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2013年3月10日 - 2013年3月16日

2013年3月11日 (月)

1945.03.10 → 2011.03.11

 1945年3月10日は東京大空襲の日であり、2011年3月11日は東日本大震災の日である。そしてこの66年間はまさに私の人生と重なる年月でもある。1945年3月10日は、その後にはじまり8月の広島、長崎への原爆投下に至ったアメリカ軍による大規模な無差別爆撃の先駆けであった。

 当時まだ幼かった私は父が開業医を営んでいた東京杉並から母方の実家の親類である新潟の片田舎の寺に疎開していた。父は仕事上杉並を離れることができず、ときどき送られてくる手紙だけが唯一の父と家族の絆であった。やがてその2ヶ月後には杉並も空襲に遭い、父の診療所は焼夷弾で焼失した。父はその空襲の大火災の中を命からがら患者の一人の家に逃げ延びたのである。そのときの様子を書き送ってくれた父からの手紙はいまでも我が家の貴重な記録として保存してある。

 やがて8月15日。焼け野が原となったわれわれの街々は、すべてをゼロからスタートしなければならなかった。生きるために地を這うような人々の苦しい生活の中から、われわれの街を破壊し尽くしたアメリカという国の持つ威力とその社会の豊かさに圧倒され、やがてそれを一つの「夢」として、その実現に向けて営々と働く人々によって少しずつ人間らしい生活が取り戻されていった。
 そして「高度成長」という形の中で急速に築き上げられていった巨大な資本蓄積の中で、日本の社会は増大する矛盾を内部に呑み込みつつ、いわゆる「中間層」をメジャーとした資本主義社会を形成していったのである。私はその歴史の中のひとつの砂粒のように、それを構成する一員として人生の大半を送った。
 そして過剰資本と過剰消費のもたらすバブルという形で爛熟したその社会は、金融資本が自ら生みだした落とし穴に落ち込み、それをきっかけとして20世紀末頃から急速に萎み始めたのである。その中で私も勤務先をリタイアし人生の表舞台を降りた。
 その萎みをきっかけとした政権交代のさなか2011.03.11に東日本大震災が発生した。大地震とそれによる巨大津波は想像を絶する自然の脅威であり、それによって多くの人命が不条理に奪われていった。しかしそれは大自然の成せる仕業であり、ある意味でわれわれの力ではどうすることもできない面があった。これは1945.03.10が戦争における大量殺戮という人の意図にもとづく完全な人災であったのとはまったく事情が異なる。
 しかし、震災によって引き起こされた原発事故は、まぎれもない「人災」である。無差別大量殺戮のために開発された核兵器の技術を、過剰資本による大量エネルギー消費時代に要求される発電技術に転用したのが原発であるといえるだろう。その意味で原発は「ハイリスクを覆い隠したハイリターン」技術とでもいうべきもであって、われわれの目指す生活とは本質的に相容れないものである。福島原発の事故はそのような意味で大自然の猛威が大きな犠牲のもとでその「虚偽の装い」をはぎ取った事件ともいえる。
 1945.03.10から2011.03.11の66年間は、まさに戦争という大量殺戮に始まり、それによる廃墟から出発した人間らしい生活への復帰のたゆまぬ努力が、資本主義経済のもとで、過剰消費社会の「あだ花」を咲かせたのち、ふたたび潰えていく過程でもあった様に思える。
 だから私は、あの東日本復興支援ソングの歌詞にでてくる「やがて生まれてくる君に、私は何を残せただろう」という一句に心を打たれてしまう。私の人生は、やがて生まれてくる次世代のひとたちに何を残したといえるのだろうか?
 もういちどやり直すなら、もう決して人々の努力を「あだ花」にしない社会を築き上げるべきだろう。しかし安倍政権はまたしても「あだ花」を咲かせようとしている。「景気浮揚」などという言葉にだまされてはいけない。株価が上がって投資家たちやグローバル資本家たちがぼろもうけをしても、われわれの生活は決して良くならないだろう。

 私には人生やり直しの時間は与えられていない。だからせめてやりなおすべき方向を模索し、その試行錯誤の過程をこのブログに書き込むことしかできないのである。

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