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2014年5月22日 (木)

「リベラル派」の破綻がもたらしたもの

 アメリカでは「イエス、ウィーキャン」で下層・貧困層の圧倒的支持を得たオバマが、大統領就任後、プラハで核廃絶宣言を行い、湾岸戦争やイラク、アフガニスタンなどでの失敗によるアメリカ人の厭戦気分に応え、国家予算の無駄使いを止める必要からアフガニスタンからの撤退を行い、すべての人が医療を受けることができるような制度を目指して動き始めるなど、一連の画期的政策を開始したが、やがてそれらはほとんどが挫折してしまった。

 日本では、バブル崩壊の苦い経験から、「コンクリートから人へ」を看板に自公政権を破って政権をとった民主党が、その後沖縄基地問題、経済的不況対策での失敗、政権内部での対立、そして東日本大震災での対応などにおいて大失敗して、再び自公政権に席を譲った。
 そして日本では今度はかつてないほど右寄りの安倍政権が国民の圧倒的多数の支持を得て登場した。アベノミクスの「3本の矢」で経済再生を押し進め、その上に乗っかって憲法を改定して国軍をつくろうというわけだ。折悪しく(折良く?)中国や韓国が一斉に「反日」キャンペーンを行うようになってきたので、それを追い風に、「国防の危機」をうったえ、時間の掛かりそうな憲法改定よりもその実質解釈変更に向けて動き出した。
 いま世の中は「リベラル派」への幻想が縮小し、保守指向と政治的「リアリズム」が進行しつつあるようだ。オバマや日本の民主党政権は、いうなれば完全に「看板倒れ」であったことが判明し、人々が幻滅してしまったからだ。
 では、なぜ「リベラル派」が看板倒れになったのか?それは一言でいえば、いまの世の中で噴出しているさまざまな矛盾の根源にある病巣に手を付けようとせず塗り薬だけの対症療法だけで済まそうとしたからだ。
 安倍政権による大規模金融緩和、原発再稼働、原子力と軍事につながる技術の輸出、農業や中小企業を犠牲にして自動車など輸出でもうける大企業を保護するためのTPP交渉などなどは、一言でいえば「経済最優先」政策である。そしてそれらの権益を守るための軍事力増強と自衛隊関連法の改定がゴリ押しされている。これが彼らのいう「国益を護る」ことなのだ。
 企業が儲かれば、そこに雇用されている従業員も潤い、雇用も増える。そして税金も余計取れるので国家財政も好転する、というアベノミクスの構図は、しかし一昔前の高度成長期のモデルであって、それが完全に失敗してしまった今日では、それこそ単なる幻想に過ぎないことが分かっていないのだ。そしていわゆる「リベラル派」もそれに対抗しうる理論や思想を持っていない。
 いま世界中で、資本主義経済の破綻が表面化し、その矛盾が噴出して、それに反抗しようとする人々の運動が爆発しつつあるが、その運動自体も何の理論的バックや展望もない自然発生的なものであるためにナショナリズムや宗教間の対立などによってつき動かされ、凄惨な殺し合いの場を生みだしつつある。
 社会に必要なものを人々の能力に応じた相互的分担労働によって生みだし、それを正当な根拠によって分配しながら生活を維持して行くという社会成立の基本条件が完全に失われてしまって、ただただ「商人的自由」のもとで資本家同士のエゴのぶつけ合いだけが世界を動かしているかのように見える。
 資本主義社会の基本理念である「自由と民主主義」の中身が問われているのだ。資本主義的「自由」とは商品売買の自由、つまり「商人的自由」であって、その前提には商品を「私有」する人がいなければならない。もちろん個人生活を営むためにそれに必要なものを消費するには私有されることが前提であるが、それら生活財を生みだしたり、社会全体にとって共通に必要となる社会的共通財の生産を、私有にもとづく資本家的企業が担うことから様々な矛盾が起きてくる。
 このような生活財の生産や、公共的な財をも私的企業が受け持って生みだすことによって、それを市場での競争を通じて実現させることとなり、競争に勝つためにそこに雇用された人々は過剰な労働と低賃金を受け入れさせられる。資本家的企業に雇用される人々は、生活財以外には何かを売ってもうけるためのものを何も持っていないので、自分の能力を労働力商品として企業に売りにだすことでしか生きることができないからだ。極端な言い方をすれば彼らは「賃金奴隷」なのである。
 こうして生産手段を私的に所有する人々が、それを使って「売るためのもの」つまり商品をつくるために労働力を「雇用」という形で買い入れる(いわゆる「就職戦線」を通じて)。だからそこに雇用されている労働者は、企業が資本家同士の競争に勝って、儲けがでなければ解雇される可能性につねに晒されている。決定的に弱者なのである。
 いまの「民主主義」では資本家と、その企業に雇用される労働者の間にあるこの決定的違いを完全に無視した「民」という概念で括っている。これはあきらかにまやかしであって、いまの「民主主義」とは資本家的民主主義のことである。労働者たちは雇用者とお金と契約で結ばれた対等な人格という見せかけのもとで、実は完全に支配される立場に立たされているのである。
 いま世界中でこうした資本家同士の激烈な競争が繰り広げられ、そこに雇用される労働者たちは自らの生活を護るために労働力をその道具として提供しいる。一部の大企業や金融企業の従業員は別として大多数の人々はいくら働いても生活が楽にならない。そればかりか日本では、経済活性化のためという名の下に、法人税や雇用法の改定で、企業に都合の良い環境が生みだされ、労働者は重税の下、ますます不安定で過酷な労働に耐えねばならなくなってきた。
 労働者たちが懸命に働いて生みだした企業の莫大な利益の大半は資本家同士の競争に勝つため企業買収などの資金に投じられる。
 一方で何も社会のために働くことをせず、株の売り買いなどで莫大な利益を上げている投資家たちは富裕化し、税金逃れに明け暮れる。
 こうして社会格差はどんどん増大する。日本でもアメリカでもヨーロッパでも、そして中国や韓国でも状況はほとんど同じである。
 いまや資本家同士の馬鹿げた無駄な競争のために酷使され、いらなくなればポイと捨てられるような人生の中で、ナショナリズムや宗教を振りかざして他国の労働者たちと闘うことの愚かしさに気づくべき時ではないのか。
 今一度マルクスのコトバを思い出してみよう。「万国の労働者、団結せよ!」

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