« 2013年1月6日 - 2013年1月12日 | トップページ | 2013年2月3日 - 2013年2月9日 »

2013年1月20日 - 2013年1月26日

2013年1月26日 (土)

社会崩壊の現実(その2)

 前回のブログ「社会崩壊の現実に無自覚な政治家たち」にmizzさんからコメントを頂いた。おっしゃる通りで、「早く死にたい」と言う人や「尊厳死」を望む人の大半は自分の介護や医療費を家族やその他の人々に対して負担や迷惑をかける事への遠慮や申し訳なさがあるからだ。mizzさんが「確かに社会的問題として議論する必要はあるが、さっさと死ではなく、長く楽しい終末医療介護が想定されてこその議論でなくてなんであろう」とおっしゃるのは全くその通りと言わざるを得ない。

 一方で、多くの高齢者や障害者が、製薬会社や医療機器メーカーの利益維持のために「薬漬け」や「治療機器づくめ」の生活にさせられ、そのため労働者階級は莫大な健康保険料や介護保険料を支払わされ、国家や自治体などがその資金を病院、製薬・医療機器企業に支払わねばならない莫大な費用に当て、代行支払いしていたが、これを支払いきれなくなってきたという現実がある。あとは保険料の増額か医者にかかる回数を減らしてもらうかしかなくなったのである。

 国家や自治体は社会が当然保障すべき医療福祉経費を資本家からではなく、実質的に労働者階級の賃金から支払わせてきたということの結果として、家族その他の人に迷惑が及ばないために「尊厳死」を望む人が増えてきたのであろう。まさにかつて東北地方の農民にあった「でんでらの」という高齢者終末期生活の現代版である。

 今朝のNHK TV 「深読み」でも生活保護費と最低賃金の関係が論じられていた。生活保護費とは、その社会で生きる人たちのいわば「最後のセーフティーネット」であるが、実はいまの最低労働賃金がそれを下回っているのである。だから働くよりも生活保護を受ける方が生き残れる可能性が高いのである。
 これに対して、政府や支配層の連中は、「働けるのに働く意欲がない人が生活保護を受ける人ことが多くなっているので、生活保護費の見直しをする」と称している。まさに逆の視点である。そうではなくて、まずは労働賃金がそれほどまでに安くなっていることを憂慮すべきなのだ。いくら「雇用の機会」を増やしても、そこに生まれる雇用での労働賃金が生活を維持するのに絶対的に足りないという現実を彼らは見ようとしない。
 資本と賃労働の矛盾的同一性を維持する(つまり資本主義社会が永続する)ための前提が、価値を生みだす労働者への労働賃金が労働者の最低限度の生活を維持させるために資本が労働者に前貸しする「可変資本部分」である以上、労働賃金が労働者の生活を維持できなくなった場合、その社会では労働力の再生産が不可能となり、まさに資本主義体制がもはや維持できなくなっていることを意味するのだ。
 政府や支配層はそれでもまだ、「日本の勤労者の賃金水準は高い」と考え、その何分の一かの賃金で労働者が生活している国(そういう国では生活必需品の大半が国内で生産されている)で作られ、国際市場で、国際的に流通する通貨でその商品が取引されるために生じる市場価格の差(生活費の差を無視した国際通貨による商品価格の設定が行われる)と競争させるために、わが国の労働者の最低賃金を低く抑えようというのだ!
 そして彼らは「インフレ率2%を目標」とし、貨幣の量を増やしてカネの流れを良くすることで、資本の回転率を高め、資本家たちの利益獲得を有利にしようというのだ。その上資本家的企業は「経済成長促進」のために減税される。
 しかし、それによって消費者物価は上昇し、労働賃金は上がらず、そこに消費税増税が労働者階級の生活苦に追い打ちをかけることになるだろう。
 「アベノミクス」で進軍ラッパが吹かれたインフレ政策で株価が値上がりし、円がドルに対して安くなっており、これを喜ぶ人々が多いようだが、喜ぶのは株でもうける投資家や自動車など輸出産業で稼ぎまくっている資本家たちであり、そういった資本家が経営する「優良企業」ですら「国際競争力をつけるために」労働賃金を上げることには否定的である。
 まして、食料を含む大半の生活資料を輸入している業者は、円安で利益が減少し、そこで働く労働者への賃金は引き下げられるだろうし、それらの業者が国内で販売する生活用品やガソリンなどはドンドン値上がりすることになるだろう。不安定で労働賃金の低い企業への不安定な雇用が一時的には増えたとしても労働者階級全体の生活は決して良くはならないだろう。
 それから先は、労働者の生活破綻とそれに対する社会保障額の増大、それに対して増税にも拘わらず税収は増えず、やがて日本国債の信用失墜で借金支払い不能となり「日本株式会社」は倒産するだろう。
 先の選挙で、安倍のパフォーマンスに踊らされ、自民・公明政権を選択した選挙民は、手痛い「見返り」を受けることになるだろう。さあ、どうする!!


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年1月22日 (火)

社会崩壊の現実に無自覚な政治家たち

 先日NHKTVで「老人漂流社会」というドキュメンタリー番組を放映していた。身寄りのない老人たちは、一人で生活できなくなったときに、介護施設に入るためのお金がないことが多い。年金生活者でも入れる特養ホームは3年先まで予約で一杯の状態である。仕方なくショートステイ施設に入居すると1ヶ月で出なければならず、次の入所先をそのたびに探さねばならない。そしてそこで病気になれば直ちにそこを出なければならず、病院でも長いこと入院することはできない。だから孤独な老人たちは、病身を押して漂流生活をしなければならないのだ。

 その一方で、「社会保障国民会議」(すべての階級が参加しているわけではないのに国民会議と詐称している!)とやらでは、麻生財務大臣が、「(老人が)さっさと死ねるようにしてもらうとか、いろんなことを考えないといけない」と発言するなど、いまの政権にとっては、高齢者問題や社会保障はいわば「お荷物」であることを吐露している。
 あの「老人漂流社会」に登場した車いすに乗せられた80歳代のある老人は寡黙であまり喋らなかった。しかし、大写しされるその表情は苦痛と悲しみに満ちあふれていた。しかし、いまの政権にとって、すべては「経済の成長と活性化」がエンジンとなることで解決させるという方針で、社会にとっては価値を生みださない「お荷物」となる社会保障や福祉問題は後回しにされるばかりでなく、「役立たずの老人は早く死ね」というのが本音なのであろう。
 しかし、よく考えてみよう。いまいる老人たちのほとんどは、かつて、われわれの生活を成り立たせるべく社会の中で日々労働し、価値を生みだしてきた人たちであり、そこで生みだされた剰余価値はそもそも、社会の将来への備えであるとともに、年取って働けなくなった場合や病気になった場合のために蓄積されるべき社会共通ファンドであるはずだ。どんな社会にも労働できない人や出来なくなった人がある割合で存在し、その人たちを含めて社会の存立と永続性を考えなければならないのはまったく当たり前のことではないか。
 資本家的経営者は、労働者たちが日々の労働によって生みだした価値を、労働者には労働力を維持できるに足りるだけの価値部分(可変資本部分)しか貸し与えず、その他の大部分(剰余価値部分)を自分たちの利益として無償で吸い上げ、市場での競争に勝つためにそれを新たな投資に振り向ける。そして資本家的企業の無政府的市場競争を管理調整する役割でしかない資本家代表政府は、もちろん、どんな社会においても社会保障や福祉が必要なことは知っているのだろうが、それに必要な価値を資本家たちが無償で獲得した剰余価値からすべて引き出させるのではなく、資本家から労働者に前貸しされる生活費(これはもともと労働者が生みだした価値の一部である)からさらに税として吸い上げようとするのだ。
 彼らにとって、社会保障や福祉は資本家が利益をあげ続けるために必要な資本家階級の共通経費(資本家的経済学ではこれを「社会資本」と呼んでいる)なのであって、資本家に雇用されてはじめて生きていくことができる労働者たちも当然この社会資本の大半を負担すべきであるというのが彼らの発想である。消費税の増税、企業への減税という逆転した発想はそのような立場の政府でしかあり得ない。
 一方で自分たちの国で生産することができる生活必需品(食料・衣料・住居など)は、資本家たちの市場での過当競争のために、安い労働力の国で作られる輸入品に頼らざるを得なくさせ、そのため失われた国内の生産的労働の場から多くの労働者を放出させ、それを市場での競争に勝ち抜いてマネーまみれになっている富裕層の楽しみのために奉仕する、娯楽、サービス、付加価値労働などの不生産的企業の雇用に吸収させているのだ。
 労働者から収奪した価値によって過剰に蓄積され続ける流動過剰資本の奪い合いによって、つねに不安定な金融市場に翻弄されつづけ、社会の土台はボロボロに腐ってきている。このままではわれわれの社会は早かれ遅かれ崩壊するだろう。
 もう誰の目にもこの絶対的矛盾は明らかにありつつある。それなのに、選挙で自民党は勝ったのだ。選挙民は明らかに歴史のターニングポイントで誤った選択をしてしまったのではないのか?社会崩壊の道を選んでしまったのではないのか?

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年1月20日 (日)

閑話休題:東北支援ソング

 NHKでいやというほど聞かされている東北支援ソング「花は咲く」は、最初から最後までちゃんと聞くと実によい曲である。メロディーももちろんだが歌詞がすばらしい。私はこの曲を聞くと恥ずかしながらいつも涙腺が緩んでしまうのだ。近来にない傑作だと思う。「いつか生まれてくる君に、私は何を残しただろう」がいまの自分の心境でもあるからかも知れない。

 3.11は膨大な死と破壊とともに実に多くのことをわれわれに思い知らせたと思う。その中で、あの突然の大災害によって亡くなった多くの人たちと、その後の人災で人生をめちゃくちゃにされた多くの人たちと、われわれはどこかで一つに結びついているという実感を持った。ともに一度しかない人生を生き、死んでいった人たちと「私は何を残しただろう」という感覚を共有できるのだ。
 世の中、人の死をビジネスにしてもうける宗教団体や葬祭会社が多いが、3.11で共有した人の死と自分の人生の結びつきの感覚は、こんな商品化された死とは全く違う人の死への共感とそれへの芸術的表現において、実にすばらしいものを残してくれたと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年1月6日 - 2013年1月12日 | トップページ | 2013年2月3日 - 2013年2月9日 »