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2013年7月14日 - 2013年7月20日

2013年7月19日 (金)

社会を崩壊させる「愛国心」

 安倍首相は、日本の教育における愛国心の育成に力を入れるそうであるが、そもそも愛国心とは何であろうか?新宿界隈で毎日のように韓国人の人たちに向けて口汚いヘイトスピーチやヘイトクライを繰り返している人たちや、中国や韓国での反日運動で、日本人経営の店舗を破壊したり、ただ日本人であるという理由だけで暴行を加えられたりしているのを見るにつけ、日本を含め各国での「愛国心」の高まりが、どのような方向に向かいどのような結果を生むかを考えてゾッとさせられるのは私だけであろうか?

 「愛国心」や「アイデンティティー」は、一方でさまざまな民族に共通の要素があるからこそ、その違いがアイデンティファイされるのであって、愛国心を口にする前にその共通性を確認するべきであろう。幻想共同体でしかない「国家」を諸個人が背負わされ、「国家」がもたらす戦争や侵略で個々の人間として何の恨みもない他民族の人たちを「敵国人」という理由だけで殺戮し傷つけ、同時にまた殺され傷つけられてきた歴史を顧みて、それが馬鹿げた「愛国心」のもたらした結果であることはもう何十年も前に肝に銘じたのではなかったか?
 「愛国者」の反語が「売国奴」であるなら、その両方に共通する無意味な「愛国心」がもたらしてきた歴史的事実をもう一度しっかりと確認し、「自虐史観」などとご都合主義的な解釈を振り回すのではなく、事実をしっかり踏まえたうえで、韓国や中国の人たちと交流することがわれわれに必要なことではないのか?
 そしてそのことはまた同時に韓国や中国の人たちの「愛国心」にもいえることである。小さな島の領有権を巡って、互いに「愛国心」を競い合っていくことに何の意味があるのか、よく考えてもらいたい。
 いま、日本のひとびとが経験している、生活の不安定化、雇用の喪失、労働の過酷化、そして社会保障の後退といった深刻な社会不安は、韓国や中国でも起こりつつある。われわれはそうした共通の問題の原因をいっしょに探り当て、馬鹿馬鹿しい「愛国心」などを捨て去り、互いに手を携え合って共存していく道を探さねばならないのではないか?
 安倍さん、そうじゃないんですか??

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2013年7月16日 (火)

参院選にあたってこのことだけは忘れまい!

 前回の「参院選をこう捉える」にmizzさんからいただいたコメントにもある通り、各党の主張に「とりもどす」というキャッチフレーズが目立つ。自民党の「日本をとりもどす」は、誰が何をとりもどすのかが述べられておらず、自民党の長期政権がこれまでわれわれから奪ってきたものについては何ら触れられていない。

 1960-70年代には「高度成長政策」で大量消費社会を生みだし、それとともに「所得倍増計画」によって名目賃金の高騰を行いながら、家電製品やクルマなどの購買を促進させ、「便利で豊かな生活」という幻想をばらまきながら、実は庶民の生活を「お金のかかる生活」へと変貌させ、「お金がすべて」という社会観を定着させてきた。
 見かけ上増えた賃金は、必然的に資本家たちの手に還元され、1980-90年代にはそれによって蓄積された莫大な資本家的富を価値的根拠をもたないバブル経済へと必然的になだれ込ませ、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という砂上の楼閣を築いたのちに、これも必然的にその崩壊を招き、1995年以降の長いデフレ時代を現出させたのではないか。
 そしてそれを打破すべく小泉政権が打ち出した「規制緩和」によって資本家たちは労働者の雇用形態をかれらに有利な形に変貌させ、若い人々の生活を悲惨な状態に追い込んだ。
 その間、半世紀にわたって、一方では自然環境の破壊や資源の枯渇を進行させ、他方では、大量消費社会に必須な効率的で確実なエネルギー源という名目で原発を次々と建設してきた。その結果がいまの現実なのではないのか。
 自民党政権が自ら生みだし、労働者たちの犠牲のもとに積み上げてきた、こうした無際限な経済成長という幻想を前提とした「虚偽の豊かさ」がむしろ当然に失われたからこそ今日の状態があるのではないか。それを「とりもどそう」としているのが安倍自公政権である。
 とりもどすべきものは、その間、人生のすべてをかけて懸命に働き続け、労働の成果ばかりか生活そのものまでをも資本家たちに捧げてきた、絶対多数の労働者たちによって生みだされてきた社会的富であり、とりもどされるべき人々はそれらを生みだしてきた人々ではないのか?
 われわれが目指すべきなのは、これまで辿ってきた「偽りの豊かさ」への幻想ではなく、その反省としての、これまでとは全く異なる次元の、そして当然そうあるべき社会なのではないか?
 それは、自然破壊や資源枯渇を必然的にもたらしてきた「高度成長期の豊かで活力ある日本」とか、労働者たちの生活がカネのかかる生活へと変貌させられた結果登場した「分厚い中間層」をとりもどすことではなく、まして「自虐史観」などと称して戦争で行われた歴史的事実までをもねじ曲げ、無意味なナショナリズムをとりもどそうとすることでもなく、あの悲惨な戦争の結果を招いた戦前の「古きよきニッポン」をとりもどすことでもないはずだ。
 社会を支えるためにそれぞれの場所で労働する個々の人々が、その社会貢献に相応しい生活を保障され、それを持続できるような社会こそがとりもどされるべきなのではないのか。
 

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