« 2013年9月29日 - 2013年10月5日 | トップページ | 2013年10月20日 - 2013年10月26日 »

2013年10月6日 - 2013年10月12日

2013年10月12日 (土)

「市場化される日本社会」を巡って(その3)

 岩波の評論誌「世界」に掲載された表記特集の二つの評論について述べてきたが、一口に言って、堤氏の評論は優れた現状認識に基づいたものであるが、神野氏の評論は、はっきり言って「絵空事」といえるだろう。なぜなら、資本主義社会の本質を少しも捉えておらず、社会システム、経済システム、政治システムがそれぞれ独自に成り立つような幻想をもとに市場の民主主義的コントロールを夢想しているのだから。

 日本社会が市場化されたのは、いまに始まったことではない。神野氏のいう「近代社会」つまり資本主義社会の登場、展開、爛熟、崩壊の過程は、すべて社会全体が市場化され、資本の生産、流通、蓄積を浸透させる過程であるといってもよいだろう。

 宇野弘蔵の言葉を借りれば、商品経済社会の歴史的展開の中で「労働力までもが商品化される」社会が資本主義社会なのである。そして資本主義社会の歴史的展開は、その爛熟期に「社会主義圏」が登場したため、大きく軌道を修正せざるを得なくなり、やがてその「社会主義圏」が内部矛盾の露呈によって崩壊した後、再びもとの軌道に戻そうとする「新自由主義」陣営と、軌道修正をそのまま続けようとする「福祉国家」陣営(いわゆる「リベラル派」)に分かれて争っていると見ることができるだろう。そしてその中に中国というニセの「社会主義」を看板にした一党独裁資本主義国家がその他の資本主義陣営とグローバル市場を競いながら同時に相互依存関係を生みだしている状況と見ることができるだろう。

 そのような状況では、資本家陣営は、国家を最大限利用しようとして、一方ではグローバル市場での「自由貿易」の推進を図り、他方では、国家全体を「株式会社化」する。国家は国債を発行してグローバル資本市場から運営資金を調達し、それによって資本家に活動の場を拡げる。資本家たちは互いに「自由な」つぶし合いを繰り返しながら企業買収によって巨大化したピラミッド的支配構造を生みだし、国家の枠を超えて低賃金労働を漁り回り、国内では労働者を資本に奉仕させる仕組みを次々と生みだしていく。

 その中で各国の労働者は、互いに一個の労働力商品としての競争を強いられ、いかに有利に資本家のもとに自分を売り込むかが生きていくための最大の課題となる。資本家同士の競争と同じような競争が労働者個人間でも生じ、そこに「勝ち組」と「落ちこぼれ組」を生みだしていく。そこには労働者階級としての自覚とはほど遠い「個人意識」が醸成され、矛盾の中で個々に苦しみ続けなければならない状況になっていく。いかに資本家企業が過酷な労働を強いても、それに対抗し、頼れる労働組合も存在しないし、保護してくれる法律もない。いわく「自助努力」だけが声高に叫ばれる。

 「民主主義的」選挙といわれる選挙においては、真の意味で労働者階級を代表する政党はなく、どこもかしこも「国民政党」を自認する。そこでは「新自由主義」的陣営と「リベラル派」陣営の政党が競い合うだけで、その他は「新自由主義」的立場をさらに右傾化させようとする政党や、「リベラル派」をさらに左傾化させようとする政党があるだけである。

 そうした世の中では資本家も労働者も「対等な個人」としてしか扱われていない。そして富の源泉である生きた労働をすべて資本家に提供する労働者は、資本家と対等に「所得」を分け合う存在と見なされてしまう。それなのに、一方で労働者は「消費者」と呼ばれ、資本家は「生産者」と呼ばれる。まるで富は資本家が生みだしたとでもいうように。

 いまや世界中の国々がグローバル資本の支配のもとに置かれ、それぞれが「○○国株式会社」化しつつある。そしてそれらの国々が○○国株式会社間での競争に組み込まれ、政府間の条約や協定によってグローバル資本間の依存関係が進みつつある一方で、労働者たちは各国の国境の内部でばらばらな個人としての労働力商品間の競争に明け暮れさせられている。

 こうした状況では確かに資本が旧来のコミュニティーをどんどん破壊しつつあるが、だからといって、「家族主義」や「国家主義」にみられるような旧来のコミュニティー観への復帰を目指すのではなく、むしろ世界中の労働者たちが国境を越えてその階級としての共通の立場に気付き、互いに手を取り合うことが必要なのである。さもなければ、ふたたび私たちは、互いに何の恨みもない個人同士が国家という冠を被せられて殺し合わねばならない戦争へとむかうことになるだろう。「愛国心」や「ヘイトスピーチ」はその兆候である。

 日本株式会社の経営陣である安倍政権が「スピード感をもって」進めつつある、グローバル資本家のための諸政策に対抗し、日本株式会社の従業員たる労働者たちによる政党あるいは組合を生みだし、同じような立場に置かれている各国労働者たちとの連帯のもとで、グローバル資本政権に対抗しうる勢力を生みださないかぎり、 私たちの未来はないのではないだろうか?

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月11日 (金)

「市場化される日本社会」を巡って(その2)

 岩波の評論誌「世界」が特集した「市場化される日本社会」で着目した二つの評論のうち、前回では堤未果氏の「株式会社化する国家」について述べた。今回は神野直彦氏の「市場を民主主義の制御のもとへ」についてを述べる。

 神野氏は、第二次大戦後の30年を「黄金の30年」ともいえる福祉国家の時代と捉え、「そこでは経済成長という社会目標は、市場原理にもとづく経済システムと、民主主義にもとづく政治システムとが、クルマの両輪にならなければ達成できないと考えられていた。つまり、福祉国家の時代とは市場原理による所得配分を、政治システムが再配分して修正すればするほど、経済成長が実現するという<経済成長と再配分の幸福な結婚>の時代だったのである」と捉えている。しかし、やがてその経済成長が化石燃料などに代表されるエネルギーの過剰消費とそれによる資源の枯渇という問題に直面し、「成長の限界」が指摘されるようになった。そこに「市場を唯一の神として崇め、所得再分配を根底から否定して経済成長をただひたすら追及すれば<成長の限界>は克服できるという新自由主義が」登場したとする。そして神野氏は「新自由主義は、唯一の神である市場を、民主主義にもとづく政府が制御してはならないと叫ぶ。新自由主義の教義では国家つまり政治システムは、市場原理を拡大していく装置であって、目指すべきは<再配分なき成長>であると唱えられる。貧困問題も市場に委ねさえすれば、富裕者の富がトリックル・ダウンして、富裕者の負担を求めずして解消される、と得意満面で語られたのである」とし、しかし実際には、<再配分なき成長>が進展するにつれて、格差と貧困を生み、自然破壊による自然の自己再生力をも奪うことになってきた、と批判し、そこに<成長の限界>に代わって登場したのが<持続可能性>という概念であると言う。そして神野氏は、「持続可能性とは自然の自己再生力を持続させることを意味する、しかし、(中略)人間の生存は自然の自己再生力と、人間社会の自己再生力とによって支えられている」のであるとし、これを「新自由主義は、人間の生存は市場を信じ、経済成長を達成することによって可能になるのだと言い換えようとする」と批判する。
 神野氏は、「確かに、市場社会では人間の生存に必要な生産物は市場原理によって生産される。(中略)市場社会とは人間が創造主ではない土地に代表される自然、内なる自然ともいうべき労働、さらには迂回生産である資本(??)という生産要素を取引する要素市場が存在する社会なのである」と捉えている。そしてさらに「要素市場の取引とは、生産活動の別名である。土地、労働、資本という生産要素が生みだす要素サービスを取引する要素市場が誕生したということは、生産活動が市場原理で営まれる社会が成立したことを意味する」として、それが「近代社会」なのだと捉える。そして、市場原理では購買力に応じて生産物が分配されるが、実際には、幼児や老人などの購買力のない労働人口外の人々をも生存させなければならないのであり、そこに家族という共同体による「分かち合い」の原理が必要であって、共生意識によって支えられる共同体が必要になってくる、として財政社会学でのモデルを挙げる。
 そのモデルは、世の中を構成する「社会システム(共同体)」「経済システム(市場)」「政治システム(国家)」という3つのシステムを頂点とする三角形の関係を想定し、経済システムは社会システムに必要なものを供給するが、同時に社会システムを浸食することになるため(なぜ?)、政治システムが経済システムを制御するとともに、社会システムに補完を与えるという図式で捉えようというものである。
 神野氏は、「近代社会」においては、この社会システムが、市場原理によって浸食され、コミュニティー内での相互扶助や共同作業による生活保障機能が急速に衰退し、社会システムの持続性が失われてきたために、それに代わる社会保障制度が必要になってきたと捉えている。そして新自由主義の市場主義に対して、市場を社会全体の構成要素の一つに過ぎないと位置づけ、社会の構成員の共同意思決定のもとに市場を制御していく道を選ぶべきであると主張し、民主主義が市場を制御してゆける状態をつくらねばならないと主張する。そして「自然発生的な秩序は市場ではなく、共同体という社会システムである。共同体に抱かれると、自然の自己再生力と社会の自己再生力との調和のもとで、人間の生存が保証される」という。そして「人間の欲求には所有欲求と存在欲求があり、前者は経済システムで充足され「物の豊かさ」を感じさせ、後者は社会システムで充足され、「心の豊かさ」を感じさせる、と結んでいる。
 この神野氏の現状認識とそれにもとづく主張は、いま「リベラル派」といわれる人たちの典型的なタイプと思われる。その中で用いられるタームは例えば「市場社会」とか「要素市場」など、マルクスの資本論を斜め読みして得た知識をもとにして作られたと思われるタームが垣間見られる。しかし、ここには「資本主義経済体制」という言葉は一度も現れないし、「資本」の意味も生産要素と同義語でしか用いられておらず、資本論でのタームとそれが示す内容はむしろ意図的に避けられ、歪曲されている。つまり、自分の見解はイデオロギー的に「「色つき」ではないということを暗に示したかったのではないだろうか?
 単刀直入に言って、「民主主義」で「市場システム」が制御できるなら、それはとっくに実現されているはずである。神野氏のいう「黄金の30年」における福祉国家のモデルですら、それは制御できなかったといえるだろうし、むしろだからこそ、それが破綻して、「新自由主義」に舞台を譲らねばならなくなったのではないか?
 福祉国家モデルが登場したのは、それが一方で社会主義圏の登場という歴史的事実のもとで労働者への福祉を建前とした政策を導入せざるをえなかったという事情があり、それが資本主義経済体制のもとで蓄積した過剰資本を労働者の生活資料生産や軍需生産によって処理する体制として一時期成功していたからであろう。そのため必然的に、それは際限ない消費や無駄を生みだし、自然環境の破壊や資源の枯渇という「成長の限界」をうみだすことになったといえる。しかもそこでの「民主主義」は、資本が生産過程を支配する状態を前提としてそこでの資本家と労働者という階級関係を完全に無視してみな同じ「個人」や「市民」として捉えようとする「資本家的民主主義」であり、それは資本家的自由(市場の無政府性)を前提とし、本質的に市場を制御できない構造になっている。
 フリードマンらによる「新自由主義」は、かつてアダム・スミスが唱えた「市場放任主義(レッセフェーレ)」の思想が、19世紀末頃から徐々に脆性破壊が始まり、1930年代に至って完全に破綻し、その後、社会主義国家の登場を横目で見ながら新たに導入されたケインズ型資本主義体制での政府主導型経済が、一時期<経済成長と再配分の幸福な結婚>の時代を築いたかに見えたが、1970年代になってそれが再び破綻したことによって登場したものであるといえるだろう。
 もっと言えば、「新自由主義」はすでに100年も前に破綻したアダムスミスのレッセフェールを再現しようとすることで、最初からその破綻を生んだ本質的原因を抱えたままなのであって、再び破綻することが約束されているようなものである。
 だから、いまはむしろケインズ型資本主義経済体制を基礎とした福祉国家モデルがなぜ破綻したのかが問題なのである。
 この問題は大変重要であり大きな問題であり、ここで詳細に述べることは無理なので別の機会に述べることにするが、敢えて簡単に言えば、ケインズ型資本主義体制も結局は社会を支える生産に必要な生産手段を資本家の個人(法人)所有に委ね、それを利殖行為の手段とする資本主義市場経済の体制を基礎にしているかぎり、本質的に無政府的な市場での資本家たちの「自由」競争のもとに置かれる賃労働とそこからの剰余価値の搾取という資本主義体制の核心は変わらず、つねに生産手段を持たない労働者の存在が必要となるということである。いくら、株式会社システムを用いれば、労働者であろうとも「自由に起業」できる、として資本主義社会が機会平等な無階級社会であるかのように主張しても、そこにはつねに絶対多数の人々が賃労働者の立場に置かれている状態が前提されているのである。
 ケインズ型資本主義体制の特徴は、「経済システム(資本主義市場)」を制御する「政治システム(国家)」が、中立的立場のように見えても実は、「総資本」の立場を代表しており、総資本の立場で個別資本間の矛盾を調整するにすぎない存在なのであることだ。総資本にとって、労働者階級の存在は富の源泉として必須である。だからこそ資本家たちの私欲をある程度おさえても、労働者たちを搾取可能な状態で生存し続けさせ、そして階級闘争に走らないように「社会システム」を維持しなければならないのである。
 (以下次回に続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月10日 (木)

「市場化される日本社会」を巡って(その1)

 岩波書店発行の評論誌「世界」11月号が「市場化される日本社会」という特集を組んでいる。この中で、二つの主張に着目してみた。一つは堤未果氏の「株式会社化する国家」であり、もう一つは神野直彦氏の「市場を民主主義の制御のもとへ」である。

 堤氏は「株式会社化する国家」の中で、新古典派経済学者のミルトン・フリードマンのことば「企業経営者の道徳的義務とは、社会や環境といったことよりも株主の利益を最大限あげることだ。モラルも善意も、それが収益に結びついている場合のみが容認される」をいまのブレーキの外れた果てしない市場競争を基盤とするグローバル経済社会を表す象徴的な考え方として挙げ、アメリカでの現状について以下のように捉え、その危険性を指摘している。
 アメリカでは教育も公共サービスもそして政府の低所得者への食糧支援や刑務所経営までが、すべて最も低コストで最大限利益をあげるシステムに呑み込まれて行く。そしてそれを後押ししているのが「法改正」である。独占禁止法がレーガン政権下で骨抜きにされ、銀行が国民の預金でギャンブルをすることを禁じた「グラス・スティーガル法」が撤廃され、暴走するマネーゲームが企業買収を繰り返させ、金融、食品、農業、医療、教育、軍需などあらゆる分野でピラミッド型の企業支配構造が確立し、上位1%の超富裕層の影響力が国家全体を支配しつつある。
 堤氏はそれを公教育や政府の公共サービスの破綻という実例を挙げて述べている。デトロイトに見られるように、自治体がこうしたグローバル企業やそれを支える金融資本のもとで、価格競争に晒され、公共サービスへの負担増が原因で破産を余儀なくされる現状を指摘している。そして、自治体の公共サービスが株式会社経営に取って代わることで、地域住民にとっての公益を追及する公共サービス本来の目的が「株主利益の最大化」に取って代わられる状況を述べている。
 こうして「儲からない公共サービス」が衰退し、失業者が増え、格差社会が拡大し、労働者の貧困化が進んでいく中で、組合への加入と支払いの義務化を廃止する「労働権法」ができ、それにより企業が組合との交渉を待たずに一方的に労働条件を決めることができるようになったため、全米各地で組合が解体された。労働権法を導入した州では企業誘致がしやすくなり、政府はこれによって失業率が改善されたと宣伝している。
 しかし、その内実は、労働組合や福利厚生がなく海外移転が不可能な低賃金サービス業(ウエイター・ウエイトレス、レジ係、小売店店員、メイド、運転手、調理人、用務員、弁護士など)が爆発的に増え、一方で製造業や技術職などの専門職は低賃金・低給料の地域である海外諸国に移転され、ワーキングプア人口増加による大幅な人件費削減によって経営陣と株主はますます豊かになっている。
 堤氏は、こうして社会の底辺に落とされた人々を貧困ビジネスなどによって大量に消費しているアメリカでは、国民は、市場を独占した企業群が、自分たちの国を株式会社化することに気がつかなかった、と指摘している。9.11の事件によって「テロとの戦い」を理由に通過した「愛国者法」による言論統制と監視体制の強化、そして議会を通過する危険法案への無関心によって、合法的に自分たちの権利をあけ渡してしまったのだ。
 さらに堤氏は、自国を企業天国にすることに成功したアメリカの企業群が市場を他国に拡大しようとするために、障害となる各国の国内法や憲法を超越する新しいルールとしてTPT、FTA、EPA, などなどの二国間・多国間貿易協定が次々に進められているが、そこに共通する「自由貿易」とは誰のための自由なのかを考えてみるべきだ、と指摘している。そして日本では安倍首相が「世界で一番企業が活躍しやすい国を目指します」と公言していることは周知の通りである。
 この堤氏の指摘と主張は、戦後アメリカ型資本主義社会をモデルとしてきた日本の近未来への重大な警鐘であるとともに、「経済成長」幻想の内実と本質をするどく突いている。
 ここでもっとも重要なことは。こうした国家がグローバル資本のコントロール下に置かれてしまうという状況(コーポラティズム)が、「民主主義」の本家であるアメリカを中心として台頭していることだ。19世紀末にすでに全盛期であったイギリスの資本主義社会の影響を受けながらも独自に発展しつつあったアメリカ型資本主義が、一方でリンカーンの「人民の、人民による、人民のための」民主国家という思想を理想として掲げ、イギリスの様な古い階級制度に拘束されることなく「個人の自由」を国是として掲げてきたのだが、それは一方でプロテスタンティズムを背景としながら、あらゆるものを商品として流通させることが前提である資本主義商品経済が土台にあって、個人は「商品の売買で私的利益を得る自由」が保障されるという意味であり、それは裏を返せば、有利に商品売買で利益を上げるためには取引相手はそのための手段でしかないという人間関係がベースにあることをも意味している。
 リンカーンは南部のアフリカ系奴隷を「解放」したことで知られるが、「解放」されたアフリカ系の人々の多くは、生計を得るために北部に発展しつつあった資本主義企業の労働者として吸収されていった。人身をモノと同様に売り買いすることで買い手の奴隷となって生活していた彼らは、今度は奴隷という仕事を失って、北部で資本家に「賃金奴隷」として雇用される道を選ばざるを得なかったのである。それは目に見える階級制度ではなかったが、生産手段を持たない(free from)ので、自分の労働力を売ることでしか生計を立てることができないと言う意味での「賃金奴隷」として新たな階級制度の中に組み込まれたわけである。雇用者である資本家にとって彼らは、自分に利益をもたらすための手段でしかない。やはり人間ではなくモノと同様の扱いなのである。
 こうしてアメリカ資本主義社会は「自由と民主主義」という看板のもとでの見えない階級制度を土台として成り立っている社会であることを忘れてはなるまい。そこには最初から労働力しか売るモノがないというハンディを背負わされた絶対多数の人々の存在が社会を支えているにも拘わらず、そこから莫大な利益を獲得する「自由」を持った、ほんの一部の連中がカネの力で社会を支配し、国家を手段として用いている現実が見えてくる。
 こうした「株式会社化した国家」に対して「民主主義の制御」の必要性を主張するのが神野氏である。これについては次回で述べることにする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月 8日 (火)

「生き直すために」を読んで

 8日朝日朝刊「オピニオン」欄で「生き直すために」というテーマで人生のやり直しについて二人の論者が意見を述べていた。一人はコラムニストの小田嶋隆氏、もう一人はお好み焼き専門店「千房」の経営者、中井政嗣氏である。

 中井氏は、受刑者など、いわゆる世の中の「落ちこぼれ」と見なされている人たちを店に雇い働かせていることで知られている。多くの受刑者を雇い、店長として育て上げながら、自らも従業員教育の方法を学ばされると言っている。当然、退職者やトラブルは多いが、その中から人生の立ち直りに向かう人も多く出ている。その秘訣は信頼することにあり、信頼されることで人は大きく成長すると言っている。
 しかし、私はもう一人の論者、小田嶋氏の意見にある種の感銘を受けた。小田嶋氏は、大学卒業後、ある一流企業に就職したが、8ヶ月で辞め、さまざまなアルバイトなどで生計を立てていたが、ある友人から「パソコンの本を書かないか」と言われ、ライターの仕事を行うようになった。しかし30代からアルコール依存症になり、幻覚を見るほど重症になったため、医者にかかった。そして医者から、このままではいずれ人格崩壊、アルコール性痴呆に行き着くしかないので、とにかく一生酒を飲まないようにし、酒のない人生を新たにつくることだ、と言われ、酒を含めて好きなことをいっさい止め人生をリセットした。酒を止めることで、時間をもてあますことが多くなり、いろいろなことをやってみるようになった。仕事はうまくいくようにはなったが、それは目標でなく、あくまで結果であった。自分は「やめる」こと以外には何も達成していない、と言う。断酒自助グループでは、最初に「私は、自分では自分の人生をどうにも出来ない人間であることを認めます」と宣言させられるそうだ。これは一理あって、「自分で人生を立て直せる」と思い込んでいるとアルコール依存症からは逃れられない。ビジネス本に書かれているような「自分の人生を設計する」という感覚は、「カネさえあれば何でもできる」と同じくらい軽薄である。「自分で自分を律する」というのは大きな勘違いであってそういう意識のあるかぎり、人生のやり直しはできない。就職のやりなおしでも「夢に向かって努力する」では、こだわりにがんじがらめになるだけ。自分がどの仕事に向いているかなんて、実際にやってみなければ分からない、と言う。そして、人生を途中からやり直そうとするなら、まず何かを捨てることです。捨てた結果、その空白に強制的に何かが入ってくる。捨てた結果が良いか悪いかはまた別の話です、と言う。自分が会社を辞め、酒と一緒にそれまでの生活を捨てたことで多くのものを失った。代わりに手に入れたものも明らかにある。あそこでやめていなかったら、いまのような人生は歩んでいなかった。どちらが良い人生だったかは分からないが、と言うのである。
 小田嶋氏は私より遙かに若い世代であるが、私が退職後に感じたある心情に似た体験をしていると思った。中年を過ぎてから自分を変え、人生のあらたな目標(夢)に向かって歩み始める、などというのがほとんど幻想に近いのが現実であろう。
 しかし、これは「人生あきらめの境地」かと言えば必ずしもそうとは言えないと思う。「つねに夢を抱いて生きよ」という美しい言葉は、その反面でそれが実現できない自分への絶望感がいっそう深くなる。小田嶋氏の境地は、そうした挫折感を何度も経験した結果たどりついた心境なのだと思う。絵空ごとの美しい言葉よりも現実を見るべきだということではないだろうか?
 受験戦争を戦い抜き、一流大学に入り、何とか就職できた会社で、就かされた仕事や人間関係が耐えがたく、退社して転職を図ってみても「夢」を実現させるような仕事にありつけることなどほとんどないのが現実であろう。ましてさまざまな事情でいわゆる「落ちこぼれ」になった若い人たちや中年層にとって、「夢に向かって努力する」なんて嘘くさくてしらけてしまうのが本当だろう。
 自分が何者であるかを意識させるのは、自分がどのような形で世の中と関わっているかによって左右される。その関わり方が、自分にとって耐えがたいものとなったとき、自分を「あるべき自分に」変えることでその耐えがたさを克服しようとしても、それはほとんど不可能である。結局それは、耐えがたい人生であることを自分のせいだと思わされていることであり、自分を変えることで何とかそれを受け入れようとする追い詰められた観念でしかないのではないだろうか?
 「あるべき自分」が現実からかけ離れているとき、しばしばそれは絶望感を深め、自死という道を選ばせることにもなる。しかし、そのどん底から見上げる世の中こそが、本当は変えられるべき対象なのではないか?
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年9月29日 - 2013年10月5日 | トップページ | 2013年10月20日 - 2013年10月26日 »