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2013年5月5日 - 2013年5月11日

2013年5月11日 (土)

次にやってくる危機(その2:生活防衛から国家防衛へ)

 その1で述べたように、一方で国内の「ものづくり」産業が衰退して行き、価値の源泉である「ものづくり」労働が国内から失われて行くとともに、他方では、グローバル資本が労働力の安い国々で莫大な利益を上げることができるようになる結果として、国内ではそれらの資本を第3次産業や奢侈品産業などの不生産的資本の活性化に注ぐことになり、放逐された「ものづくり」労働者の一部は、それらの産業に「不生産的」労働者として吸収されることになるだろう。

 しかし、それだけではない。累積される資本は、それ自体遊休資本として退蔵されるわけには行かないので、これを金融機関を通じて運用し(つまり右から左へと大量のお金を貸して利子や配当を生み引き出す)、そこでまたさらなる利益を生みだそうとするのである。資本が価値を生む(つまりカネさえあればさらにカネを増やすことができる)というのが典型的な資本家的妄想だからであり、これこそ最も効率の良い資本の増殖方法なのだから。こうして蓄積された過剰流動資本は再びグローバル資本の動力源となっていく。

 それでもまだそれらの莫大な資本が過剰になるとき、はじめてそれを労働者の名目賃金増加分に回し、それによって労働者の生活資料購買力を上げ、生活資料商品を作っている企業がその恩恵にあずかることになる。労働者階級は、これからもらうであろう賃金を担保に(つまり雇用されている資本家に前借りした可変資本部分を他の資本家に先取り的に手渡して)土地所有者やハウスメーカーに借りをつくりながら、何とか20年ローンで家を買ったり、自動車販売会社に借りをつくって、2年分割払いでクルマを買ったりすることができるようになるというわけだ。そしてそのような高価な生活資料が買えない労働者も、レジャーや観光などの第3次産業の資本におカネを払って(ここでも同様に労働賃金の一部をそれらの資本家に渡して)「生活を楽しむ」ことができるというのだ。
 かつての「高度成長期」には、国内の労働賃金が欧米に比べて安かったので、生産企業の資本家たちの獲得する利益は右肩上がりに増大したのであった。だから、労働者階級はその「おこぼれ」(実はこの「おこぼれ」は生活資料生産企業に資本を獲得させるための手段にすぎないのだが)を頂戴することができたのであって、いわゆる「中間層」という意識が生まれたのである(意識だけのことであって実質的には労働者階級のままであったのだが)。その時期に働いて資本の高度成長を支えてきた労働者階級は生活防衛費として幾ばくかの貯金を持つことも出来、企業も彼らのための年金を積み立てることができたのである。
 そして、いま日本では逆にそれらの人々が貯めてきた生活防衛費をも何とか預金口座から引っ張り出させ、資本家たちが自分たちの手元に取り戻そうと必死になっているのである。株が上がったからと言って、資本家たちのまねをして、わずかな貯金に手を付けて投資信託などに回すのはやめよう。そうすることは結局世の中のおカネを資本家の手元に集めるのを早めるだけなのだから。
 こうして「アベノミクス」において次にやってくることは、一方で、日銀から大量のおカネを供給させるとともに、高度成長期に資本家の莫大な利益を支えてきた労働者階級である定年退職者たちの個人貯蓄をも引っ張り出させることで、市場に大量のカネを流し込ませながら、他方で、憲法を「改正」して国防軍を創設し、大量の資本を市場から吸い上げることによって軍需産業を国の産業の一つの軸にしようという目論見であろう。
 衰退しつつある「ものづくり」産業の労働者は、第3次産業へ不生産的労働者として吸収されるとともに、こうして活性化される軍需産業にも吸収されるかも知れない。しかし、生活防衛費を失った労働者階級がそれによって生活が良くなるとは思えないし、一方で「国民国家」が宣揚され、ネオナショナリズムが煽られ、「日本のために歯を食いしばってもがんばろう」という形で生活の貧しさとその真の原因が覆い隠されていくであろうことが目に見えているではないか。

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2013年5月 8日 (水)

朝日朝刊「オピニオン」欄の内田樹氏の意見にひとまず拍手

 今朝(5月8日)の朝日新聞「オピニオン」欄に「崩れゆく日本という国」と題した寄稿が内田樹氏から寄せられていた。内田氏によれば、「国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のこと」であり、一方で自国の国民を暴力や収奪、饑餓などから守るために政府が存在するが、他方では他の国のことは特段関心を持たないものであると言っている。この内田国家論には少々疑問があるがひとまずそれを置いておくとして、内田氏が言いたいのは、いま国家が国民以外のものの利害を国民よりも優先するようになってきたということである。その「国民以外のもの」とは「グローバル企業」である。かつて起業したのは日本であってもその株主も経営者も従業員も今ではすべて多国籍であって、生産拠点も国内に限定されない。このような「無国籍企業」でなければ国際競争で勝ち残れないことがマスコミなどによって「常識化」される。「株式会社の経営努力とは、もっとも能力が高く賃金の安い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税の安い国を探し出して、そこで操業することだと(グローバル)投資家たちは考えている。」と内田氏は指摘し、「株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。」とする。その上で、「だが企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう」と言う。原発が止まって電力が高くなって生産コストがあがったので国際競争に勝てなくなると政府を脅し、自然破壊や汚染による環境保護コストや鉄道や道路の建設などの流通コストを国民からの税金で賄い、大学卒業者に英語力やビジネス即戦力を要求するなどで従業員の教育コストも国民に負担させている。一方でこうしたグローバル企業への奉仕に見られる「国民国家」の崩壊が国民の心を離反させないために他方では排外的ナショナリズムが不可欠になっていると内田氏は指摘する。日本人として結束して国際競争に勝つためには多少の犠牲は厭わないという意識を醸成するためだ。そしてこれらの流れの中でグローバル企業に蓄積される富はほとんどがアメリカなどの超富裕層のもとに集中し、われわれの元には戻らない。

 私はこの内田氏の主張に基本的に賛成であり、これは紛れもない事実であると思う。しかし、私の意見も言わせてもらおう。それは、そもそも「国民国家」なるものが、近代資本主義社会の産物であって、本質的に資本と賃労働の階級的矛盾を「国民」とか「国家」という形で覆い隠す機能をもった共同体であるということである。だからこの「国民国家の崩壊」は今に始まったことではない。資本主義国家が誕生して以来あらゆるところであらゆる形で矛盾が爆発して「崩壊」があり、それがまた別の形で再生してきたのである。日本の歴史でいえば中日戦争や太平洋戦争がその典型例であろう。だからいまグローバル資本に牛耳られる国民国家があちこちで崩壊しても、そのままではグローバル資本は死なず、再び何らかの形で再生するだろう。
 いまグローバル化した資本によりそれぞれの「国家」という幻想共同体の内部に押し込められ、搾取をほしいままにさせられているそれらの国々の労働者たちが、真の意味で国境を越えたインターナショナルな結びつきを持ち、グローバル資本と戦う陣営を生みださないかぎり決してそれは崩壊しないだろうということだ。

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2013年5月 6日 (月)

次にやってくる危機(その1:ものづくり労働の衰退)

 資本主義国家からの「ものづくり」流出はいまの日本にはじまった訳ではない。19世紀末には、19世紀中葉に産業革命で世界の「ものづくり」の中心地であったイギリスからドイツやアメリカなどの後発資本主義国へと「ものづくり」が流出し、イギリスは「金貸し国家」となっていったことは周知の通りである( 私が1990年に短期間ロンドンに滞在していたとき、下宿のおばさんが、「いまでは鉛筆もイギリスでは作れないのよ」と言っていたのを聞いて驚いたことがあった)。

 20世紀前半、二つの世界大戦を通じて何千万という戦争による犠牲者を生みだしながら、アメリカが「ものづくり」の中心地となっていったが、それも1970年代以降は、戦後アメリカ的資本主義体制を取り入れた日本やドイツなどに追い上げられ、アメリカからも「ものづくり」は流出していった。

 そしていま21世紀初頭には、20世紀末からの鄧小平路線による資本主義経済化が進んだ中国に、安い労働力を手に入れるべくどっと流入したアメリカ、ヨーロッパ、日本などの資本をテコにして中国が「ものづくり」の世界的な中心地となって行き、日本の「ものづくり」もかつてのアメリカやイギリスと同様なことが起きつつあるのだ。

 それぞれの時代のそれぞれの国際的背景のもとに展開された資本主義国からの「ものづくり」の流出のかたちは決して同じではないが、そこにひとつの共通性が見いだされる。それは、資本がつねにグローバルな動きをもつのに対して、資本主義化する国家の内部で増大する労働者階級は、「国家」というタガを嵌められ、その国の通貨で労働賃金が支払われていることである。資本の価値は基軸通貨への換算率を操作しながら国際的な基準で計られ、それぞれの資本主義国家の「国民」である労働者階級の労働賃金は、その国の内部での平均的「生活水準」で計られる。
 例えば、1964年頃、私が大学を卒業してデザイン労働者として企業に就職した当時の賃金は月額1万8千円であったが、その当時は1ドルが360円であった。したがってドルに換算すれば月額50ドルの賃金であったといえる。しかし当時のアメリカの平均賃金は週給でも50ドルを遙かに超えていたと思われる。つまりアメリカの1/4以下の労働賃金で働いていたわけである。単純に計算しても、私が雇用されていた電機メーカーの製品がアメリカに輸出されれば、同様の製品が同様の生産システム、同様の労働形態でアメリカで作られる場合に比べて1/4以下(もちろんここにシッピング・コストなどが加算されるが)で販売できたことになる。
 資本論を読んだ人には常識であるが、資本を構成する価値は生産的労働者の労働によって生みだされたものであり、資本家的企業で生みだされる製品は、その製造に用いられた原材料や生産機械など(これらを作った労働者の過去の労働によって生みだされた価値)から製品に転移された価値部分である「不変資本部分 c 」と、労働力の価値すなわち労働力の再生産に必要な生活資料の価値(具体的に言えば、労働者の衣食住に掛かる生活費)として資本家から前貸しされた労働賃金つまり「可変資本部分 v 」そして、労働者がその雇用労働において自分の再生産に必要な価値部分を超えて生みだした「剰余価値部分 m 」(これは無償で資本家のものになる)で構成された価値を持つ。
 労働者は貨幣や証券といった「紙切れ」を食って生きるわけではないので、物的な生産物としての生活資料が必要であるが、それはみな労働の生産物(この中で「住」のために必要な土地だけは労働者が生みだした生産物ではなく、土地所有者の先祖たちが何らかの方法で過去において自然から簒奪したものである)であり、労働者たちは資本家から前借りした賃金によってそれらを「買い戻して」生活を営むのである(だから労働者の賃金は決して本来の意味での所得ではない)。
 しかもすべてが商品として市場を流通する資本主義社会においては、労働力さえもみずから価値を生みだす商品(労働力商品)として、労働市場(就職戦線)の中で取引される。もちろん労働者は資本家と違って生産手段を持っていないので、みずからの労働力を売りに出さなければ生きてゆけないのである。
 労働者階級は、まず資本家から前貸しされた賃金で、当然のことながらできるだけ安く生活資料を購入しようとする。しかし生活資料商品を作っている労働者の賃金もその国での平均的水準であれば、生活資料の市場価格は一定額より低くはできない。 一方で自らの資本で生産手段と労働力を購入し、それらを使ってものをつくって海外市場に輸出する資本家たちは、国際市場での競争に打ち勝つため何とか商品の市場価格を低く抑えようと必死になる。
 そこで資本家階級は基本的に二つのことを実行に移す。一つは、自分の商品の価格を規定する価値のうちで「可変的な部分」をできるだけ減らすため、労働賃金に反映される生活資料を労働力の安い国から輸入してその国内価格を低く抑えようとする。そしてもう一つは、生活資料の生産を「合理化」して同じ剰余価値部分を得るのに必要な可変資本部分の比率を低くしようとする。この「合理化」とは労働者数の削減と生産工程の効率化であり、要するに資本構成の高度化を行おうとするのである。
 その結果、まず、食料品や衣料品などの生活資料商品が労働力の安い国から大量に輸入されるようになり、それらを国内で作っていた企業あるいは農業者が市場での競争に勝てず、淘汰され、雇用されていた労働者や小規模自営農民が放逐される。なんとか「合理化」で生き残った企業では雇用労働者数は激減し、ここでも労働者は行き場を失う。
 こうして輸出商品を生産する資本家たちが可変資本部分の比率を低く出来たとしても、さらなる競争の激化に勝ち抜くために、次には自分の企業の生産現場を労働力の安い国に移すことを始める。その結果、輸出向け商品の生産のために国内で雇用されていた「ものづくり労働者」は後発資本主義国の安い労働力商品との競争に負け、放逐される。
 こうして日本国内での「ものづくり産業(農業を含む)」から放逐された労働者たちは、いま苦難の道を歩み始めている。このままではものづくり労働はイギリスのように日本からも消滅しかねない。

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