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2014年8月 6日 (水)

広島69年目の夏

今年も広島の原爆死没者慰霊式が行われた。

 この様子を毎年TVで観ているが、いつも思うことは広島市長のスピーチと首相のそれとの著しい温度差だ。ことしは特にそれが際立った。
 松井広島市長は原爆被爆地の立場として核兵器使用を廃絶に向けて国際的な違法行為とすべく努力していることを述べ、その思想として原爆投下をきっかけとしていかに平和が重要であり、互いに武力をもって争いを解決しようとしたり、国家間の軋轢を強めたりすることは戦争につながる行為であり、断じて行うべきではないと明言した。そして原爆の尊い犠牲と戦争の悲劇を経てはじめて獲得した憲法の重さを考えるべきであるという主旨のスピーチを行った。これは安倍首相の政策を本人が着席している目の前でズバリと批判したものだと私には思えた。
 それに対して安倍首相のスピーチでは、自分が核兵器廃絶に向けてさまざまな国際的な努力を行ってきたことを「アリバイ」的に述べたに過ぎなかった。しかし、これを聞いた人たちはおそらく私と同様に、その内容の空虚さを感じたであろう。言うことと実際やっていることとの落差があまりにも大きいからだ。
 かつてオバマ大統領が就任当初、プラハで行った核兵器廃絶に向けたスピーチは少なからずわれわれを感動させた。しかしオバマもその後、それを強力に推進しているようには見えないし、広島を訪れたこともない。むしろ世界情勢は中東やアフリカなどでの戦乱や大量殺戮を拡大させている。われわれはもはや「リベラル派」を信じられなくなった。
 一方で安倍首相はその「積極的平和主義」の主張において、集団的自衛権は戦争を抑止し、むしろ戦争を起こさないために必要だと述べている。ならば聞こう、これまでの歴史の中で、軍事力の増強や武力行使の可能性を拡大することが本当に戦争を抑止してきたと言えるのか? そのことが首相の言う「核兵器廃絶」とどう関係するのか?
 20世紀後半の東西冷戦下では究極の状態まで核戦力の増大が行われたが、結果両陣営間でそのバカバカしい国家予算の浪費と、それによる「ボタン戦争」への危機の増大とそれによる人類全体が危機に陥る可能性の増大が、両陣営での核兵器削減に踏み切らせることとなったと考えられている。これを以て互いの武力の増強が相手に戦争を起こそうという気をなくさせた例だと言えるのか? 
 それは違う。事実は、東西冷戦下で起きていた核兵器増強競争が、その一方の当事者である東側陣営が戦争によらずにその体制を崩壊させたことによって非現実的になったのである。
 歴史は語っている。際限のない武力増大競争は、いつか必ず戦争を勃発させる。当事者双方ともが、「国を護るため」に戦争を始めたと主張し、いったん戦端が切られた後には、互いに殺し合いによる憎悪の拡大に歯止めが掛からなくなり、全面戦争に突入する。
そして広島・長崎に原爆が投下された。自ら戦争を起こした当事者ではない生活者たちが無差別に大量に殺戮されたのである。この当時の政府の責任を安倍首相はどう継承しようというのだろうか? その重い問いに応えることなく国家間の緊張を高めようとする安倍首相の指向が、広島でのスピーチの空虚さとなって現れているのだ。

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