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2013年12月 1日 (日)

興福寺仏頭展をみて

 「競争に勝ち残ることこそがすべて」と言わんばかりのギスギスした雰囲気のいまの世の中で生活していると、ときどきまったく違う世界に触れてみたくなることがある。そこで、上野の芸大美術館で開催されていた興福寺仏頭展を見に行くことにした。

 まず人の多さにうんざりした。午後2時過ぎだったが、入場券を買うのに長蛇の列で30分ほどかかった。入場制限されていた会場の中も人が多く、なかなか展示物に近づけない。仏頭が展示されているメイン会場には、有名な木造十二神将像と板彫十二神将像が展示さてていた。
 まず中心的展示物である銅造仏頭は思ったよりと大きいと感じた。そして何よりもその表情がいいと思った。切れ長の目を開いてまっすぐこちらを見ている。大抵仏様は悟りきった表情で半分目をつむり、「私を見よ」という感じなのだが、この仏頭は、私をじっと見つめている。「白鳳の微笑」とポスターには書いてあったが、微笑なんかじゃない。心の中を見透かされているようなドキッとする厳しい表情である。これを造った人たちは一体どんな人たちだったのだろう?
 うしろに回ってみると頭の後はめちゃめちゃに壊れている。かって火災で壊れてしまい、頭だけが救出されて400年もの間、人知れず東金堂の床下に潜んでいたというからこの仏像はすさまじい歴史を身を以て表現しているのだ。
 そしてこの仏様の回りでこれを護っていた十二神将の木彫も迫力があった。なによりも一人一人の違いがダイナミックなポーズとすさまじい表情に見事に表現されていてすばらしい。
 仏の台座に彫り込まれていたという板彫十二神将もそれぞれなかなかおもしろ表情をしているユニークな作品だが、これは平安中期のものであるのに対して、木彫の方は鎌倉時代の作である。この時代の差がその表情やポーズにありありと表れているように思った。
 木彫は運慶・快慶につながる慶派のグループが造ったものらしい。鎌倉彫刻の特徴であるリアリズムがすばらしい。おそらく当時台頭したばかりのまだ新しい階級としての武士たちの力強い自信がそこに表現されているからだろう。
 私は仏教徒でもないし神や仏を信じる人間ではないが、こうした仏像などを造った人々の深い想いとすさまじい表現意欲を興させる宗教の力はすごいと思うのである。宗教も人間の深い思索が生みだしたものであり、その意味で人間の心がもつ奥の深さとその結晶である表現物のもつ迫真力は、現代のアート作品など到底およばないものがあると思った。
 見終わって外に出ると紅葉で彩られた上野公園はもう夕暮れ時になっていた。先ほどまで支援団体が支給する食事に長い列をつくっていた大勢のホームレス?の人たちもいまはどこかに行ってしまった。
 急ぎ足で暮れかかった赤い光の中を歩く人々は一体どこに向かっているのだろうか?

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