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2013年8月23日 (金)

渡辺京二さんの「生きづらい世を生きる」を読んで

 今朝の朝日新聞「オピニオン」欄に渡辺京二さんへのインタビュー記事が載っていた。渡辺さんは「近代をどう超えるか」、「逝きし世の面影」などの著書を通じて、日本の近代化以前、特に幕末頃の世相や人々のいきざまを描いている。私は残念ながらまだ渡辺さんの本をちゃんと読んだことがないが、この80才を超える老評論家の思いにある種の共感を覚えた。

 渡辺さんは、明治初期に東大に招聘された外人教師モースが「日本に貧乏人はいるが貧困は存在しない」と言った言葉を引き合いに出して、「江戸には膨大な数の貧乏人がいたんですよ。でも彼らはそれぞれ居場所を持っていた」と、そして粗末な長屋に住んでキセルのヤニ取りを生業にして生活する人の例を挙げ、彼らが食事のときには美しい食器を使っているのを見て外国人がその美意識に驚いたという史実を挙げた。地固め工事でのヨイトマケもまず歌から仕事を始める姿に外国人が驚いたそうだ。
 当時西欧ではすでに社会の資本主義化が進み、働く人々は資本家のもとで賃労働者となり、合理化、効率化という資本主義的精神のもとで近代化が進んでいた。西欧人から見ると、古きよき時代の欧州も持っていた前近代的社会の良さが江戸の町人たちの生活に見いだされたのだろう。こうした江戸の人々の生活から私たちが近代化で失ったものの大きさ、豊かさを初めて実感できる、と渡辺さんは言う。
 そして「いくら江戸時代がいいといっても当時の平均寿命はいまの半分以下だったんだぞ、という批判があります。でもその前提にある「寿命は長ければ長いほどいい」という価値観が、すでに近代の発想なんです。人は時代に考えを左右される。その思考枠に揺さぶりをかけ、いまの社会のありようを相対視したかったのです。」と言う。その通りだと思う。
 さらに渡辺さんは「(資本主義社会では)あらゆる意味づけが解体され、人が生きる意味、根拠まで見失って、ニヒリズムに直面している。だから合理的に働き、合理的に稼ぎ、合理的にモノを買って遊ぶ。(中略)遊ぶために稼ぐ。それが人生だと。でも人はいつまでもは満足できない。そのうち空しくなる」そして「(そうなったのは)根本的には高度資本主義の止めどもない深化があると思います。基礎的な共同社会を、資本主義は根っこから破壊してしまうんですよ。(中略)共同社会では無償で支え合ってきたものを、資本主義社会は商品化してしまう。(中略)資本主義は一人一人を徹底的に切り離して消費者にする。その方がお金を使いますから。生きる上でのあらゆる必要を商品化し、依存させ巨大なシステムに成長してきたのです」と。これもまったくその通りと思う。
 そして朝日の記者が「でも私たちはそれによって経済的繁栄を手に入れたはずです」と突っ込むと「その通りです。何よりも貧しさを克服した。人類は長い間、衣食住の面で基本的な生活を確保できず、初めて手に入れたのが近代ですから。しかし近代は人間を幸せにすることには失敗した。(中略)想像もつかなかったほどの生産能力をすでにもっている。高度消費社会を支える科学技術、合理的な社会設計、商品の自由な流通。すべてが実現し、生活水準は充分に上がって、近代はその行程をほぼ歩み終えたと言っていい。まだ経済成長が必要ですか。経済にとらわれていることが、私たちの苦しみの根源なのではありませんか。人は何を求めて生きるのか、何を幸せとしてして生きる生きものなのか考え直す時期なのです。」まったくその通りだと私も思う。
 そしてどう生きるべきかについて、渡辺さんはこう主張する「就職難で「僕は社会から必要とされていない」と感じる若者がいるらしいね。でも人は社会から認められ、許されて生きるものではない。そもそも社会なんて矛盾だらけで、そんな立派なものじゃない。社会がどうあろうと、自分は生きたいし生きてみせる、という意地を持ってほしいなあ。」
 ここで私はちょっと首をひねりたくなる。結局、渡辺さんは、この資本主義社会の矛盾の中で、個人の生き方や倫理観を変えることでそれを乗り切ろうというのだろうか?それが出来ないのがいまの資本主義社会システムの深刻さなのではないのか?
 渡辺さんは、かつて共産党員だったが、ハンガリー事件(1956年)でソ連の戦車が街頭で民衆に砲口を向けた時点で党とはさっぱり切れたのだそうだ。「人は何か大きな存在、意義あるものにつながりたくなります。ただ下手をするとナチズムや共産主義のように、ある大義のために人間を犠牲にしてしまう危険がある。その失敗は歴史がすでに証明しています。」という。そうなのか?私はこれには同意できない。
 資本主義社会のメカニズムの中で、モノ同様な存在としてバラバラに切り離され疎外される労働者の現実に直面し、なぜそうなったのか、どうその矛盾を克服して行けばよいのかと問いかけ、本来あるべき「類的存在」という視点からとらえ直そうとしたマルクスの共産主義思想には「大義」とか「人間を犠牲にしてしまう」組織やシステムなどという視点はまったくなかったし、その正反対の人間観が彼の共産主義思想を支えていたという事実を渡辺さんはなぜ顧みないのか?
 なぜソ連の戦車が街頭で民衆に砲口を向けた時点で、そのことに気付かなかったのか?もともとナチズムのような「ある大義のために人間を犠牲にしてしまう」組織とはまったく反対の考え方であった共産主義思想を、そのような形に変えてしまったのはいったい誰なのか? 渡辺さんは結局いまの社会の「思考枠」の中でしか未来社会を考えられていないのではないのか? 私にはそう思えた。
 

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コメント

 渡辺京二が見ている社会とは、そもそも社会なんて矛盾だらけで、そんな立派なものじゃない。だけのことで、その歴史的成立の経緯もその社会の変遷も、人間がその社会を形成し保持し変革していることも、社会の改変を迫る人間の生活をも見出していない。

 我が将棋クラブの小学校5年生が、おじさんは戦争が始まった時は何歳だったのと辣腕を振るいながら聞いてきた。真珠湾攻撃の時は小学校1年生だったと答えると、待ってましたとばかり、なんで戦争になったのか分かりますかと来た。しかたがない、王手龍取りだから、とりあえず、王将を脇にどけて龍を失う回答をせざるを得ない。「先生にお話を聞いたことある。」「うん、あるよ。様々な社会が憎み合からだ。だから人には優しくしないといけないだ。」社会が矛盾だらけだから、失業も、絶望も、戦争もある。でも勉強しないさよ。が渡辺氏のお言葉だろう。

 いかなる政党も表立っては身分制度や奴隷制度を導入しようとは言わないが、一昔前は身分制度によって差別される社会であった。どうして身分制度や奴隷制度があったのか。それがどうして社会から表向きには撤廃されたのか。今の社会の中にはいくつかの差別が歴然と残っている。どんな差別で、どうして撤廃されないのか。それが社会の変遷というものだろう。

 龍をめしあげられて、王手とうたれれば、もう勝負はついたようなもんだ。時間と手数の問題だけで、将棋は終わっている。「つよいねえ、強くなったなあ。まいったなあ、どうしてそんなに強くなったの。」「おじいちゃんに教わったのと、手が読めるようになったから。」うらやましい限りだが、「負けて憎いが、将棋の負けの憎さではだれも戦争しないだろう。戦争の原因は社会の憎しみからではない。自分の生活の根拠を失うことになれば、必至に争うことになる。どんな生活をしているのか、その生活が奪われるような事態が生じたのかどうかが問題となる。解決がつかず、武器を持つ者が戦争の力ずくを振りかざす。云っていることが分からないかもしれないが、社会で生活する人々の生活を懸けた争いが生じる。昔の戦争は領土と云う生活の根拠を奪う者と守るものの争いだった。今の戦争は金儲けする人々とそのため生活を失う人々の争いと言えるでしょう。「うまく言えなくてごめんね。いろいろとこれからも考えて見て、将棋より優しい問題だと思うよ。」

投稿: mizz | 2013年8月26日 (月) 21時16分

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