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2013年8月11日 (日)

暗黙のうちに前提されている支配的階級のイデオロギー

 8月8日に書いたブログ「戦争、しったかぶりをやめないか、という奇妙な主張」に対してmizzさんからもコメントを頂いた。二つの例を挙げて、いまの日本の政治状況が孕む危険な兆候を歴史的事実の教訓から見ようともしない古市氏の見解に一矢を報いている。

 古市氏にとってマルクスなど過去の遺物であって、何の興味の対象にもなっていないようだが、私がマルクスを重視するのは、それが歴史的事実の精査の上にたって、資本主義社会の形成過程とその論理を摘出し、その根本的矛盾を明快な論理で解明しているからだ。生成の論理は存在の論理でもあるという事実をマルクスはあきらかにしている。
 いまの日本共産党がどこまでマルクスの見解を重視しているか不明であるが、私は日本共産党が「国民政党」を脱却して真に労働者階級の代表となれるためにはマルクスの主張をきっちり理解しそれを武器として資本主義社会の現状を分析すべきだと思う。少なくとも旧スターリン時代の「教条的マルクス主義」やマルクスの思想とは似ても似つかぬ姿と成り果てた中国共産党や朝鮮労働党の二の舞は許されないだろう。
 「国民経済の内実」でも書いたが、いまの社会の支配階級が「社会常識」であるかのように吹聴している支配的イデオロギーの一つに「国民」という概念がある。そこには階級的対立関係の事実が隠蔽されている。問題はどのようにそれが隠蔽されているかであり、この隠蔽の仕組みをあきらかにすることは古市氏の職業的専門である現代の社会学で最大の課題なのではないか。
 そして近現代の戦争は大部分が国家間・民族間での争いである。しかし、現実の社会の成り立ちは、「国家」に依って立つのではなく、地球上のあらゆる地域のあらゆる人々がそれぞれの労働の中で生みだす生産物を互いに供給し合い、生活の中で消費し合って成り立つ下部構造として本来の意味での経済共同体社会である。
 そこには本来国境線は不要であるし、むしろいまでは弊害にしかなっていない。弊害という訳は、いまの世界での国境は、それらの国々で働く労働者が生みだした労働の結晶としての生産物を無償で獲得したうえ、それらを競争的な市場で国家間の労働賃金の差や貨幣価値の差などを巧みに利用する商品の売買という形でやりとりし、その利益を最大限化しようとしている人々が国境を必要とし「国家」を最高の利害単位として用いているに過ぎないのだから。
 世界中で働く労働者たちが生みだす価値のおそらく80%以上(世界的な剰余価値率の値が算出されれば数値的に明確になるはずだ)がそのような支配階級の利益として吸い上げられている。
(2013.08.12 追記:私はいますぐ国境を撤廃すべきなどと非現実的なことを考えているのではない。その地域の社会的運用機関として政府があり、その政府の運用範囲を決める必要があるので便宜的に国境線が引かれていると考える。これをまるでそこに生活している諸個人の実存を超えて最重要な実体であるかのように位置づけ、「国益のため」とか「国家防衛のため」などと、それをあたかも諸個人が奉仕すべき絶対的存在のごとくに扱うことがおかしいと考えているのだ。)
 「自由」や「人権」についても同様に支配的階級のイデオロギーが込められている。現実に社会生活を成り立たせるためにそれぞれの持ち場で働いている労働者たちはつねに、「合理化」や失業の脅威に晒され、生活を維持するために過酷な労働に従わされ、その人生も運命も雇用者である資本家たちの「自由」に振り回されている。そこで奪われている人権を本気で主張しようとすれば、治安維持のメカニズムで阻止され、世間からは「危険人物」視される。表現の自由は「社会秩序を乱さない範囲」でしか認めない。
 こうして結局、労働者たちは、支配的イデオロギーの中に安住しようとし、目先の小さな楽しみや無難な生活の中に逃げ込まざるを得なくなっている。
 経済学や社会学などを含む社会科学の研究は、こうした現代社会の矛盾を明らかにすることを半ば放棄して、ただただ、産・官・学の協力体制に邁進しようとしている。真の学問とはこんなものではないはずだ。

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コメント

野口さん、再度お邪魔させてもらいます。

もう一矢追加したいのです。

朝日紙2013年8月6日付けオピニオンページ、アメリカスタンフォード大学がデザイン教育に力を入れている。と、工学部長 ジム プラマーさんとのインタビュー記事を載せました。
いまなぜ、デザインなのでしょうか。との問いに、「私たちの努めは産業界のリーダーになるような若い人を育てることであり、まずは工学の基礎ですが、イノベーターやクリエーターを育てるには十分ではない、いや逆で、答えがない問題に取り組む教育が必要なのです。ここで云うデザインとは製品の形や色のことではなく、生活に係わるあらゆる問題の解決策を見出すことを指します。課題そのものを見つけるところから始めてビジネスにつなげる。これが「デザイン思考」と呼ばれるものです。単なる講義ではなく、グループでプロジェクトに取り組みコンペに参加したりする。そうした経験を積むことで誰もが創造的になり得ます。産業界で創造的な仕事ができる学生をこうして育てることができるのです。例えば電気もない途上国で未熟児の命を救うための保育器をどう整備するか。この課題を根本的に洗い直した結果、本質は赤ちゃんの体温を保つことであり、必要なのは電気を使わずにいかに体温を守るか、だと分かりました。発熱素材を使った20ドルほどの寝袋を開発したところ保育器を整備するより遥かに安く、世界的なヒット製品になりました。」

日本のデザイナーの基本概念とほとんど同じで、なんの新鮮さもありませんが、なんとしてもデザインで商売を維持拡大したいと願う産業界への人材育成コース以外はここにはありません。電気がない開発途上国があるはずもなく、20ドルという価格がどの程度のものか理解していないと解決策は珍妙なものとなります。片方に援助があり、どうでもいい商品が他方にありこれで解決というアメリカ資本の商品システム概念以外のなにものでもない思考をさらけ出しています。もうすこしいいグループともうすこし課題感をもった協同作業が必要なのでしょうが、それでも期待するものはありません。

原発を解体し安全に埋葬することができない工学をデザインで解決することができるはずもないではありませんか。地球規模の放射能汚染を引き起こす原子兵器を廃絶することができないという課題をいかに解決できるか。現資本主義的生産体制を維持拡大しようとする人々の一般的思考システムという桎梏を越えて解決できるか。この課題を見つけることができない現産業界には、解決しようとする人々をテロと呼ぶ解決法しかなく、思考停止そのものであることをスタンフォードも東大も忘れていませんか。かくてデザイン・オブ・デザインが新たに登場する他はないのです。やはり「マルクス資本論を読もうブロジェクト」こそ、課題発見方式そのものです。ネットで無料ダウンロードすればいいだけで、なんの制約もありはしません。様々な課題を資本主義がいかに解決したか、しようとしなかったか明解です。

投稿: mizz | 2013年8月13日 (火) 11時49分

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