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2013年6月23日 - 2013年6月29日

2013年6月29日 (土)

第60回日本デザイン学会研究発表大会に参加して(4)

(前回からの続き)

 これまで述べたように、いまの社会ではモノの使用価値は「売るため」の手段となってしまっており、それが原因で「必要」が無理矢理つくりだされ、なくても済んだモノが世の中にあふれ出し、そのために膨大なエネルギーが消費され、資源が枯渇し、自然環境が汚染されている。グローバル資本が世界中のモノづくりを支配し、ほとんどすべての国でローカルでユニークな文化が破壊され、あるいはそれらが「観光商品化」され、世界中がグローバル資本文化とでもいうような均一化された生活スタイルになりつつある。
 それを支える経済的土台では、一方でグローバル資本家たちの無益な市場競争が加速され、無駄な消費を拡大するために資本がどんどん投資され、それによって富んだ者たちがますます金持ちになり、他方では社会に必須な分野で働くひとたちのための制度がどんどん後回しにされ、格差が増大し、競争に負けた企業から放り出された失業者があふれ、働く人たちは過酷で不安定な労働に追い込まれ、安心して子供を育てることもできなくなるなど、社会の持続性がどんどん失われつつある。
 本来、モノはある目的の手段としてそれを使うために作られるのであって、作られたモノには、作る人の目的意識が具体化されて表現されているはずであるし、またそうでなければならないと思う。モノは道具であると同時にコミュニケーション・メディアでもある。モノは必要なとき、必要なだけ作られ必要な人々によって消費されればよいのであって、そのような「コンパクトな生産・消費社会」こそ、それを支える社会の構成員同士がゆたかなコミュニケーションと持続性を生みだしていけるのだ。そのスタンスがなければ社会はいずれ崩壊してしまうだろう。私の今回のデザイン学会での発表も昨年の発表もそのことを主張するためだった。
 それでは、本来のものづくりに戻すためにはどうすればよいのか?それはそう簡単ではない。なぜなら、それは社会全体の生産から消費までの仕組みを変えなければならないからである。それは直ちに実現しうるようなものではないが、しかし、「そうならざるを得ない未来像」として、そしてそれをどう実現させて行くのかが、われわれに課せられた課題でもある。「デザイン学」がもし成立しうるのであれば、それはこうした歴史的課題を課せられていると考えるべきでなのではないだろうか?
 (以上)

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2013年6月26日 (水)

第60回日本デザイン学会研究発表大会に参加して (3)

(前回からの続き)

 「デザインとは何か?」を考えるのであれば、まずデザイナーという職能を生みだした社会の現実と、その歴史的特殊性を見据えることから出発するべきだ、と主張すると、「デザイン学の対象は職能としてのデザインだけではなく、より「広い意味」でのデザイン行為が対象にされているのだ」という反論が返ってくる。それではその「広い意味でのデザイン行為」とはいったい何であろうか?

 「広い意味でのデザイン行為」は、さまざまな形態で存在する職能的デザイナーの行っている仕事に共通する要素を抽出してそこにある共通の性質を指しているのであろう。その典型例が吉川「一般設計学」である。

 しかし、この抽象は、単にいまある個々のデザイン業務や設計業務から抽出された共通の要素を整理することで得られた「一般化」であり、「説明性」や「論理的整合性」という外観のもとで、前述したようなデザインの置かれている矛盾を完全に見えなくしている。「学」の出発点は単なる「共通点」ではなくて「共通に抱える矛盾や問題」から出発するべきではないだろうか?そのことは、次のような形で現れている。

 例えば、いまのデザイン理論では、デザイン過程の論理構造が述べられていても、そこに「デザインする人」が見えない。そしてデザイン過程の出発点が「与えられたデザイン目的」となっており、目的はつねに外部から与えられるものとして扱われている。デザイン主体が問題を発見し、それを解決すべく自身の内部に目的意識を生成するという視点はない。これは現実にデザイナーが企業側から「目的」を与えられるところからデザイン業務が始まるという形をそのまま反映しているといえるだろう。デザイン目的はつねに雇用された企業側から与えられるものであり、自分自身の内部に生成された目的ではない。それはデザイナーという頭脳労働者の宿命である。なぜなら彼の職能は、企業経営者の頭脳の働きの一部を代行することが業務なのだから。

 したがって、いかにその目的がデザイナー自身の意図と異なっていても、彼は、それを達成しなければならず、そのことに意欲を持たねばならないのである。そして彼がその頭脳労働から生みだしたデザイン提案は、彼自身の評価ではなく、企業側からの評価で選別される。さらに、そのデザイン提案が採用されても、それを実際の生産物にするのは、そのデザイン目的を何もしらない、生産部門の労働者である。生産部門の労働者は、デザイナーのような頭脳労働者よりはるかに疎外された立場にあって、彼らが用いる生産用具や機械は、すべて彼のものではなく、雇用者からあてがわれたものである。そして、自分の作っている生産物がどのような目的で作られているのか、それどころか、多くの場合、それが生産物全体のどのような部分や機能を担っているのかさえ知らないで、ただひたすらデザイン部門から与えられた図面やスペックに従って作っているのである。

 こうして「デザイン思考」は、デザイン主体自身の問題発見からその解決までのプロセスとしてではなく、したがって彼自身の目的意識の表現としてではなく、与えられた目的を達成されたと企業側が判断するまでの思考過程の構造だけが描かれることになる。何を生みだすべきなのか、ではなくいかに効率よく企業側の求める結果を出すか、がこうした理論の背景にあるモチベーションである。

 だから、もう何十年も前から、「デザイナーはよりよい生活環境や生活文化を生みだすことが使命である」と言われながら、ごく一握りの「富裕層」を除いては、われわれの生活環境はちっとも良くならないばかりか、必要もなかったモノを「便利になる」という売り込みによってどんどん買わされ、それがわずかの期間で使い物にならないゴミとなり、つぎつぎに捨てられていくという、ますます歪んだ生活文化を生みだしているのだ。

 すくなくともこうした職能としてのデザインが本質的に抱えている矛盾をあきらかにし、さらにわれわれの社会における「ものづくり」全体のあり方の矛盾にまで拡大して問題を認識しないかぎり、「広い意味でのデザイン」は何の社会的意味も持たない、そして発展性のない「理論」を生むしかないのではないだろうか。

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2013年6月25日 (火)

第60回日本デザイン学会研究発表大会に参加して(2)

(前回の続き)

 そこで、「デザイン学」について、もう少し考えてみようと思う。

例えば、医の世界では、病気を治すという目的で行われる医療がまずあって、それをより的確なかたちで行うに必要な知見を得るために、医療方法に関する経験知の集積としての医学が登場し、さらにそれを普遍化し体系化するために人体の科学とでもいうべき基礎医学や生理学などが成立してきたといえるだろう。また、生産という領域では、日々の生活を維持するために必要な生活手段や生産手段を作り出す行為(生産的労働)が複雑化し、直感や経験知だけでは済まない「設計行為」があらかじめ必要となり、そのための知識を獲得し体系化するために、自然科学的知見を用いる「工学」という領域が生まれたといえるだろう。
 しかし、デザインの場合はどうであろうか?デザインはもともと工学的設計の中に内在していた人工物の使われ方に関する知識や美意識の表現が独立した分業として登場したことが始まりであるといえる。
 ではなぜそれが分離独立したのか?これは、近代の資本主義社会において生産的労働の内容と目的(モノの作られ方)が、その歴史・社会的コンテクストの中で大きく変貌してきた過程を抜きには考えられない。
 元来、モノは広い意味で、人間が直面する問題を解決する手段として作られ、使われてきたといえるだろう。しかし、近代以降の資本主義社会では、作るために必要な生産手段が「作る人」から奪われ、作られるモノを商品として売る人がそれを所有するようになった。そして「作る人」は売る人の工場に労働者として雇用されるようになった。そのため作る目的と使うことの直接的関係が失われ、すべてのモノが生産手段を持つ人々(産業資本家)によって商品として生みだされるようになった。
 言い換えれば、モノは「売るために作られる」ようになったのであって、「使う目的(使用価値)」はそのための手段という位置になってしまった。それと同時に、「作る人」は「使う人」から分離され、「売る人」のもとでしかモノを作ることができなくなった。さらに、「売る人」にとっては、作られる商品が商品市場での競争に勝つために、コストを削減し、効率よく作ることが要求され、作る行為(生産的労働)はそのために細かく分割されていった。
 その結果、ものづくりは設計など頭脳労働を担当する設計技術者と製造する肉体労働者に大きく分割され、その中がまたさらに細かく分割されるようになったのである。その過程で、商品の物理的機能を設計する人たちと、それが商品として魅力的であるように形態や色彩を考えるデザイナーとに分離されてきたといえる。
 いったん、デザイナーという職能が成立すると、今度は、そのデザイナーを育成するための教育機関が登場し、そこではさまざまな分野で行われているデザイン行為を一般化する概念が求められるようになり、理論化が求められるようになってきたと考えられる。
 デザイン教育ではまずデザイン行為に必要な知識が関連諸分野(形態、色彩の理論や設計図の描き方など)から集められ、次に実際にデザインの場で遭遇する問題を解決するための方法を「デザイン方法論」として理論化するようになる。ここまでは、いわゆる実利的要求にもとづく理論化である。
 ところがデザイン教育をアカデミズムとして成立させるためには、これを「学」として体系化しなければ「学界」から認知されない。そこで「デザイン学」が求められることになったといえるだろう。
 だが、そもそもデザイナーという職能が登場してきたのは、商品として魅力ある(つまり買いたくなるような)モノをつくるためであったため、つくる目的とその使う目的との間に「購買」という行為が介在しなければならなくなった。そのために本来の人工物における目的と手段の関係が著しく歪められたと言わざるを得ない。
 例えば、モノを生みだす目的が、「作る人」と「使う人」との直接的関係から生まれる「必要だからつくる」ではなく、「売る人」の立場から。「買う人」とみなされた人々に「あると便利そう」とか「おもしろそう」とかいう意識を醸成させ、購買欲をそそる(つまり必要がないところに新たに必要を生みだす)ことが直接的目的となっているのである。
 そのため、購買されたあとの「モノ」たちは、どう扱われようとも、どう捨てられようとも「売った人」には関係がない。そして「売る人」はデザイナーを使って次から次へと新しい「魅力ある商品」を作り、売りまくる。
 その結果が、いまのように、モノがあふれ、どんどん捨てられ、情報があふれ、どんどん捨てられていく「大量消費社会」をもたらしたのである。
 「デザインとは何か?」を考えるのであれば、まずこうした「デザイナー」という職能を生みだした社会の現実と、その歴史的特殊性を見据えることから出発すべきだというのが、私の主張である。

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2013年6月24日 (月)

第60回日本デザイン学会研究発表大会に参加して(1)

 6月21〜23日に筑波大学で開催された、日本デザイン学会春季研究発表大会に参加してきた。今回も「やじうま」としてではなく発表者としての参加である。

 今回の大会テーマは「デザイン学とデザイン」である。私の研究発表は「デザイン思考とは何か?」というタイトルで、いまさまざまなところで取り上げられている「デザイン思考」についての、いまの段階での私の考えをコンパクトにまとめたものである。ダウンロード JSSD2013rev.pdf (430.5K) 前回の札幌での発表は、「デザインによる「付加価値」とは何か?」というタイトルで、マルクス経済学の価値論の視点から見た、「付加価値」の分析に基づいた、今日のデザインに対する批判であった。
 しかし、今回の発表は、あまりマルクスの視点を前面に出さず、1920-30年代に旧ソヴィエトで活躍した心理学者ヴィゴツキーの「思考単位」という考え方に基づき、デザイン思考単位とその多層的な展開としてデザイン思考の構造をモデル化した試みであった。昨年の発表と今年の発表がどこでどう関係するのか?という疑問を持った人もいたと思われるが、これについては、別の機会に述べることにして、今回は学会での研究発表全体とその方向性について若干の感想を書いておくことにしよう。
 まず、この大会のテーマに見るように、「デザイン」という言葉で表される対象をサイエンスとして体系化できるかどうかが問題になっていた。この大会での方向性をリードしているK大のM教授は、「デザイン、デザイン学、そしてデザイン科学」というオーガナイズドセッションの中で、"Science of design"と"Design Science"の違いについて述べ、前者はデザインを対象として科学する立場であるが、後者はデザイン行為そのものを科学にするという立場である。われわれは後者の"Design Science"を目指すべきで、その典型例が吉川氏の「一般設計学」であると述べていた。
 だが、私はそこで質問に立ち、科学は、法則を見つけるという意味で認識のベクトルであり、「デザインする」ということは、認識と正反対の実践のベクトルである。デザインを科学の対象とすること(Science of design)は可能であろうが、デザインするということ自体はサイエンスではないし、それを理論化しても科学的な意味での検証や実証は出来ないのではないか?と私の考えを述べた。それに対してM教授は、文科省(学術会議)でもサイエンスの中に「設計科学」という領域をつくろうとしており、この流れに対応してこのデザイン科学の基礎固めを進めるべきだ、と応えた。はっきり言って、完全にすれ違ってしまっていたが、時間切れでこの議論は次の機会に持ち越されることになった。
 一方、このM教授と異なる立場から、デザイン実践の立場にもとづいた研究をされているT大のS教授のグループは、「実践するデザイナーたちのデザイン知とは何か?」という特別フォーラムを設けて発表をしていた。いろいろな企業でデザイン業務を行っている若いデザイナーたちが、そのデザイン業務での仕事の内容を省察する場を設け、さらにそれを観察するグループがその発言内容からキーとなるデザイン知を見つけ出す、というなかなかユニークな研究であった。私は、はっきり言って、M教授の考え方よりもS教授の研究の方がおもしろいと感じた。
 それは、デザイン行為は、もともと「学」や「科学」の体系がなくとも、何ら支障なく実行できるという事実と、実際にデザイン行為を行っている人々にとっては、彼らの経験から抽出される方法的知識の方が重要であり意味があると感じているだろうと思われるからである。
 しかし、ここで、考えねばならないことは、デザイナーたちは、個々のデザイン業務の場で与えられた課題をいかにして達成するかという職能的視点から、実践的知識を求めているのだが、一歩引き下がって、それらのデザイン業務課題が、誰からどのような目的で与えられているのか?そして社会全体として見た場合、それらのデザイン業務の総体が結果として社会に何をもたらしているのかを考える必要があると思うのだ。われわれの日常生活の中にデザインされた「モノ」が満ちあふれ、もはやゲップが出そうな状態がもたらされ、モノのデザインからコトのデザインへ、と言われる中で、今度は、生みだされる情報が洪水の様に溢れ、われわれの生活に必要な情報が何であるのか分からなくなってしまった。モノに押しつぶされそうになり、情報の海に溺れそうになりながら、われわれの周囲では自然環境が急速に悪化し、企業はいつ果てるとも知れない馬鹿げた市場競争に勝つため、相変わらずモノやコトをこれでもかこれでもかと生みだして行っており、政府はそれを「経済成長のため」と称して強力に尻押している。デザイナーたちはその企業のために奔走し、奮闘しながら、知らず知らずのうちに自分たちの住む社会や自然を蝕んでいってしまっている。
 こうした状況こそが、実はデザイン「学」にとって喫緊の課題なのであって、「産・官・学連携」を叫ぶ前に、「学」はむしろ社会全体の現状や未来への視点からこの「産・官連合体制」に疑問を投げかけることこそが必要であり、それこそ「学」の健全な姿なのではなかろうか?
 

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