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2013年2月3日 - 2013年2月9日

2013年2月 7日 (木)

ふたたび、がんばれ中国の労働者!

 尖閣諸島周辺の公海上で中国の巡洋艦が日本の海上自衛隊艦にむけて射撃コントロールレーダーを照射したことで、一気に両国間の緊張が高まっているが、その一方で、中国でアップル社のiPhoneを作っているFoxcon社で、労働者が初めて自分たちの代表を自分たちで決めることができたというニュースがあった。

 Foxcon社では、その過酷な労働に対して、労働者が堪えられず自殺するなど酷い状況が続いており、これに対する労働者の抗議が続いていた。しかし、中国では労働者の代表は共産党の官僚によってトップダウンに決められ、労働者の不満は押さえつけられ党や政府の方針が押しつけられていた。そして従業員3000人以上とも言われるFoxcon社でついに、労働者が自分たちの代表を自分たちの選挙で決める権利を獲得したのである。これは画期的な出来事だと思う。
 中国国内ではあちこちで労働者や農民の抗議運動が起きており、グローバル資本のくびきのもとで、低賃金労働をさせられている自分たちの立場に気づきはじめている。そして本来は労働者・農民階級の代表であったはずの共産党がグローバル資本と結託して中国の労働者・農民たちを低賃金・長時間労働に駆り立てていることがだんだん分かってきたのだ。
 日本や欧米から高度な生産技術を学びそれを自分たちのものにした中国の労働者たちが、なぜ日本や欧米の労働者と同じ賃金水準でないのか?この当たり前の疑問を彼らも自分自身に投げかけ始めているのだ。
 同じ労働をしているのになぜ同じ賃金でないのか?という疑問は出発点である。さらに、その賃金の差が「生活水準の差」と言われれば、じゃその「生活水準」とはいったい何なのだ?という疑問に進むだろう。結論から先に言えば、本来「生活水準」とは生活(つまり毎日食べて着て住むことによって労働力を再生産する過程)に必要な生活資料を生みだすのに要する労働時間量を基準とすべきであって、その労働時間量が少ない方が「生活水準」が高いと言えるのだ。
 価値はどこの国であってもその社会で必要なものを生産するために必要な社会的平均労働時間によって決まる量である。その社会の生産力に差があるときには、当然生産力の高い社会では同じものを生産するのに短い時間で済むから同じものが少ない価値量しか表さない。
 誤解されないように言っておくが、「賃金」という概念は資本家によって生みだされたものであって、彼らの頭の中では、生産性が向上すれば、生活資料は安く生産されるようになり、資本家に雇用されているからこそ生きてゆける労働者はもっと低い賃金でも生活できるのだから賃金は下げるべきであるという論理構造になっている。しかし、事実はその真逆であって、資本家は労働者の労働を搾取することによってしか生きられないのである。本来、労働者たちがその労働によって生みだした価値はすべての労働者たち(つまり労働者階級)に還元されるべきものである。
 生産力の高い社会では、生産力の低い社会で働く労働者と比べて短い時間で自分たちの賃金に該当する生活必需品の価値を生み出せる。もし以前と同じ労働時間働けば、その残りの労働で生み出された価値部分は剰余価値として、本来は自分たちの社会に必要な共通ファンド(医療・教育・介護・福祉・社会インフラなどなど)として蓄積され自分たちの生活に還元される価値量が増えるはずである。
 しかし、現実の資本主義社会においてはそうなっていない。生産力が高くなって増えた剰余価値部分はすべて企業を経営する資本家たちの収益となるのである。だから彼ら資本家はその剰余価値部分の大きさに見合った莫大な利潤を獲得できるのだ。
 これに対して労働者が不満を突きつけても、その増えた剰余価値部分のほんの幾ばくかを労働者の「懐柔費」として賃金に上乗せをするに過ぎない。しかもこの「懐柔費」は労働者によって生活資料商品の購買に向けられ、それらを生産する資本家企業によって再収奪され、資本家階級の間で再分配されるのである。日本の労働者階級が半世紀以上にわたって行ってきた「春闘」による賃上げ闘争はそうした現代資本主義社会での「儀式」に過ぎないと言ってもいいだろう。
 もう一つ重要なことは、「生活水準の差」=「労働賃金の差」とは言えないことである。生産力が同じになっても国によって労働者の賃金(つまり労働力の再生産費)が異なるのは、国によってその剰余価値部分の収奪の構造が異なる(これについては後日述べる予定)ことに加えて、国による通貨の価値表示量が異なることがある。中国国内で労働者は「人民元」という通貨で賃金を受け取り、それで生活に必要なものを買っている。日本の労働者は「円」でもらった賃金で生活に必要なものを買っている。しかし円と「人民元」はその価値の表示量が異なる。
 労働者の生活に必要なものの売買はその国の国内通貨で行われ(つまり労働賃金は国内通貨で支払われ)、そこで作られた商品が労働者を雇用する企業によって国際市場で売買されるときには、国際的通貨のレートで支払われるのである。そこでは円や人民元はドルなどの国際通貨に換算され取引される。その為替レートの操作によって同じ価値をもつものが、中国では安い生産費用(これは資本家用語であってその中に労働賃金が大きな割合を占める)で作られ、日本では高い「生産費用」で作られることになる。だからグローバル資本にとって国際市場では安い中国製品が圧倒的に強かった(「強かった」と過去形なのは、すでに労働賃金が高騰しつつある中国に見切りを付けてグローバル資本がもっと労働賃金の安い国々へとシフトしつつあるからだ)。いまもし、両国の労働者がともにドルで賃金を受け取ることになったらどうなるか想像してほしい。
 中国の労働者が不当に安い労働賃金で働かされて生みだした商品が、国際市場を席巻し、資本家たちが日本の生産拠点を縮小し、日本の労働者が仕事を奪われていると見えるのは、実は両国の賃金格差を最大限利用するグローバル資本家たちの企みのゆえであって、中国の労働者も日本の労働者もその意味で、共通の被搾取者の立場なのである。ナショナリズムを振りかざしての、ゆえなき憎しみ合いはまったく馬鹿げている。
 資本家の利益追求でしかない「経済成長」(そしてこの無制限の「成長」が地球の自然を急速に破壊しつつある)のために戦争の危険を犯してまで小さな島の取り合いをする両国政府のキャンペーンなどに乗せられることなく、両国の労働者階級同士が真実をしっかり見据えて手を結ぶ必要があることはあきらかではないか。
「中国の労働者がんばれ!」
 

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2013年2月 3日 (日)

マルクスの思想とその精神性について

 マルクスの意図とはまったく異なった方向に行ってしまった20世紀の「社会主義国」の状況をその一党独裁体制とトップダウン的社会の形態があたかもマルクス主義の本質的特徴であるかのように考えている人たちや、マルクスの唯物論を、人間の精神性を無視した物質主義となじる人たちに次のような私のマルクス観を知ってもらいたい。

 20世紀中葉のいわゆる「社会主義国」でのように、マルクスをまるで神のように絶対的な存在として教え込み、それを信じさせようとすることはマルクスにとってまったく心外なことであったに違いない。いうまでもなく資本論は不可侵の聖典などでは決してなく、まさしく唯物論という哲学を核とした科学の書であると思う。
 だから資本論が持つ科学的真理とともに、そこに含まれている歴史性が持つ限界も当然あるわけであって、宇野弘蔵のようにそれを批判しつつ、マルクスが意図した真意をより深く自分のものとして理解しようとすることはむしろ当然のことである。
 しかし、マルクスにあっては、資本論を科学の書としてその論理的整合性を整えることよりも、そこに述べられた真実をもって的確に社会の矛盾を摘出し、その矛盾を実践的にのりこえることこそ究極の目的であったに違いない。まして資本論を「知識人のための教養の書」などと位置づけるのはマルクスにとっては怒りの対象以外の何物でもないはずだ。宇野学派の人たちはそのことを肝に銘じるべきだと思う。
 資本論であきらかにされた資本の論理は、資本主義社会の矛盾の現実に対して向けられる鋭い批判と真実の摘出のための武器であって、批判者の思考力の中に埋め込まれてるいるべきものである。その歴史的現在への批判を通じて、資本論はさらに大きく拡充させられるべきものなのではないだろうか。その意味で資本論は資本主義社会が続く限り未完の書であり続けるといえる。
 それと同時に、資本論がよってたつ唯物論の立場を人間の精神性を無視した物質主義と切り捨てる人々の「精神性」も実は資本主義的思想の無自覚な「普遍化」による歴史的産物なのである。資本主義社会においては、商品化される人格とともに、その「自由で合理的な取引」によって食いつぶされる人間性を、一方で宗教によって支えなければ社会が成り立たないのである。
 私は決して神を信じる者ではないが、バッハの音楽やルネサンスの名画に感じる宗教的崇高性を深い共感を持って受け止める。それは「神の崇高性」などではなくて、それを表現する人間の側の精神的崇高性だからである。「神」という虚偽の存在を媒介としながらも、そこに発揮され、実現する人間精神のもつ崇高性に大きな敬意を感じるからである。たびたび触れてきた「自己犠牲」という精神もそれである。
 しかし、こうした人間精神の崇高性が、それが虚偽の存在を媒介としているがゆえにいったん政治的に利用されるとおそろしい事態を生みだすのである。歴史の中で宗教間の争いは何千万もの命を奪い、略奪と虐殺を繰り返させている。そこでは自己犠牲が「自爆テロ」という形で現れたりするのである。現代では、それが資本主義国家間の国際的市場競争のもつ非人間性とそれに対する闘いへの別な形としても登場しているのである。
 私は、キリスト者がその墓に刻む言葉の中で、しばしば「死をもって永遠の生がはじまる」と書くのにたいして、マルクスの「人は一日24時間づつ死んでいく」という言葉を対比させたい。
 宗教者は、人は現世での死をもって神の世界で永遠の「生」を得るという発想であるのに対して、マルクスは、人はその存在を支えるためにあらゆるかたちで行う労働によって自分の生を「過去の労働」つまり「死んだ労働」として物質的に結晶化させ、それを永遠に引き継がれる人類共有の富として残しつつ歴史を生みだしていくと考えているのであろう。その意味で人は死の時点においてその存在を「生き切るというかたちで死に終わった」ことを意味するのである。マルクスの価値論はこうした真実にもとづいているのである。
 長い人類の歴史の中で、その社会を支えるためにあらゆるかたちでの労働によって生き、死んでいった何百億という無名の人たちの労働が残した生の証がいまわれわれをこうして生かしてくれているのである。そしてその人類共有の歴史的富を独り占めしようとする連中によって世の中は支配されているのである。
 私には、「不可侵」の神の姿よりも人間マルクスの思想の方がはるかに真実であると感じるのである。そしてマルクスがつかみ得たかぎりでの唯物論をそこに見るのである。

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