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2014年6月15日 - 2014年6月21日

2014年6月18日 (水)

産業界に奉仕する大学とそれがもたらす危機

 強引な安倍カラーへ社会全体の染め上げに懸命な現政権は、どんどん危険な法案を通過させつつあるが、今度は大学でのものごとの決め方を「改革」しようという法案が通りそうだ。

 これまで教授会が人事や学科の基本方針などを含めて重要事項を審議して決める役割を果たしてきたが、これが効率が悪く、さっぱり決めごとが決まらない、という理由で、これを効率よく決めてゆくために、学長に大きな権限を与え、教授会は単なる学長の諮問機関にするという案である。もちろんこの背景には、「大学の国際競争力」を付けるという安倍政権の意図がある。競争に勝つためには、大学運営も企業並みのトップダウンにして効率化をしようというわけだ。
 こうした形は実はすでに1990年代から始まっており、私が一時在籍した国立の大学院大学ではこれを先取りしていた。文科省はその頃からこの形を一般化しようとしていたのである。
 このシステムでは、学長から諮問事項が降りてきて、それに異議がないかどうかを教授会で審議するだけである。あっというまに教授会は終わってしまう。教授一人一人の大学運営に対する参加度は著しく減り、それに反比例して研究教育への時間が増える、というわけだ。管理業務が減って研究時間が増えるので良いとする教授連が大半であったが、私はやはり疑問に感じた。最初からこうしたシステムを取り入れていたこの文科省モデル大学では、当然のことながら、産業界との連携が最重要視され、大学での研究成果を産業界に役立たせることが大学の存立意義とされていた。したがって研究組織や教員の配置などもこれを軸に行われた。いわく最先端の研究成果を産業界に結びつけ、当然それと同時に企業からの資金的サポートも積極的に受けるというのである。
 そして一方では文科省は2000年代初め頃から大学を独立行政法人化し、研究資金を外部から稼ぎ出させることを推進しつつあった。また文科省の研究予算は「競争的資金」として科研費などの応募と審査を通じて重点配分的に付けられるようになっていった。そのためあまり産業界と関係のない地味な研究をしている研究室では著しく研究費が減少した。
 こうして、私立大学はもちろんのこと、国立大学も、産業界への奉仕という姿勢が鮮明になっていったのである。しかし、その結果、大学での研究は、確かに「世界レベルの研究」が増えたように見え、ノーベル省受賞者も増えたように見えるが、それと同時に、製薬会社の要請でデータを都合良く改ざんした研究などが出現したり、大学ではないが、理化学研究所でのSTAP細胞事件などのような研究機関のあり方そのものが問われる事態が出てきている。
 産業界は大学への研究委託を通じてあくまで個々の企業での利益や競争力をつけることが眼目であって、社会全体への関心や配慮は言い訳程度にしか扱われない。
 一方では、いま産業界主導のもとで社会全体が陥っている病弊をあきらかにして、その矛盾の根拠を徹底的に分析し、これからの社会全体の方向を見つけ出そうとする批判的な研究は陰を潜めているように見える。
 学会での論文数は増えるが、そのほとんどが産業界に役立つことに主力が置かれているように思える。研究者には失礼かも知れないが、社会にとってもっとも必要な研究がおろそかにされているように思えて仕方ない。
 例えば、資本主義社会の現状のどうしようもない行き詰まり状態の中で、一方では、無駄な消費を促進するとしか言いようのない「イノベーション」や「付加価値」を目指す研究が「若者に元気を与える」研究として持ち上げられ、他方では、まともに現代社会の「どうしようもない状態」に疑問を感じる人たちによる資本論の再研究のような流れは勢いがないように見える。
 かつては東大の社会科学研究所での宇野弘蔵のマルクス経済学研究など、非常に重要な研究が大学でなされていた。この遺産を受け継ぎ、いまの資本主義社会のどうしようもない行き詰まり状態を突破しようとする世界的に見ても非常に重要と思われる研究などはおそらくまったく研究予算が付かないであろう。
 残念ながら、いまの「アベノミクス」と安倍イズムの強引な推進に対するキチンとした理論的反撃ができないまま進めば、この社会はいずれ破滅的な崩壊の危機に直面するに違いないと思う。単なる感情論では決してこの流れに打ち勝つことはできないだろう。
 とりわけ、いまの若い研究者たちにそのことを分かってもらいたい。

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2014年6月15日 (日)

閑話休題:ズレてるおじさんのつぶやき

 さいきん、「だから日本はズレている」という本がバカ売れなのだそうだ。私はまだ読んでないが、今朝の朝日新聞に精神科医の斉藤環先生が書評を書いていた。

それによると、「おじさん」は「今いる場所を疑わなくなった人」なのだそうだ。そして「おじさん」は年齢や性別に無関係に存在するのだそうだ。なるほど。たしかに「おじさん」してる女子高生なんかいるもんな。
 するてえと、私なんぞは、さしずめ典型的「本来のおじさん」なんだな、きっと。それにしても「今いる場所を疑わなくなった人」てえのはどういう意味なんだ?
 べつに今いる自分の立ち位置を疑うこともなかったし、疑う必要もなかった。だってジタバタしてみても自分以外の自分になんかなれるはずもないのだから。
 問題は「最近のわかいもんは」という口調で、自分が若かったときのことを棚に上げていろいろご意見を言いたがるおじさんが多いということか? 
 でもね、こういうおじさんはきっと心のどこかで、もいちど若くなれたらなあ、なんて思ってるのさ。ある種の若者へのひがみが裏返しの形で出てくるのさ。
 「おじさん」してる女子高生は別として、本物のおじさんは自分が生きてきた日々を「無駄ではなかった」と思いたいだけなのさ。だって自分がなんのために生きてきたのか分からないまま死んじまうのなんかイヤだもんね。わかるだろ?
 いまの「日本がズレてる」と感じるのはその人がズレてないってことさ。そう、君たちわかいもんの言うように、おじさんたちがやってきたことの結果がいまの日本なのさ。そういう意味で、おじさんたちは自分の人生を正当化しようとする一方で、こんなはずじゃなかったが、という思いも感じてるのさ。こりあ、けっこう辛いんよ。
 いまの若いもんには、おじさんたちを踏み越えて行ってほしいんよ。でもね、間違っても変な安っぽい希望なんかを持ってはいけないよ。本当の希望なんてそうやすやす口になんかできるもんじゃない。いまの自分の生活に満足なのはいいが、そのことが他人や外国の人たちを犠牲にしていることにも気づかなきゃだめだよ。
 ズレてズレてズレまくった挙げ句に、「自分の生きている意味って何なんだろう?」と思い当たるとき、そのときこそ、希望ってものが欲しくなるんさ。
 まあ遅かれ早かれここ10年位の間にこの世におさらばしなけりゃならないおじさんがいうことも何かしら君たちの足しにはなるかもね、いやなって欲しいね。

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