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2013年10月31日 (木)

グッドデザイン(Gマーク)展2013を観て

 先日ある機会にGマーク展の優待券をもらったので、久しぶりに、六本木のミッドタウンまで出かけてきた。やたらと横文字の多い六本木の中にある、何やら複雑で分かりにくい構造の東京ミッドタウンで迷いながらようやく会場に着くと、まだ始まったばかりのGマーク展はもうかなり入場者で混んでいた。ウイークデーのせいか、半分はスーツを着たビジネスマンで、あとの半分位がデザイナーかデザイン学生のようだった。

 まずベスト100作品の展示場から始め、それ以外の入選作の展示も一応一当たり観てきがその数の多さに辟易した。おそらく1000店以上もあるGマーク商品の一つ一つの作品について語るのは不可能なので、ざっと全体の感想を述べておくことにしよう。
 私が大学を卒業して、デザイナーとして某電機メーカーに就職した1960年代半ばには、Gマークは家電、音響機器、カメラ、文法具、インテリアなどが中心でこれほど広範囲の対象を含んではいなかった。当時は通産省が主導的立場にあって、デザイン振興という目的で行われていたGマーク選定は、いまではどうやら「民間主導型」になっているらしい。
 予想はしていたが、昔のGマークに比べるとおそろしく広範囲な対象が審査の対象になっており、ベスト100作品の中にも、産業機器、医療機器、スマホのアプリやインターフェースなどのソフトウエア、などの他に、町興し運動のプロジェクト、高速道路のジャンクション、宇宙ロケットや大規模実験装置などまでが入っていた。
 この現象を、デザインがあらゆる分野に浸透して広範な領域がデザインの仕事の対象となってきた(デザインの多様化)、と喜ぶ人もいるし、逆に、こうなると何がデザインの専門性なのか分からなくなってきたと嘆く人もいるようだ。この両方の観方は裏表の関係であり、同じことを指しているといえる。
 「デザイン」という言葉が登場してきた歴史的背景には、20世紀後半の資本主義経済体制が、生活資料の大量生産=大量消費(実際には大量購買)によって維持されるという段階に入ったことがあるといえるだろう。衣食住を中心にそれに関連するさまざまな生産物を扱っている企業が、それぞれ商品市場での競争に勝つために、それらの商品を買ってくれる人々に、商品の「魅力」をアピールする必要がでてきたからである。
 当初は、衣服、家電製品、家具など直接的生活消費財がその最前線だったが、それがやがて「生活の生産」全般(ここには直接に生活消費材になる衣食住だけではなく、医療、教育、生産・交通機器なども含まれる)に関わるあらゆる製品へと拡大し、それらが商品市場での競争にコミットせざるを得なくなってきた結果であろう。
 ところがこのような歴史的背景を無視して、デザイン対象領域の拡大から、それらに共通する要素を抽出して「広い意味でのデザイン」として直接普遍的デザイン行為の定義に結びつけようとする傾向があるが、これは間違いであろう。
 実はこれは「商品デザインの領域拡大」なのであって、けっして歴史を超越した普遍的な生産物デザインのかたちではないからだ。
 歴史的に今日の様な意味のデザインという言葉が登場するのは、それが職能として登場した時期と重なる。それはまた人類がもつあらゆる労働における計画的思考能力の一側面が特定の歴史的背景のもとで「デザイナー」という、その時代特有の形に分業化され具体化された姿でもあったのだ。
 職能としてのデザイナーは、企業経営者の目的意識の一部を分担し、生活の生産に関わる商品の購買訴求力を高めるためにその感性的形式を考える、という内容の、現代社会特有の分業形態なのである。そしてそれが市場での競争激化の中であらゆる商品へと拡大していったと考えられる。
 いまなぜこんなにGマーク選定への申請が増えたかといえば、それはGマークに選定されたということが商品の宣伝になり、市場での競争力を付けることになるからだろう。
 ところでこれだけたくさんの製品を審査する人たちは、いったいどれだけこの審査に時間を掛けているのだろうか?一製品当たりの時間はほとんど数分でおわるのではないだろうか?
その製品が本当にグッドデザインかどうかは、ちょっと見では判断がつかない。着眼がおもしろい、とか、いままでにない新しさ、ということが審査員の判断の大きな要素になっていると思われるが、実は製品が商品として市場で購入されたのち、実際に消費あるいは使用されてからでないと、それが良いデザインなのかどうかは判断できないはずである。現にわれわれの生活においてデザインを売りにした商品を購入してきても長期間使用されるものは少なく、ほとんどがまだ使える状態で廃棄され、新しい商品に買い換えさせられてしまう。スマホや携帯などがその良い例だ。
 良いデザインかどうかは、実際に生活の中で長く使ってみて、それがどれだけ長期の使用に耐え、デザインが生き残って行けたかによって判断されるべきであろう。
 いまの審査では多分、商品として購買訴求力があるかないかが大きな判断要素となっており、実際に使用され、長期にわたって生活の中で生き続けるデザインなのかどうかは選定の際に判断することができないし、予測もできないのではないだろうか。
 いまの経済体制の中では、生産物のすべてが商品として市場で売られることが前提となっており、買われたのちにそれがどう使われるかについては、供給する企業側ではほとんど無関心なのであろう。実際われわれの生活の中で完全に消費され尽くされる生活材はどのくらいあるか考えてみれば分かる。
 長期間にわたって生活の中で生き続けてきた製品こそグッドデザインと呼ぶべきなのではないか。そしてそれはごくわずかの製品しかないはずである。

 2013.11.03 追記:このブログを書いた後、ある電機メーカーに長年デザイナーとして勤務していた友人から聞いた話によると、Gマークの取得は、商品イメージを高めると同時に、その製品をデザインした企業のデザイナーに対するエンカレッジの意味が強いそうだ。特に、市場での競争が激しいわゆる民生機器以外の生産機器やインフラ関係などの製品デザインへのGマークはそういう意味が強いらしい。これまでデザイナーの対象領域ではなかった分野にもいくらでもデザインの仕事はあるんだぞ、と言う意味でもエンカレッジになるのだろう。
 しかし、このことは、それぞれの専門領域でのエンジニアの労働内容と一体化されていた個別領域のデザインの仕事が、ある巨大企業のデザイナーの仕事とされてしまうという側面をも持っている。一方で「広い意味でのデザイン」化される巨大企業のデザイナーの仕事の内容はますます製造現場から遠のき、「抽象化」され、企業のトップの意思を代弁するトップダウン的なものとなり、他方で、さまざまな領域独自の問題に密着した設計現場からはデザインの仕事が失われて行くことになる。
 「広い意味でのデザイン」は、それだけを抽象すれば中身が何もなくなってしまうが、本来は、個別領域の設計技術者の能力として個々に具体的な形で存在するはずなのではないだろうか?個別具体的なデザイン労働の中にこそ、一般的な概念の中身を成長させる内容があるはずだ。それがトップダウン的になればなるほどその内容は資本の意思の代弁となってゆくだろう。

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コメント

 デザイナーやデザイン学生はこれらのグッドデザイン賞を冠せられた商品を見て、それを参考にデザインを追及することであろう。我が学友はこう私に云った。「資本主義生産体制をそのように批判するならば、一体どんな物が良いデザインなのか具体的に示して見ろ」と。

 多分、資本主義的生産関係を度外視して人間に永久的な良いデザインがあると考えているのかも知れない。なにか観念的なグッドデザインがあるらしい。

 丁度、資本論第23章を翻訳中で、労働者の消費についての記述に巡り合わせた。これを読めば、グッドデザインと云う視点が労働者にいかなる消費を強いているかよく分かるだろう。(以下引用)


(11 ) 労働者の消費は二重構造になっている。生産において、彼は彼の労働によって生産手段を消費し、それらを前貸しされた資本よりも高い価値を有する生産物に転化する。これは彼の生産的な消費である。同時にこれは彼の労働力を買った資本家による彼の労働力の消費でもある。他方では、その労働者は彼に支払われた彼の労働力のための貨幣を生存手段へと変える。労働者の生産的消費と彼の個人的な消費とは、であるゆえ、全く異なるものである。前者の場合、彼は資本の原動力として振る舞い、資本家に従属している。後者の場合は、彼自身に所属しており、生産過程の外で彼の必須の生命機能を実行する。その結果一つは資本家の生活であり、他の一つは労働者としての生活である。

(12 ) 労働日を取り上げた時に、我々は、労働者がいつも彼の個人的な消費が単なる生産の一部であることを余儀なくされていることを見てきた。そのような場合、彼は彼自身に生活必需品を供給するのだが、彼の労働力を維持するために供給する。丁度石炭や水を蒸気機関に供給するようにまた車輪にオイルを供給する様に。かくして、彼の消費手段は単なる生産手段として用いられる。彼の個人的な消費は直接的な生産のための消費となる。とはいえ、このことは資本主義的生産に本質的な関係はなくよくある悪癖のように見える。*8

 本文注: *8 もし、ロッシが、この「生産的消費」の秘密に本当にするどく切り込んでいたならば、労働者のこの消費に対してこんなふうに侮辱的な激しい言葉を使うことにはならなかっただろう。(引用はここまで)

 資本家視点が労働者によいデザインを与えていると云っているが、それがどんな代物なのか見えてくるはずだ。

投稿: mizz | 2013年11月 7日 (木) 16時37分

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