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2013年8月16日 (金)

68回目の敗戦の日に

 敗戦から68年が経った。安倍首相は靖国神社参拝をやめ、私費で玉串料を払い、参拝できなかったことへの「お詫び」の印としたそうだ。そして全国戦没者追悼式での首相としての式辞では、村山首相以来、首相の式辞に必ず含まれていた、周辺諸国への加害責任に触れず、不戦の誓いもしなかった。安倍さんは2007年の第一次安倍内閣の時には従来の歴代首相の姿勢を継承したが、今回はそれをしなかった。なぜか?その背景には憲法改定への布石があるに違いない。

 当然のことながら、中国や韓国からは非難の声があがった。尖閣諸島や竹島の問題をひとまず差し置いて、われわれもこのことを冷静に受け止める必要があるだろう。1930年代の日本の政権は、欧米資本主義国に対抗し、大陸進出に力を注ぎ、「大東亜共栄圏」の建設と称しながら中国大陸への侵略をあらわにしてきた。その中で、戦争の引き金は日本の軍事政権が引いたことは誰でも知っている。要するに日本の軍事政権が引き起こした戦争であった。
 その戦争は、結局軍事政権の馬鹿げた愛国心宣揚の中で、「最後の一兵まで戦え」という号令のもとで、「終戦」させることも出来ず、民間人を含む数百万の死者を出しながら、1945年8月15日に惨めな「敗戦」を迎えた。その間にこの戦争で中国人や韓国人そしてアメリカ人も数知れない犠牲者を出した。
 それにも拘わらず、戦後の日本政府の態度は、この戦争の本当の責任と原因を突き止めようとする姿勢に乏しく、勝手に自国の戦没者を「お国のために散った英霊」として靖国神社に祀った。
 当時の軍事政権に招集され、愛国心を宣揚されて、むりやり戦地に送り込まれた人々の死は、そのような軍事政権の影を引く「別格官弊大社」の形式的儀礼などによっては決して鎮められるものではないし、この戦争によって死んだ多くの中国人や韓国人、アメリカ人はここでは排除されている。おまけに靖国神社にはあの戦争を遂行した側の人々の一部が「合祀」されている。これではあまりに戦没者の霊が気の毒である。
 この敗戦の後、なぜ憲法において戦争の放棄が大きく掲げられたのか、なぜ軍隊の保持や交戦権が放棄されたのか、その理由と背景をじっくり思い起こすべきではないのか?
 また、この政府の態度を批判する人々もただ「戦争はいやだ」「戦争は二度とごめんだ」という直接的感情をぶっつけるだけではなく、戦争を引き起こした日本人のみならず、それによって死んだ周辺諸国の人々が、なぜ死ななければならなくなったのかについて歴史を直視し、「愛国」や「英霊」という勇ましい言葉で括られてしまっているあの戦争の悲劇をしっかりと冷静に歴史的事実に基づいて反省すべきなのではないだろうか?それがあの戦争で死んだ人々への本当のそして最大の慰霊なのではないだろうか?
 尖閣、竹島問題は、まずこのような政府の歴史的事実への反省があって、はじめて問題解決への交渉が可能になるのではないだろうか?
 

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コメント

  1945年8月15日に敗戦した日本の戦争の歴史を、日本の資本主義的生産の海外進出の開始から、その終焉日までの経緯をまず把握することが歴史認識の最初の一歩である。満州にどのように進出し、ロシアやモンゴルや中国とどのように衝突したのか。各国の資本と各国住民との関係を知らねばならない。そしてその強引な進出を軍事力で維持せざるを得なかった実情を知らねばならない。各国民族の抵抗はすざましいもので、それだけ日本の進出、資源略奪、労働力の収奪がすざましいものであったことの証でもある。

  軍事を背景に、政治を壟断し、植民地化することで、進出した日本資本の自由を守ったのである。当然ながら米英・ロシアの資本との衝突ともなり、世界資本間の市場・資源・労働力の奪い合いがやがて頂点に達する。これが連合国・同盟国、そしてロシア・中国・朝鮮の全軍事力の正面の戦い、ゲリラ戦、スパイ戦があり、核兵器開発、広島長崎があり、敗戦日が決まったのである。資本主義戦争の原因・結果を正確に把握することが肝要なのである。日本資本としては、日産・チッソ・満鉄、鹿島、三菱など現資本群の名がいまだにそのまま続いていることこそ、忘却の原点にもなっていることを知らねばならない。その存続にアメリカが大きく関与したからこそ、日米安保、日米同盟が日本の資本にとっては要になっていることも知っておかなればならない。

  日本軍の狼藉は、資本の維持のためであり、資本にとっては靖国に祭らねばならない結果となっている。日本のアジア各国への謝罪は日本資本の断罪そのものになるのはこのような経緯があるからであり、米軍基地を沖縄に置くのは、日本資本がアメリカ資本ご一同様に感謝せざるを得ない特別な理由があるからである。アメリカ資本の狙いもそこにあった。

  資本主義社会の進展とその戦争を追及することなしに、なんとなく先の戦争でいい思いをした人もいたのだから、多少の被害があろうとどうでもいいではないかと言い出す人々の登場にはそれだけの経過的原因が見出されることになる。資本は正しく、世界の平和に寄与したという話を通そうとするところに派生する。

  さらにグローバル資本全体に加わった日本資本にとっては、自国の軍事力の狼藉を以て維持することが出来ないことが、アメリカ資本の傘の利用に従属し、かつアメリカ側からブーツなんとかと言われる弱点となっており、集団的自衛権をなんとか持って、対等に儲けを得たいと思うようになった現状がある。

  ナチスを利用したように、テロと叫んで、圧殺する方法も見えて来る。資本に敵対する勢力にはどんな手段ででも対抗するのが資本なのである。無人機しかり。

  日本は自国資本を自力では守れない。資本間の争いを武力で防ごうとしても守れない。アメリカの力に頼る以外の方法がない。そのアメリカがいよいよ自国資本を守ることができなくなってきた。強力な軍事力を以てしても、資本外交によっても、守れない。何故かと云えば、資本自らの拡大がいよいよ限界に達するからである。金融商品というゲーム以外に方法がなく、だがこれは持ち手を変えるだけのゲームであって、価値創造ではなく、単なる損耗だからである。

  この程度のことが分かるだけで、戦争の原因と、現在の資本の状況がおおよそ理解できるであろう。古市某にはこの知識が全く見当たらない。資本教育の偉大なる成果でしかない。デザイン学の不毛も同時に解明しているだろう。

投稿: mizz | 2013年8月17日 (土) 00時22分

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