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2013年1月22日 (火)

社会崩壊の現実に無自覚な政治家たち

 先日NHKTVで「老人漂流社会」というドキュメンタリー番組を放映していた。身寄りのない老人たちは、一人で生活できなくなったときに、介護施設に入るためのお金がないことが多い。年金生活者でも入れる特養ホームは3年先まで予約で一杯の状態である。仕方なくショートステイ施設に入居すると1ヶ月で出なければならず、次の入所先をそのたびに探さねばならない。そしてそこで病気になれば直ちにそこを出なければならず、病院でも長いこと入院することはできない。だから孤独な老人たちは、病身を押して漂流生活をしなければならないのだ。

 その一方で、「社会保障国民会議」(すべての階級が参加しているわけではないのに国民会議と詐称している!)とやらでは、麻生財務大臣が、「(老人が)さっさと死ねるようにしてもらうとか、いろんなことを考えないといけない」と発言するなど、いまの政権にとっては、高齢者問題や社会保障はいわば「お荷物」であることを吐露している。
 あの「老人漂流社会」に登場した車いすに乗せられた80歳代のある老人は寡黙であまり喋らなかった。しかし、大写しされるその表情は苦痛と悲しみに満ちあふれていた。しかし、いまの政権にとって、すべては「経済の成長と活性化」がエンジンとなることで解決させるという方針で、社会にとっては価値を生みださない「お荷物」となる社会保障や福祉問題は後回しにされるばかりでなく、「役立たずの老人は早く死ね」というのが本音なのであろう。
 しかし、よく考えてみよう。いまいる老人たちのほとんどは、かつて、われわれの生活を成り立たせるべく社会の中で日々労働し、価値を生みだしてきた人たちであり、そこで生みだされた剰余価値はそもそも、社会の将来への備えであるとともに、年取って働けなくなった場合や病気になった場合のために蓄積されるべき社会共通ファンドであるはずだ。どんな社会にも労働できない人や出来なくなった人がある割合で存在し、その人たちを含めて社会の存立と永続性を考えなければならないのはまったく当たり前のことではないか。
 資本家的経営者は、労働者たちが日々の労働によって生みだした価値を、労働者には労働力を維持できるに足りるだけの価値部分(可変資本部分)しか貸し与えず、その他の大部分(剰余価値部分)を自分たちの利益として無償で吸い上げ、市場での競争に勝つためにそれを新たな投資に振り向ける。そして資本家的企業の無政府的市場競争を管理調整する役割でしかない資本家代表政府は、もちろん、どんな社会においても社会保障や福祉が必要なことは知っているのだろうが、それに必要な価値を資本家たちが無償で獲得した剰余価値からすべて引き出させるのではなく、資本家から労働者に前貸しされる生活費(これはもともと労働者が生みだした価値の一部である)からさらに税として吸い上げようとするのだ。
 彼らにとって、社会保障や福祉は資本家が利益をあげ続けるために必要な資本家階級の共通経費(資本家的経済学ではこれを「社会資本」と呼んでいる)なのであって、資本家に雇用されてはじめて生きていくことができる労働者たちも当然この社会資本の大半を負担すべきであるというのが彼らの発想である。消費税の増税、企業への減税という逆転した発想はそのような立場の政府でしかあり得ない。
 一方で自分たちの国で生産することができる生活必需品(食料・衣料・住居など)は、資本家たちの市場での過当競争のために、安い労働力の国で作られる輸入品に頼らざるを得なくさせ、そのため失われた国内の生産的労働の場から多くの労働者を放出させ、それを市場での競争に勝ち抜いてマネーまみれになっている富裕層の楽しみのために奉仕する、娯楽、サービス、付加価値労働などの不生産的企業の雇用に吸収させているのだ。
 労働者から収奪した価値によって過剰に蓄積され続ける流動過剰資本の奪い合いによって、つねに不安定な金融市場に翻弄されつづけ、社会の土台はボロボロに腐ってきている。このままではわれわれの社会は早かれ遅かれ崩壊するだろう。
 もう誰の目にもこの絶対的矛盾は明らかにありつつある。それなのに、選挙で自民党は勝ったのだ。選挙民は明らかに歴史のターニングポイントで誤った選択をしてしまったのではないのか?社会崩壊の道を選んでしまったのではないのか?

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コメント

生太郎が「さっさと死ねるようにしてもらうとか、いろんなことを考えないといけない」と発言・撤回・削除したが、終末期医療、本音での議論をと題して声欄に投稿があった。人間の尊厳を保つのは個人の意志の尊重であり、この問題を掘り下げる契機にすればよいと云う。

いいでしょう。でもここには早く死んでくれと云う生太郎の要望はあっても、終末医療をできる限りやってくれよと云う個人の意志の尊重を爪の垢ほども含んではいない。そんなものは貧乏人はとうの昔に捨てて居る。なぜって親族に費用負担を掛けたくないからで、できることなら現在の最高水準の医療と介護を受けたいと願うことを忌避する人は少ないはずだ。国に負担をかけるなと云う暗黙の説得がないと云えるのか。この状況での議論がなにを意味することになるかの思考の貧弱を、残念ながら投稿者のご意見に感じないではいられない。確かに社会的問題として議論する必要はあるが、さっさと死ではなく、長く楽しい終末医療介護が想定されてこその議論でなくてなんであろう。あっすいません、麻が抜けてました。

麻生太郎他の面々が、多分こう言い出すだろう。高齢者、貧乏人、失業者、身障者に金を掛けることで、国が、企業がなくなってもいいのかなあ。いいというのが正解である。

投稿: mizz | 2013年1月25日 (金) 12時10分

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