« 「リベラル派」の破綻がもたらしたもの | トップページ | 残業手当ゼロ政策の持つ意味を考える (その−2) »

2014年6月 2日 (月)

残業手当ゼロ政策の持つ意味を考える (その−1)

 安倍政権が推進しようとしている、専門技術者や頭脳労働者などの残業手当ゼロ方針について少し詳しく検討してみようと思う。

 まず資本論にも記されている、労働賃金の意味をもう一度見てみよう。150年前に資本主義社会の基本的な矛盾を解き明かしたマルクスの分析がいま不当に低くしか評価されていないか、あるいは無視されていることに異議を唱えたいからである。
 
<労働賃金とは?>
 どのような歴史上の社会においても、その社会を維持するために必要な労働はその社会の構成員が分担して行う。その場合、社会に必要なものを生みだす労働は、二つの部分に分かれる。一つは労働者自身の生活を生みだし、子孫を残すために必要な労働であり、もう一つは社会全体を維持するために必要なものを生み出す労働である。前者を必要労働と呼び、後者を剰余労働と呼べば、これらの労働が誰の支配の下でどのような形で成されているかが、その社会の歴史的な形態を決めているといえる。奴隷労働を除いて、多くの場合、労働者はこの必要労働と剰余労働の明確な区別が見えない状態で、同じ労働を一定の時間行っている。
 資本主義社会では、社会的に必要な生産を支配しているのは資本家階級であるが(これについても異議があるかもしれないがそのような異議には別のところで応えたいと思う)、そこでは生産手段(必要なものを生み出すための手段として用いられる機械や原材料など)は資本家企業が所有しており、そこに労働賃金を支払って労働者が雇用され、それらの生産手段を使わせられて商品が作られる。もちろんここでいう労働者の労働内容には単純労働も複雑労働もいわゆる頭脳労働も含まれる。その労働の結果生み出される商品は資本家のものであって、市場で売られることにより彼に利潤をもたらす。かれはその一部を私的生活のために消費するが、大部分を再び生産手段や労働力を買うために用いる。
 一方、賃金労働者は、労働力と交換に受け取った賃金によって生活資料を買い戻し、それによって自らの生活を営む。彼は日々自分の労働力を資本家に売り渡す(実際には日給や月給という形で)ことによってしか生活を維持することができない。ものづくり労働に限らずあらゆる社会的に必要な労働がこの形式をとっている。賃金はあたかも資本家と対等な立場で受け取る「報酬」という形に見えるが、資本家の場合と違って、労働者は生産手段を持たないので、賃金はその生活に最小限必要なものを買い戻すための費用であり、これなしには生きて行けない「必要経費」である。したがって労働者はこの先自分の生活を維持するためにつねにその労働力を売りに出さねばならない立場に置かれている。彼の労働はこうして完全に資本家に支配されている。
 人間が日々生活するには24時間のうちその1/3から1/4は睡眠や休息のための時間として、さらに1/4から1/5は生活行為に必要な時間として確保しなければならず、それらの残りが労働時間として資本家企業に提供される。企業での労働はさまざまな形を取るが、一日に一定の労働時間が費やされ、これを日労働と呼んでおこう。
 一般に日労働はそこから生み出される価値のふたつの部分を含んでいる、一つは労働者の生活を維持するために必要な生活資料の購入に当てられる価値部分、そしてそれを超えて行われる労働がもたらす剰余価値部分である。これは上で述べたように見かけ上は全く同じ内容の労働であり、ただその継続時間でのみ表示できる量である。 
いま、労働者が彼自身の労働において生み出す価値のうち、彼の生活に必要な生活資料に当たる価値部分を Vn とし、それを超えた剰余労働時間が生み出す価値部分を Vs としよう。Vs/Vn を剰余価値率といい、労働の搾取率を示す(なぜ「搾取」というのかは、次に述べる事実であきらかになるだろう)。現在の社会のような労働生産性の高い社会では、Vn部分を生み出すに必要な労働時間は数時間であり、しかも一日の労働時間は短くならないので、おそらくVs/Vnは1 つまり 100%を軽く超えるであろう。例えば、一日10時間の日労働であれば、そのうち労働者自身の生活資料を買い戻すに必要な価値部分は5時間以下であって、それを超えた時間である5時間以上は剰余労働時間となる。そしてその労働から生み出された成果(商品)にはこの両者が含まれている。
しかしその労働の成果は資本家が所有し市場で販売されることになる。一方、労働者が受け取る賃金は、彼自身が生活するに必要な資料の価値であり、これが労働力の日価値である。その賃金によって買い取られた労働力が支出する労働は労働力の日価値を超える剰余価値部分を資本家に無償で与えていることになる。労働力という商品は労働賃金つまり労働力の日価値で買い取られ、その使用価値の発揮である労働過程において、買い取られた価値以上の価値を生みだす商品なのである。
 この事実をいまの資本主義経済学(ケインズ経済学を含む)では完全に無視している。そしてまさにこのことが資本主義社会の存立基盤となっているのである。このことを頭に置いてさらにマルクスのいうことを聞いてみよう。
(次回に続く)

|

« 「リベラル派」の破綻がもたらしたもの | トップページ | 残業手当ゼロ政策の持つ意味を考える (その−2) »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/210651/59747210

この記事へのトラックバック一覧です: 残業手当ゼロ政策の持つ意味を考える (その−1):

« 「リベラル派」の破綻がもたらしたもの | トップページ | 残業手当ゼロ政策の持つ意味を考える (その−2) »