今朝にかけて、国内の電機メーカー資本が共同出資して作った日本唯一のメモリー製造会社でエルピーダ・メモリが倒産したというニュースが報道されている。一方で韓国のサムスンや台湾の企業に世界DRAM市場でシェアを奪われ、他方で超円高による輸出利益の減少がその原因だとされている。

 日本は、総資本の立場からすると、「モノづくり」を中心とした工業生産企業の商品輸出で国際市場から利益を稼ぎだす「輸出産業型国家」であるとされてきたが、国際市場での熾烈な競争に勝つためには、輸出産業企業に雇用されている労働者数をできるだけ減らし(可変資本部分の減少)、大規模な設備投資(固定資本部分の増大)を行って生産の「合理化」(資本構成の高度化)を行い、国際市場で競争に勝てるように商品の価格を抑えなければならない。しかし、この大規模な設備投資に見合った利益を得るためには、大量に商品を売らねばならず、そうしなければ高度化した生産力は過剰資本として資本の蓄積を阻むことになり、資本家的企業は成り立たなくなるのだ。

 国内で雇用する労働者の賃金は、すでにその賃金という形で前貸した貨幣を「消費材の購入」という形でそれらを生産する企業の利益となることを通じて資本家階級全体にに還流させるメカニズムが出来上がっている以上、消費財市場の縮小を避けるためむやみに賃金カットはできない。しかも「合理化」により労働者一人一人の生み出す労働生産物の剰余価値部分は増大するが、労働者数が減った分、トータルな剰余価値量は減少する(一般的利潤率低減の傾向的法則)。それを利潤の増大に結びつけるには、それまでの生産量をはるかに上回る量の商品を市場に投入し、どんなにエネルギーや資源を無駄遣いしても、シェアの拡大によるトータルな利潤の増大を図らねばならなくなる。これが資本主義経済の法則だからである。

 こうして国際市場ではつねに各国の同種産業資本家たちによる熾烈なシェア争いが起きており、そこで働く労働者たちは「合理化」で労働者数が減った分、一人当たりの労働量をぎりぎりまで増やされ、過酷な労働を課せされる。しかも資本家が国際市場で取引に用いる通貨のレートがつねに変動するため、製造企業はつねに市場の無政府的動向に振り回される。それに加えて、そうした企業に投資している金融資本家や株主たちが、差益を見込んで企業の株を売り買いする証券取引市場では、市場の無政府性ゆえの思惑買いが行われ、ちょっとした先行きの思惑で株価は大きく変動し、資本家たちはいつも危ない橋を渡らねば利潤が獲得できなくなっている。これが「自由経済」の内実である。

 こうして「モノづくり」資本を価値生産の源泉としながら、そこから生み出される膨大な量の剰余価値を遊休資本の有効化という形で吸い上げ、融資や投資で「利子生み資本化」し差益を稼ぎながら資本家階級全体にそれを分配することで、「産業の血液」としての金融資本を握るのが金融資本家たちなのである。

 その中で、日本のような消費財を中心とした「モノづくり」資本家が稼ぎの中心であった国では、つくられたモノを、国内市場において、労働者階級に生活消費財として購入させることを通じて、労働賃金として前貸した貨幣を還流させ、それによって資本家階級全体が潤っていた「高度成長期」があったが、やがて1970年代後半には国内需要が「飽和状態」となり、モデルチェンジなどにより買い替え需要(多くのデザイナーがそのために雇用された)を喚起することに注力したが、それにも拘らず国内市場から上がる利益は頭打ちとなってしまった。そのため「モノづくり」資本家たちは、需要が大きくなりつつある諸外国への輸出に利潤獲得の軸足を移していったのである。

 輸出に軸足をシフトした「モノづくり」資本がぶつかった最初の壁は、主要な輸出先であった先進資本主義諸国の生産企業とそこに雇用されている労働者たちによる貿易摩擦という形での猛反発(ジャパン・バッシング)であった。しかし、そこは、それらの先進資本主義諸国の総資本を代表する政府と日本政府双方の基本的立場の同一性の上に立って互いに自国資本家階級が利益を分け合う形の政治的駆け引きで乗り越えた。しかしそれはまた経済とは別の面(軍事戦略体制など)でのツケを回される結果にもなった。

 そしてその後、日本の輸出産業資本は第二の壁にぶつかった。それは、韓国、中国などいわゆる後発資本主義国において、アメリカ、ヨーロッパや日本などの資本家から投資を呼び込み技術導入によって生産力を培ってきた自国資本家たちが、大量に確保できる低賃金労働をテコとして最初から輸出主導で生産する低価格商品を国際市場に投入してきたことである。

 最初は設備投資があまりかからない生活雑貨や衣料品、食料品など、そしてやがて莫大な設備投資を必要とする電機産業や半導体産業などでもこれら後発資本主義諸国の輸出商品が世界市場を圧倒して行った。そのため先進資本主義諸国では、生活資料商品の「価格破壊」が起き、国内企業の大半が立ち行かなくなり、労働者階級の生活資料のほとんどがこれらの後発資本主義諸国や自国企業の海外拠点から逆輸入された商品になってしまった。労働者の賃金はそのため頭打ちとなり、国内では、自動車など中小企業の高度な技術をベースとして巨大な海外生産ネットワーク上に構築された輸出産業や、高級カメラなどのような先端技術を駆使していわゆる高付加価値商品を製造する企業だけが生き延び、それ以外の生活消費材産業の大半は衰退の一途を辿った。

 生活消費財の輸入や販売を行う商社や流通業、大企業化した小売業そしてアニメやゲームなどの娯楽産業、レジャー観光業、不動産業などが金融資本家の投資先になるとともに彼らは、勝ち目のない製造業よりも手っ取り早く儲かる投機筋などに利益獲得の軸足を移して行ったのである。

 こうしてかつての「モノ作り立国にっぽん」は、かつてのイギリスや最近のアメリカなどと同様に、生活に必要な資料のほとんどを国内で生産することができなくなり、第三次産業や金融企業によって稼ぐ資本家たちが経済を支配する寄生的国家になりつつある。「豊かな消費を享受する国」の顔をしながらその内臓はぼろぼろに蝕まれ、次世代を担うはずの若者たちは自らの手でこうした矛盾を告発し、新しい社会を築いて行こうとする意欲すら失っていきつつあるように見える。 

(続く)

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2012年2月27日 (月)

いまふたたび次世代社会を考える(5: グローバル資本の「人工国家」論)

 今朝(2月27日)の朝日新聞に、「<カオスの深淵>国を見限り「選ぶ自由を」」という解説記事が載っていた。あのケインズ主義にたてついたシカゴ派代表で、自由市場経済主義者のミルトン・フリードマンの孫のパトリ・フリードマン氏が推進しようとしている市場中心国家「アップルトピア」の話である。

 まずサンフランシスコ沖にいくつもの人工島を作り、既存の国家権力が及ばない治外法権的地域を獲得し、そこに同じ考え方の人間が「トップダウン民主主義」によって合意した必要最小限の基本的なルール(憲章)のもとで、グローバル資本を導入して自由な企業活動を行える様にする、いわば「社会が市場に奉仕する」形の様々な「人工国家」を生み出し、人々は、商品を選ぶ様にその中から自分の好みにあった「国」を選択し、そこに住んで企業活動に参加する、という計画だ。

 まだるっこしい民主主義的手続きなどを経ずに、市場の競争に任せた「スピーディーな」対応ができ、そこでフリードマン的な「自由市場経済社会」を実現させようというものだ。

 これに触発されて中米のホンジュラスでも、「貧困からの自由」を達成するため、同様な方法で治外法権地域を設け、外国企業を呼び込み、諸外国から有識者を集めた「外部委員会」にそこでの社会運営を任せる、という構想が出てているらしい。そして地元の労働者たちは、雇用のチャンスが増えるので助かると歓迎しているらしい。

 いずれの場合も、民主主義的手続きや、既得権という制約や束縛なしに、市場の原理に従って、「自由に」経済活動が行える「特区」を設け、そこで人々が「自由に」仕事にありつき、生活できることを目指しているようだ。各国の資本家たちの関心を集めており、巨額の資本が動き始めているらしい。

 これらの提案を推進しようとしている連中にとっては、本来の民主主義は「自由」の敵であり、民主主義の束縛から解放されて市場が自由に動ければ社会はうまく行く、という市場至上主義、あるいはハイパー資本主義の実現こそが次世代社会の姿なのであろう。

 だが、彼らが冒している決定的誤りは、これらの「理想人工国家」はもう一方で、過酷な労働によってそれらの国の礎となる資本を世界中で日々生み出している、圧倒的多数の労働者の存在が無視されていることだ。彼らは効率のよい市場経済が富をもたらすと考えているが、その「効率のよい市場経済」を進めるためには、労働の「合理化」が行われ、多くの解雇者を生み出し、それらの失業者たちは、より労働条件の悪い企業に雇用されるということが日常的に繰り返されるのである。

 これら圧倒的多数の労働者たちがその立場と権利を主張することで、資本家たちの勝手極まる「自由な競争」に歯止めをかけているのがボトムアップ民主主義なのある。そのようなボトムアップ的民主主義は「理想国家」で富を享受する「トップダウン民主主義」者にとっては、不都合で理不尽な束縛となるのは当然だろう。

 どちらにせよ、いまやグローバルに蓄積された巨大資本のもとで世界中の労働者たちの労働の搾取を繰り返しつつ資本家的「自由」を確保するためには本来の民主主義は束縛以外の何物でもなくなりつつあり、彼らはそれに対して様々な言い逃れやご都合主義的提案を行うことで、逃げ切りを図っているようだ。

 われわれがいま一番警戒しなければいけないことは、これらのグローバル資本家階級が、世界中の労働者たちを「消費者」という形で位置づけ、「消費者の要求に応える」という名目で、労働者たちに「賃金」という形で前貸した資本を、消費財商品の購入において還流させている資本家たちの支配的イデオロギーである。

 そこには個別的には熾烈な競争を行いつつも、実は資本家同士が互いに結託して総資本の立場と利益を護り合うグローバル資本家階級のもとで、半永久的に労働とその成果を搾取され、彼らの賃金奴隷となりながら、市場の無政府性を盾に、市場を束縛から解放させ活性化させることこそが社会を明るく活気のあるものにするのだとして「自由な市場社会」を信じ込ませようとする「オピニオン」が社会通念化しているという状況がある。

 だが、決して忘れてはいけない。資本家的「理想の人工国家」に実現されようとしている富は、すべて世界中の労働者たちの血と汗の結晶であることを。

(続く)

 

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