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2013年10月10日 (木)

「市場化される日本社会」を巡って(その1)

 岩波書店発行の評論誌「世界」11月号が「市場化される日本社会」という特集を組んでいる。この中で、二つの主張に着目してみた。一つは堤未果氏の「株式会社化する国家」であり、もう一つは神野直彦氏の「市場を民主主義の制御のもとへ」である。

 堤氏は「株式会社化する国家」の中で、新古典派経済学者のミルトン・フリードマンのことば「企業経営者の道徳的義務とは、社会や環境といったことよりも株主の利益を最大限あげることだ。モラルも善意も、それが収益に結びついている場合のみが容認される」をいまのブレーキの外れた果てしない市場競争を基盤とするグローバル経済社会を表す象徴的な考え方として挙げ、アメリカでの現状について以下のように捉え、その危険性を指摘している。
 アメリカでは教育も公共サービスもそして政府の低所得者への食糧支援や刑務所経営までが、すべて最も低コストで最大限利益をあげるシステムに呑み込まれて行く。そしてそれを後押ししているのが「法改正」である。独占禁止法がレーガン政権下で骨抜きにされ、銀行が国民の預金でギャンブルをすることを禁じた「グラス・スティーガル法」が撤廃され、暴走するマネーゲームが企業買収を繰り返させ、金融、食品、農業、医療、教育、軍需などあらゆる分野でピラミッド型の企業支配構造が確立し、上位1%の超富裕層の影響力が国家全体を支配しつつある。
 堤氏はそれを公教育や政府の公共サービスの破綻という実例を挙げて述べている。デトロイトに見られるように、自治体がこうしたグローバル企業やそれを支える金融資本のもとで、価格競争に晒され、公共サービスへの負担増が原因で破産を余儀なくされる現状を指摘している。そして、自治体の公共サービスが株式会社経営に取って代わることで、地域住民にとっての公益を追及する公共サービス本来の目的が「株主利益の最大化」に取って代わられる状況を述べている。
 こうして「儲からない公共サービス」が衰退し、失業者が増え、格差社会が拡大し、労働者の貧困化が進んでいく中で、組合への加入と支払いの義務化を廃止する「労働権法」ができ、それにより企業が組合との交渉を待たずに一方的に労働条件を決めることができるようになったため、全米各地で組合が解体された。労働権法を導入した州では企業誘致がしやすくなり、政府はこれによって失業率が改善されたと宣伝している。
 しかし、その内実は、労働組合や福利厚生がなく海外移転が不可能な低賃金サービス業(ウエイター・ウエイトレス、レジ係、小売店店員、メイド、運転手、調理人、用務員、弁護士など)が爆発的に増え、一方で製造業や技術職などの専門職は低賃金・低給料の地域である海外諸国に移転され、ワーキングプア人口増加による大幅な人件費削減によって経営陣と株主はますます豊かになっている。
 堤氏は、こうして社会の底辺に落とされた人々を貧困ビジネスなどによって大量に消費しているアメリカでは、国民は、市場を独占した企業群が、自分たちの国を株式会社化することに気がつかなかった、と指摘している。9.11の事件によって「テロとの戦い」を理由に通過した「愛国者法」による言論統制と監視体制の強化、そして議会を通過する危険法案への無関心によって、合法的に自分たちの権利をあけ渡してしまったのだ。
 さらに堤氏は、自国を企業天国にすることに成功したアメリカの企業群が市場を他国に拡大しようとするために、障害となる各国の国内法や憲法を超越する新しいルールとしてTPT、FTA、EPA, などなどの二国間・多国間貿易協定が次々に進められているが、そこに共通する「自由貿易」とは誰のための自由なのかを考えてみるべきだ、と指摘している。そして日本では安倍首相が「世界で一番企業が活躍しやすい国を目指します」と公言していることは周知の通りである。
 この堤氏の指摘と主張は、戦後アメリカ型資本主義社会をモデルとしてきた日本の近未来への重大な警鐘であるとともに、「経済成長」幻想の内実と本質をするどく突いている。
 ここでもっとも重要なことは。こうした国家がグローバル資本のコントロール下に置かれてしまうという状況(コーポラティズム)が、「民主主義」の本家であるアメリカを中心として台頭していることだ。19世紀末にすでに全盛期であったイギリスの資本主義社会の影響を受けながらも独自に発展しつつあったアメリカ型資本主義が、一方でリンカーンの「人民の、人民による、人民のための」民主国家という思想を理想として掲げ、イギリスの様な古い階級制度に拘束されることなく「個人の自由」を国是として掲げてきたのだが、それは一方でプロテスタンティズムを背景としながら、あらゆるものを商品として流通させることが前提である資本主義商品経済が土台にあって、個人は「商品の売買で私的利益を得る自由」が保障されるという意味であり、それは裏を返せば、有利に商品売買で利益を上げるためには取引相手はそのための手段でしかないという人間関係がベースにあることをも意味している。
 リンカーンは南部のアフリカ系奴隷を「解放」したことで知られるが、「解放」されたアフリカ系の人々の多くは、生計を得るために北部に発展しつつあった資本主義企業の労働者として吸収されていった。人身をモノと同様に売り買いすることで買い手の奴隷となって生活していた彼らは、今度は奴隷という仕事を失って、北部で資本家に「賃金奴隷」として雇用される道を選ばざるを得なかったのである。それは目に見える階級制度ではなかったが、生産手段を持たない(free from)ので、自分の労働力を売ることでしか生計を立てることができないと言う意味での「賃金奴隷」として新たな階級制度の中に組み込まれたわけである。雇用者である資本家にとって彼らは、自分に利益をもたらすための手段でしかない。やはり人間ではなくモノと同様の扱いなのである。
 こうしてアメリカ資本主義社会は「自由と民主主義」という看板のもとでの見えない階級制度を土台として成り立っている社会であることを忘れてはなるまい。そこには最初から労働力しか売るモノがないというハンディを背負わされた絶対多数の人々の存在が社会を支えているにも拘わらず、そこから莫大な利益を獲得する「自由」を持った、ほんの一部の連中がカネの力で社会を支配し、国家を手段として用いている現実が見えてくる。
 こうした「株式会社化した国家」に対して「民主主義の制御」の必要性を主張するのが神野氏である。これについては次回で述べることにする。

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