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2014年8月31日 - 2014年9月6日

2014年9月 4日 (木)

朝日新聞バッシングの背景(その1)

 このところ、慰安婦問題に関する朝日新聞の記事の内容が間違っていたことと、それに対する謝罪が遅れたことなどをきっかけに、各マスコミの朝日バッシングが激しい。

 もちろん正しい事実を伝えることがマスコミの使命であるのだから、朝日が間違いをキチンと正し、謝罪をするべきであることは当然であるし、池上氏の朝日連載記事でこれを怠っていたことへの批判を掲載拒否するなどはもってのほかであるが、こうした朝日を叩く側の酷さはさらに目に余るものがある。
 そのバッシングの内容は各誌様々であるが、おおむね一致しているのは「売国奴」とか「国辱」いう罵りのコトバに象徴される雰囲気である。
 これを「右翼ナショナリズム」と言ってしまうのは簡単だが、むしろこうした雰囲気の記事や見出しが各誌の売れ行きを伸ばしているという事実の方が恐ろしい。「ヘイトスピーチ」の横行や、マスコミ各誌の中国や韓国への悪感情を煽り立てる過激なコトバの氾濫は、それを受け入れる読者の多さを想像すると空恐ろしい。ついにまたこんな世の中になってしまったのかと感じる。
 感情的ナショナリズムの扇動は、その先に何が待っているのか、われわれ戦争を知る老人世代はよく知っている。
 われわれの国はかつて、自ら引き起こした戦争で多くの周辺諸国や自国の人々の命を奪い、その挙げ句敗戦した。この事実は決して忘れるべきではない。そのコンテクストの中で慰安婦問題などを考えなければならない。「どこの国でもやってるでしょう」的な感覚はたとえそれが事実であったとしても戦争で日本軍に蹂躙された国々の人たちの感情を逆なでするのは当然だ。たとえ、元慰安婦の人たちの要求が「あこぎな要求」と感じられても、そのことを踏まえて対応しなければ物事は前に進まないだろう。
 「報道の自由」を看板とするなら、その報道の質と内容がもつ社会的・国際的責任を考えるのがマスコミの使命ではないのか?週間文春、SAPIO、週間新潮などの見出しはそうした思慮が何も感じられない。多分その背後には「売れる記事が必要」というコマーシャリズム的要求とその背後にうごめく支配階級のおそるべき思惑があるのだろう。
戦争への反省をこめた歴史観を「自虐史観」といい、植民地的支配の実態を隠蔽した大東亜共栄論を正当化し、「ニッポンを取り戻す」というが、われわれは決してそんなニッポンを取り戻したいのではない。
 排他的愛国心はどんどんエスカレートすれば、行き着く先は、あの「イスラム国」のように他宗派への残忍極まりない殺戮行為を正当化する意識にさえつながるといえる。
 たしかに「リベラル派」を自認する朝日の態度にはいろいろ疑問を感じることが多いが、少なくとも、言論の自由にかさをきた醜いナショナリズム扇動思想とは一線を画する姿勢だと思う。
 もう一度言おう、われわれの国は自ら引き起こした戦争で自国や周辺諸国の人々から数百万もの人生や生命を奪ったのである。このことを決して忘れるべきではない。このことを棚に上げて「ニッポンを取り戻す」などと決していうべきではない。
(その2へ続く)

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2014年9月 3日 (水)

国家予算101兆円のツケは誰に回ってくるのか?

 安倍政権は経済界では受けが良く、アベノミクスで株価は上がり、企業の業績はよくなったそうだ。そして従業員の給与も上がったそうだ。安倍政権に批判的で「リベラル派」と言われている朝日新聞なども、物価の上昇と消費税増額で給与の上昇分が消えてなくなっているという事実を指摘しながらも、基本的にはこれらの点で現政権を支持しているように見える。

 だがしかし、そう、「だがしかし」なのだ。
国家予算が史上最高値の101兆円を計上した。中でも防衛費の増加は目を見張るものがある。資本家を元気づける「成長戦略」のためにどんどん国家予算をつぎ込み、足りなくなった分を借金で補うために国債をどんどん発行して日銀がそれを買い支え、一方で日銀はどんどんお金を発行して資本の回転を加速させている。つまり貨幣や信用という形の資本を見かけ上どんどん増やし、それを日銀が買い支えることでその虚偽の価値を「保証」させる。
 世界はいまやナショナリズムと戦争の危機をどんどん増大させている。この貨幣や信用という形での資本の価値は、国際情勢如何であっという間に下落することは目に見えている。そもそも初めからそれは見せかけの価値なのだから。
 そしてそうなれば、あっという間にアベノミクスは崩壊するだろう。そのとき、そのツケは誰に回ってくるのか?
 もちろんわれわれ「国民」にである。インドに数兆円もの支援を約束し、中国の囲い込みに懸命になっている現政権は、一方で「ドアはいつでも開いている」と言いながら少しも戦争回避への外交的努力をせず、ナショナリズムを煽り、防衛費と称する戦争経費を増大させ、集団安保体制を推進させ、戦争の危機を増大させているようだ。インドとの経済的結びつきには日本の資本家たちが、巨大な市場と安い労働力の確保が見込まれると大喜びしているが、それが一方で国内の労働者階級を危機に陥れ、対外的には戦争への危機を増大させていることはだれも口にしない。
 国内の状況を見れば、一流企業の業績が上がり、不況時代の採用抑制がたたって、中間管理層が欠落していることへの危機感もあって就職戦線では学生側の売り手市場なのだそうだ。
 しかし、これもよく見ると、売り手市場の大学は超エリート大学といわれる入学生の偏差値が高い大学での話であって、フツーの大学ではそうはいかないようだ。「有能な人材」の獲得競争なのである。そしてフツーの大学にいる学生や、経済的理由で大学にも入れず、浮遊している若者にとっては少しも状況はよくなっていない。製造業を初めとする社会に必要な労働力は労働賃金の安い海外に求められ、流通や建設などの業種での「人手不足」は海外からの労働力で供給されたり、非正規雇用労働者が劣悪な労働環境で労働者が働かされているのが現状である。言い換えれば国内では社会的に必要な部門においてつねに低賃金労働者の存在が維持されているのである。
 いうなれば若者が社会に旅立つ際に、企業にとって「有能」であるか否かによって振り分けられ、そこでエリート層と貧困層は振り分けられる。そしてエリートたちはやがてこの国の支配階級となり、貧困層は被支配階級になっていく。この連鎖はそこまでも続いて行くように見える。
 いま子供の貧困が深刻である。就職できない親たちのもとで生活苦に呵まれ、一日1食〜2食の貧しい食事しか与えられないような子供がどんどん増えている。
 そういう人たちに、この膨大で馬鹿げた国家予算を組み資本家やエリートたちにとってのみの「経済成長」を生み出そうとするアベノミクスのツケが回ってくるのである。
資本家的企業にとって「有能でない」人々も、どうどうと社会を支える労働に就くことができる世の中を作らねば、われわれの未来はないだろう。「リベラル派」的思想では、到底こうした世の中の矛盾は解決できないだろう。

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2014年8月31日 (日)

帰属意識を通して現れる支配的階級の思想(その2 企業での縮図)

 ここで、近代的国家の縮図である資本家的企業における帰属意識について考えてみよう。

 いまわれわれは資本主義体制の国に生きていることは誰しも認めるだろう。また、資本主義体制はマルクス時代とは大きく変化していることも事実である。
 例えば、資本家のイメージはかつての様な個人としての金持ち企業経営者のイメージから大きく外れ、企業への資金を投資した株主たちがその支配権を持ち、経営者は、いわば機能資本家としての役割を果たすに過ぎなくなってる。ある程度のお金を所有する人たちなら誰でも「成長」が見込まれる企業に投資して、そこから上がる利益の一部にあずかれるという仕組みである。だから誰が資本家なのか分かりにくくなっている。しかしはっきりしていることは、株主など投資家にとってその企業が何を作り、何を生み出しているのかについてはほとんど関心がなく、ただ「いかに儲かるか」だけが問題なのである。そうした人々が世の中を実質的に支配しているのである。
 経営陣は、株主の意向に添ってその企業の経営の舵取りを任され、いくつかの職種に分業化され、全体を取り仕切るCEOが意志決定を行うのである。それは企業経営に関する本来の資本家の役割をいくつかの分業体制でこなす方式である。そしてそれらを本当に支配するのは株主たちである。いわばお金を持った人々による「民主的経営」とも見えるこの巧妙な支配構造が今日の資本主義社会を「自由で平等な社会」に見せているのである。
 一方労働者たちは、就職という形で、自分の能力(労働力)を賃金と引き換えに企業に売り渡す。その労働力を買った企業はそれを資本の生産・増殖のために「自由に」効率よく利用しようとする。かつて日本では、労働者(候補も含めて)がある企業に就職すると、社訓や研修会などでその企業の一員としての意識を刷り込まされる。そして「全社一体となってこの厳しい競争を乗り越えよう」という号令のもとで企業への帰属意識(愛社精神)をタタキ込まれていた。
 こうして、一方では企業も経営陣は機能別に分業化され、そこで働く労働者たちは、企業的に合理化された労働の分割によって分業化され、経営陣による支配的イデオロギーによって「社員」として心身ともに一体化される。
  経営者たちは互いに市場での激しい競争の中でいかに利益をあげるかを常に考え、そのためにその運営や組織はつねに「合理化」される。
 この企業間戦争では、兵士は労働者たちであって、指揮官は経営陣である。しかし国家の場合と違ってこれは「幻想共同体」ではなく「実践共同体」なのである。国家の場合とは異なり目標はただ一つ、競争に勝って利益を上げることである。だからその手段として雇用された労働者は、経営陣の舵取りの失敗などで経営が苦しくなると「苦渋の決断」とかいわれて容赦なくクビにされるのである。
 最近は、労働者が「自由に」職を変えたり、選んだりできるように(つまり労働力の流動化をはかるため)、という名目で、終身雇用制が崩れ、いわゆる非正規雇用がどんどん増えている。だから、クビになっても新たな職場に移ればよいとされる反面、被支配階級としての労働者を保護する法律は有名無実化されている。
 そのためかつてのような「愛社精神」は陰が薄くなってきた。そして「能力のある者」は自由に職場を変え渡り歩くことでリッチになれるが、「能力のない者」はそれ相応な低賃金労働や長時間労働に耐えねばならず、貧困から抜け出せない。そしてそれを「自由社会」の必然とみなす思想が覆い被さってきている。
 だから社会の格差が拡がり、一方ではリッチな人々がますますリッチになり、他方では貧困層が増加しているのだ。
 資本はかってのような「社会主義圏」という非資本主義的社会の存在による歯止めがかからなくなり、いまや地球上のすべての地域に低賃金労働と有効資源をもとめて動き回る。そしてそこから生まれる莫大な富は、ますますリッチな人々の手に落ちていく。
 貧困にあえぐ非正規雇用労働者たちは、その中で、終身雇用を含めた正規雇用労働者たちとは全く違う意識を持ち始めているに違いない。企業への帰属意識は毛頭なくなり、自分という個人の世界のみがある。そして会社のために働くのではなく、いわばアトム化したバラバラな個人として、自分自身の生活のために働くのだという意識が強くなっているに違いない。しかしバラバラな個人としてはますます過酷で賃金の低い仕事に甘んじるしかなく、貧困から逃れるすべがない。
 これはむしろ本来的な労働者の意識の再生でもある。そこから見る視点では、アジアやアフリカで強大なグローバル資本によって支配され労働を搾取されている絶対多数の労働者たちの姿がリアルに浮かび上がって来るだろう。労働内容こそ違っていても、基本的には資本に支配された同じ立場の人々なのだから。
 彼らにとっては「競争に勝つべき企業」も「守るべき国家」もない。ただ他の国々の労働者たちとともに手を取り合って自らの生命と人間的な生活への権利を主張をすることにしか、生きのびる方向が見えないはずだからである。

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