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2014年6月1日 - 2014年6月7日

2014年6月 4日 (水)

残業手当ゼロ政策の持つ意味を考える (その−3)

それでは、いま焦点となっている「残業代ゼロ出来高払い賃金制」について考えてみよう。

 労働者個々の能力の差によって、ある者は与えられた時間に少ない量の生産物を供給し、ある者はより多くの生産物を供給することになるが、工場(企業)での仕事全体でみれば、それは平均化された生産量を供給することになる。

 しかし、出来高払い賃金制では、個々の労働者の賃金が異なることになる。出来高払いでは、一方で労働時間に対する個人の自由や、働き方の自由などが生じるが、他方では、労働者間の競争が激しくなり、個々の賃金を平均以上に高める傾向をしめすことになるだろう。

 しかし、全体として見れば、賃金の平均を下げることになる。なぜなら、出来高払いの賃金の算出根拠は、時間賃金のそれと同じで、日労働の価値=日労働力の価値 として決められているからである。一日の労働力を維持するに必要な生活資料の価格が日労働力の価値であり、これが、ある一定の剰余価値率のもとで決められている以上、日労働力の価値+剰余価値=労働賃金 は一定である。

 要するに、出来高払い制は、実質的な労働強度の増大を招き、労働者自身が競争しあってこれを行うことになるのであって、これを資本家は「労働生産性の向上」と呼ぶが、その内実は、同じ賃金システムにおける労働強化の手法なのである。

 日本の労働者の労働生産性が低いのは、仕事をダラダラとやり、残業時間まで食い込むことが常態化されているからだ、とする日本の資本家たち、およびその代表政権の指導者たちは、 出来高払い制を取ることにより、残業が減り、労働生産性が高くなるという。

 しかし、現実には、残業代ゼロ、出来高払い制にしても残業は減らないだろう。なぜなら、「出来高」の決まりがあるわけでなく、出来高を示すノルマはいつのまにか引き上げられ、これまでの標準時間内でもこなしきれない内容になっていくだろうから。

 たとえ、年収1000万以上の高額賃金者(こんな人たちが一体日本に何人いるのだろう?)や最先端の仕事(社会にとって何の貢献もしていない株の売り買いでぼろ儲けするトレーダーもこれに入るらしい!)と限定しても、そのような立場にある人たちの多くは、その日のノルマを果たせば家に帰って休んだりはしないだろう。時間賃金制の部下たちに対して範をたれるために自らノルマを引き上げ、長い時間働き、そして全体的結果として雇用者である資本家が取得する剰余価値が増大する方向に向かわせようとするだろうから。

 よく考えて欲しい、資本家たちは取得する剰余価値の量を、自ら進んで減らそうとすることなどあり得ない。まして激化するグローバル市場での競争に勝つために、その剰余価値量を減らすことなく、商品の価格を下げねばならない現状では、それは賃金を抑え、そこにおける労働力の価値部分をできうる限り減らすことでしか成しえないのだから。

 さらに労働生産性の向上が、出来高払い制に何をもたらすかをみよう。マルクスはいう「労働生産性の変化に応じて、同じ量の生産物が様々な労働時間を表す。であるから出来高払い賃金もまた変化する。なぜなら、それが決められた労働時間の貨幣表現だからである。前に示した我々の例では、12時間に24個の品物が生産され、一方、12時間の生産物の価値は6シリングであった。労働力の日価値は3シリングで、一労働時間の価格は3ペンス、品物1個当たりの賃金は1 1/2ペンスであった。1個には半時間の労働が吸収されていた。今、もし同じ労働日の労働生産性が2倍になったことで、24個に代って48個を供給するとしたら、他の状況が不変であるとすれば、かくて1個あたりの出来高払い賃金は1 1/2ペンスから 3/4ペンスに下落する。あらゆる品物が、今では、1/2労働時間に代って単に1/4労働時間を表すのであるから。24個×1 1/2ペンス=3シリングが、今では48×3/4ペンス=3シリングなのだから。別の言葉で云えば、同一時間で生産される個数が増える割合に応じて、出来高払い賃金は引き下げられるから。」

 たしかに「残業代ゼロ出来高払い制」は資本家にとっては労働者の「合理的」な雇用形態であろう。それはその同じ意味で、労働者にとっては不合理で非人間的な雇用形態であるということだ。

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残業手当ゼロ政策の持つ意味を考える (その−2)

 これらについては、資本論第一巻「資本の生産過程」 第六篇「賃金」を読んでいただけば分かる。(資本論に関してはわざわざ書店でお金を出して買うよりもインターネット上にアップロードされた、英語版からの宮崎氏による和訳本をお勧めする。URL: http://www.marxistsfr.org/nihon/index.htm) マルクスがそこで言っていることの要点をまとめれば、以下の様になる。

*労働力の価値は、平均的労働者が習慣的に必要とする生活必需品の価値によって決められる。これらの必需品の量はある与えられた時代の与えられた社会によって知られ、それゆえ、一定の大きさとして扱われることができる。

*そしてその価値量が日労働においてある一定時間費やされた労働によって生み出されるとすれば、残りの日労働で支出される労働はすべて新たに生み出された価値として無償で資本家(企業)の手に渡る。

*この労働力の価値が労働賃金として、つまり労働力の価格として表れるためには、さまざまな形を想定しなければならない。マルクスはそれを以下の3つの要素の組み合わせによると指摘している: (1)労働日(一日における労働時間)の長さ、(2)労働強度、(3)労働生産性。

*そしてマルクスは、それをさらに、(i)労働日の長さと労働強度が一定で、労働生産性が変化する場合、(ii)労働日が一定、労働生産性が一定で、労働の強度が変化する場合、(iii)労働生産性と、労働強度が一定で、労働日の長さが変化する場合、(iv)労働日の長さ、生産性そして労働の強度における同時的な変化、という4つの場合について分析している。

 ここでは原典を見て頂くことを前提に、その詳細には立ち入らないことにして、表題である「安倍残業手当ゼロ政策」に絞ってこのことを検討してみよう。 

 マルクスの時代、「労働者」といえばほとんどが工場で働く、いわゆる「肉体労働者」を意味していたのだが、今日では、特に日本などの高度に発達した資本主義社会ではその大半は事務所で働く「頭脳労働者」である。この違いについては後述するが、本質的には同じ賃労働者の立場であるといえる。まずこのことを頭に置いておいていただきたい。

 マルクスは次のように言っている。「労働者が受け取る彼の日または週の労働の貨幣総額が、彼の名目賃金額となる。または、彼の、価値として評価された賃金となる。しかし、労働日の長さ、彼が現実の日労働量として提供した量に応じてと云うことは明らかなことで、同額の日または週賃金は労働の価格(実質賃金---引用者註)とは全く違ってくる。つまりは、同じ労働量に対して貨幣額は全く違ってくる。」 さらに、「労働の平均価格は、平均日労働力価値を、労働日の平均時間数で割れば見つけられる。もし、つまり、日労働力の価値が3シリングで、6時間の生産物の価値であり、そして労働日が12時間であるとすれば、1労働時間の価格は 3/12シリング=3ペンスとなる。このようにして見つけられた労働時間の価格は労働の価格を表す尺度の単位としての役割を果たす。」

 いわゆる「時給」である。剰余価値率が一定であり、時給が一定である場合に、日労働時間が短縮された場合どうなるか。その結果は剰余価値量も労働賃金の額も減る。したがって資本家が搾取する価値量も減るが、労働者は事実上、日々の生活に必要な労働賃金が得られなくなる。したがって他に不足した生活費を補填するための労働が必要となる。
 剰余価値率が一定で、1労働時間の価格(時給)が同じであれば、日労働時間が増えた場合、剰余価値量も労働賃金も増える。しかし、標準労働日を超えて行う労働では、加速度的に労働力の消耗が激しくなり、超過労働に対する通常の割増金ではそれを補填しきれなくなる。労働者の生活時間はなくなり、肉体も精神も疲弊する。これが続けば見かけ上の労働賃金が上がっても、やがては労働者は過労死するだろう。
 いま一人の優秀な労働者がいて、平均的労働者の1.5倍の仕事をこなす場合、それは同じ時間内に支出された労働量が増大したこととなり、労働賃金が変わらなければ、より少ない労働力で同じ労働量が供給できることになるため、労働力の社会的キャパシティーが大きくなったことになり、労働市場での労働力商品同士の競争が激しくなる。そしてこのことが労働賃金の低下を招くことになる。
 資本家は剰余価値の増大を目指し、安くなった労働力でさらなる労働時間の延長を図ることになるだろう。
 その結果、資本家は商品価値に含まれる労働賃金分を超えた剰余価値部分をより多く取得することになるが、一方で商品市場での競争に勝つため、その増加した剰余価値部分の一部を切り詰めて商品価値を下げる。そして商品の異常な低価格化が進み、それが常態となる。
 やがて生活資料商品の値下がり分に応じて労働賃金も低下することになる。こうして一方で資本家は取得する剰余価値量を維持あるいは増大させながら、同時に他方で労働者の長時間労働と低賃金化が推進される。
(続く)

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2014年6月 2日 (月)

残業手当ゼロ政策の持つ意味を考える (その−1)

 安倍政権が推進しようとしている、専門技術者や頭脳労働者などの残業手当ゼロ方針について少し詳しく検討してみようと思う。

 まず資本論にも記されている、労働賃金の意味をもう一度見てみよう。150年前に資本主義社会の基本的な矛盾を解き明かしたマルクスの分析がいま不当に低くしか評価されていないか、あるいは無視されていることに異議を唱えたいからである。
 
<労働賃金とは?>
 どのような歴史上の社会においても、その社会を維持するために必要な労働はその社会の構成員が分担して行う。その場合、社会に必要なものを生みだす労働は、二つの部分に分かれる。一つは労働者自身の生活を生みだし、子孫を残すために必要な労働であり、もう一つは社会全体を維持するために必要なものを生み出す労働である。前者を必要労働と呼び、後者を剰余労働と呼べば、これらの労働が誰の支配の下でどのような形で成されているかが、その社会の歴史的な形態を決めているといえる。奴隷労働を除いて、多くの場合、労働者はこの必要労働と剰余労働の明確な区別が見えない状態で、同じ労働を一定の時間行っている。
 資本主義社会では、社会的に必要な生産を支配しているのは資本家階級であるが(これについても異議があるかもしれないがそのような異議には別のところで応えたいと思う)、そこでは生産手段(必要なものを生み出すための手段として用いられる機械や原材料など)は資本家企業が所有しており、そこに労働賃金を支払って労働者が雇用され、それらの生産手段を使わせられて商品が作られる。もちろんここでいう労働者の労働内容には単純労働も複雑労働もいわゆる頭脳労働も含まれる。その労働の結果生み出される商品は資本家のものであって、市場で売られることにより彼に利潤をもたらす。かれはその一部を私的生活のために消費するが、大部分を再び生産手段や労働力を買うために用いる。
 一方、賃金労働者は、労働力と交換に受け取った賃金によって生活資料を買い戻し、それによって自らの生活を営む。彼は日々自分の労働力を資本家に売り渡す(実際には日給や月給という形で)ことによってしか生活を維持することができない。ものづくり労働に限らずあらゆる社会的に必要な労働がこの形式をとっている。賃金はあたかも資本家と対等な立場で受け取る「報酬」という形に見えるが、資本家の場合と違って、労働者は生産手段を持たないので、賃金はその生活に最小限必要なものを買い戻すための費用であり、これなしには生きて行けない「必要経費」である。したがって労働者はこの先自分の生活を維持するためにつねにその労働力を売りに出さねばならない立場に置かれている。彼の労働はこうして完全に資本家に支配されている。
 人間が日々生活するには24時間のうちその1/3から1/4は睡眠や休息のための時間として、さらに1/4から1/5は生活行為に必要な時間として確保しなければならず、それらの残りが労働時間として資本家企業に提供される。企業での労働はさまざまな形を取るが、一日に一定の労働時間が費やされ、これを日労働と呼んでおこう。
 一般に日労働はそこから生み出される価値のふたつの部分を含んでいる、一つは労働者の生活を維持するために必要な生活資料の購入に当てられる価値部分、そしてそれを超えて行われる労働がもたらす剰余価値部分である。これは上で述べたように見かけ上は全く同じ内容の労働であり、ただその継続時間でのみ表示できる量である。 
いま、労働者が彼自身の労働において生み出す価値のうち、彼の生活に必要な生活資料に当たる価値部分を Vn とし、それを超えた剰余労働時間が生み出す価値部分を Vs としよう。Vs/Vn を剰余価値率といい、労働の搾取率を示す(なぜ「搾取」というのかは、次に述べる事実であきらかになるだろう)。現在の社会のような労働生産性の高い社会では、Vn部分を生み出すに必要な労働時間は数時間であり、しかも一日の労働時間は短くならないので、おそらくVs/Vnは1 つまり 100%を軽く超えるであろう。例えば、一日10時間の日労働であれば、そのうち労働者自身の生活資料を買い戻すに必要な価値部分は5時間以下であって、それを超えた時間である5時間以上は剰余労働時間となる。そしてその労働から生み出された成果(商品)にはこの両者が含まれている。
しかしその労働の成果は資本家が所有し市場で販売されることになる。一方、労働者が受け取る賃金は、彼自身が生活するに必要な資料の価値であり、これが労働力の日価値である。その賃金によって買い取られた労働力が支出する労働は労働力の日価値を超える剰余価値部分を資本家に無償で与えていることになる。労働力という商品は労働賃金つまり労働力の日価値で買い取られ、その使用価値の発揮である労働過程において、買い取られた価値以上の価値を生みだす商品なのである。
 この事実をいまの資本主義経済学(ケインズ経済学を含む)では完全に無視している。そしてまさにこのことが資本主義社会の存立基盤となっているのである。このことを頭に置いてさらにマルクスのいうことを聞いてみよう。
(次回に続く)

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