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2013年7月28日 - 2013年8月3日

2013年8月 1日 (木)

「国民経済」の内実

 前回のブログ「再びうつ病・自殺者による社会的損失を巡って」に対してmizzさんからコメントを頂いた。これに関連して、「国民総生産」という指標の基底にある「国民経済」という概念のインチキ性について触れておこうと思う。朝日新聞がどうしてこういう政府発表の「国民経済」データを鵜呑みにするのかといえば、それは朝日新聞がその代表として自他共に許す「リベラル派」の考え方の基本的欠陥と無関係ではない。

 それは「国民」という概念の問題である。「国民経済」とか「国民総生産」とかいうときの「国民」では、そこに賃労働者とその雇用主である資本家との階級関係がまったく見えないようになっている。いわゆる「リベラル派」はこれに何ら疑問を差し挟まないのだ。
 前回の私のブログでも書いたし、それに対するmizzさんからのコメントにもあった通り、労働者が受け取る賃金は「所得」ではない。これは雇用主である資本家が要求する労働力を、労働者がその日々の生活の中で再生産できるように資本家が前貸した「可変資本部分」なのである。資本家にとっては「価値を生みだす商品」として必要な労働者の労働力は、生身の人間であり、モノではないのだから。
 労働賃金は労働者が日々生活するに必要な生活資料を購入するために使われ、それは生活資料を生産し流通させている資本家たちの手に渡り、結局、資本家間の利益配分において再び資本側に分配され環流するのである。
 一方で、資本家側は、労働者がその「生きた」労働において生みだす価値のうち、労働者自身の生活維持に必要な価値量(つまり可変資本部分)を生みだした後、そのまま労働を続ける(剰余労働)ことによって生みだされる価値部分(剰余価値)のすべてを無償で獲得している。これが「所得」である。実際には資本家はその労働者の労働の成果を商品市場でうりさばくことによって莫大な販売利益を上げており、その分が所得に加えられる。
 ここに、労働者と資本家がともに対等な「商品所有者」として、互いにそれを等価交換し合って社会が成り立っているとする資本家的「平等社会」イデオロギーの虚偽性とその矛盾に実在する階級関係の秘密がある。
 資本家たちがいかに「社会貢献」していると主張しようとも、その「貢献」は、彼の所有する企業が競争に勝ち、利益を生みだすために必要な労働を労働者から無償で引き出すことを第一の目標としており、そのための手段でしかない。
 だから労働賃金と資本家の所得をごちゃ混ぜにして「国民経済」だの「国民総生産」だのというのは、資本家側のイデオロギーに過ぎない。
 「国民経済」が労働者の「所得」としている部分は、実は資本家たちが一方的に獲得している所得をあたかも労働者と資本家が分け合っている所得のように見せかけているに過ぎないものであるし、国民経済学が「社会資本」と称している、社会が成り立つために必要な共通経費は、資本家が経営収支に計上する「法人税」や「厚生費」を除いてそのほとんどは資本家が所有する資本の一部から「可変資本部分」として労働者に前貸しされる賃金の中に含まれているのであって、労働者たちは、その部分を税金という形で、国家なり自治体なりに、資本家階級を維持させるために必要な社会共通経費として支払わねばならない仕組みになっている。
 本来なら労働者の労働成果から莫大な所得を獲得している資本家たちが支払わねばならないこの「社会共通経費」を、本来の所得がない労働者が負担する形になっており、だからこそ、増大する社会福祉や公的資金を賄うために「消費税」が正当化されるのである。
 資本家にとって「生きた労働力」の存在は必須条件である。だから労働者が生きていけない社会は資本家にとっても存在できない社会である。かつての「高度成長時代」においては、国内の労働力が資本の発展のために必須であったため、「所得倍増計画」などという名目で労働者の賃金を増額させながら、その可変資本部分の「購買力」によって資本家階級自身も利益を増加させることができた。
 しかし、昨今は、資本家は国内の労働力ではなく海外の安い労働力に依存している。だから、国内での労働者の存在は必須条件ではなくなった。切り捨てご免である。しかもかくも横暴になった資本家に、人生のすべてを賭けて資本家のために無償で剰余労働の成果を捧げ尽くし、グローバル資本に成長させてきた労働者たちの子孫がいま切り捨てられているのである。
 リベラル派の人たちは、このような「国民経済」の真実を決して理解しようとしないため、「分厚い中間層の取り戻し」などという幻想にとりつかれているようだ。

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2013年7月29日 (月)

再びうつ病・自殺者による「社会的損失」をめぐって

 内田樹氏の主張に関してJWFさんから、「竜頭蛇尾」というコメントがあった。確かにそういえる。しかし、世の中全体が右傾化しつつある状況の中では、それに抗ってまっとうな状況分析をしようとしている内田氏はたとえ提案が乏しくても、一応われわれ側と考えたいと思う。

 さて、以前、うつ病・自殺者による「社会的損失」という考え方に疑問を投げかけたことがあったが、今朝の朝日新聞朝刊にまたこの問題が掲載されていたので、もう一度これについて考えてみようと思う。

 朝日の記事では、あるゲームソフト会社社員が「追い出し部屋」への異動命令でうつ状態になってしまい、会社を辞め、うつ病の治療を行いながら失業状態になっているという事例が載っていた。こうした「搦め手」を使った事実上の首切りが浸透しているいまの社会では、当然のことながら、それによってうつ状態になり、それがさらに自殺という悲劇的結末を招いている例が数多くある。

 朝日の記事では、これについてこう書いている。「グローバル競争が激しさを増し、企業は生き残りをかけて人減らしに走る。追い詰められた働き手らが自殺に追い込まれたり、うつ病になったりすることでの「社会的損失」は、年間で約2.7兆円になるとの試算もある。09年までの10年間、うつなどによる自殺者数は年平均3.1万人にのぼるが、「それがまったくいなかったと仮定すると、10年の国内総生産は、約1.7兆円増えていた」と国立社会保障・人口問題研究所の金子能宏氏はいう」。

 そして次のようなデータが載せられている。(1)自殺者が働き続けた場合に得られたはずの生涯所得:1兆9028億円、(2)うつ病で自殺した人と休業した人への労災補償給付:456億円、(3)うつ病で休業した人が働き続けた場合に得られたはずの所得:1094億円、(4)うつ病で失業した人への失業給付:187億円、(5)うつ病がきっかけで生活保護を受けている人の給付:3046億円、(6)うつ病にかかる医療費:2971億円。

 朝日の記事でもカギ括弧に入れて書かれている「社会的損失」とは、一体誰の損失なのか?

 上記(1)と(3)に関していえば、労働者の生涯所得とは、労働者が雇用者(つまり資本家経営者)から前貸しされる、資本家の「労働力再生産費」の総額であり、これは労働者の「所得」ではない。 それは労働者が生きるために必要な生活必需品の購買によって、それらを生産する資本家企業の利益となり、結局は資本家階級全体の維持発展のために用いられる「可変資本部分」である。もっと正確に言えば、それは資本家企業が、競争に勝つためと称して可変資本部分を減らすために労働者をうつ病や死に追い込むことによって節約された分である。

 そして(6)は、可変資本部分の削減のため資本家企業から追い出された労働者が、資本家から何の支援もなく厳しい家計から支出した医療費である。

 (2)、(4)、(5)についていえば、それは本来なら、個々の労働の場で社会的に必要な財を生みだしている労働者たちが、その剰余労働時間部分が生みだした価値部分を社会全体として必要な共通経費として拠出する基金から支出される部分であって、それを資本家が無償で私的に獲得しているがゆえに、政府や自治体が労働者の生活費の一部から税金として取り立てた金を積み立て賄っている基金から用いている部分である。

 さて、こうして見れば、労働者のうつ・自殺によって失われる「社会的損失」とは、生きることすら諦めざるを得なくなった労働者階級の犠牲そのものであり、雇用する資本家にとっては可変資本の節約分でしかないことが分かるであろう。

 つまり、労働者のうつや自殺によって失われる「社会的損失」とは、まず何よりも、資本家の都合により、生きることを拒絶された労働者の痛ましい犠牲であり、それにも拘わらず労働者の生活費から税金として吸い上げた基金によって社会保障を行おうとする政府や自治体が、税金の払い手を失うことによって受けた「損失」であろう。

 そしてそこで「合法的」に労働者の首切りを行って自分たちの利益を守るために可変資本部分を節約した資本家たちにとっては、それは単なる「合理化」や「経費節減」による成果でしかないのである!

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