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2014年9月7日 - 2014年9月13日

2014年9月12日 (金)

朝日新聞バッシングの背景(その2)

前にこの問題についてこのブログで書いたときには「吉田調書」の問題はまだブレークしていなかった。しかし、昨日、朝日新聞社長が、吉田調書の内容についての誤報と慰安婦問題での情報源のミスについて謝罪した。どのマスコミもこれをトップニュースに上げている。

 確かに「吉田調書」のスクープは社会的影響が大きかったので、その内容についての伝え方が正しくなかったというのは大問題である。しかし、皮肉なことに、それまで「吉田調書」の公開をはばかっていた政府がこれを機に、その公開に踏み切らせたことは「成果」かもしれない。
 問題は、この朝日の失態を機に、朝日への世間の信頼感が薄れ、反原発運動や「歴機認識」問題への世間の見方が少しづつ変わり、政府が望む方向に傾いていくのではないかという危惧である。
 例えば、今回の朝日吉田調書記事問題への「批判」の代表的なものとしてNEWSポストセブンに掲載された門田隆将氏の発言では、
木村伊量社長の会見を見て、私は「時代の転換点」を強く意識せざるを得なかった。9月11日は、日本のジャーナリズムにとって「歴史的な日」として長く記憶されることになるのではないだろうか。
 朝日新聞の「吉田調書」報道は、これまで同紙が「従軍慰安婦」報道でも繰り返してきた典型的な手法によるものだった。情報を独占し、朝日独特の主張、イデオロギーによってそれを加工し、大衆に下げ渡していくという構図である。
 朝日のイデオロギーを彼らは「リベラル」と主張するが、私は、単に「反日」に過ぎないと思っている。朝日新聞は、慰安婦報道で、日本人が朝鮮人女性を拉致・監禁・強姦した民族であるという、事実に基づかない「強制連行報道」を流布し続けた。だが、大衆はもはやそれが「真実ではない」ことを知っている>
と述べている。つまり朝日が「反日」のイデオロギーをまき散らしているという批判である。
 こうした「批判」に呼応するかのごとく、昨日のNHKニュースでは朝日への安倍首相のコメントが、そして今日は自民党石破氏の「批判」が大きく採り上げられている。
 こうした一連のマスコミの流れは、徐々に世間での、反原発運動への「批判」や、安倍政権の歴史認識などへの「愛国的」同意主張を勢いづかせ、現政権への批判を押さえ込む方向に行くのではないだろうか?
 ある意味、朝日新聞の今回の一連の失態に対する「批判」は、そういう意味で政権の世論操作と軌を一にしていると思われる。いまやインターネット時代とはいえ、いまだに「マスコミを制覇する者が勝利する」時代は続いている。
 事実を伝えることの重要さは言うまでもないことであるが、ある記事が事実でないことへの「批判」自体が歴史の真実を見ようとしない偏ったイデオロギーのもとに行われていはしないか?偏狭な「愛国イデオロギー」よりも、事実にもとづく真実への覚醒と、それによる相手国との共通の歴史認識こそがはるかに重要なのではないか?

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2014年9月11日 (木)

9日朝日朝刊の富山和彦氏インタビュー記事を巡って(その4)

(前回からの続き)

結論

 国内産業は、製造業が崩壊し、その代わりグローバル資本から差益を吸い上げる金融業や、海外の富裕層が落とすお金が目当ての「おもてなし」観光業やグルメ外食産業、そして娯楽産業のなどサービス産業が主流となり、生活必需品は食料も含めて輸入品や国内のグローバル資本から売り出される商品でそのほとんどが占められるようになるのではないだろうか。そして大都市圏ではこうした産業の資本が労働力を吸収し、地方では、税制破綻する自治体が整理統合され、人口が減って空いた土地にはグローバル資本の大規模農林業などが進出し、かつて農家を営んでいた人々は安い賃金で労働者としてそこに雇用される。そして観光資源がある地方は富裕層相手の観光収入でなんとか生きのびる。

 これがアベノミクスのいう「成長戦略」つまり資本家のための成長戦略による日本の近未来像ではないのか。

付録

 富山氏はいう、生産性=付加価値/労働時間 であると。

ここでいう「付加価値」とは、それを生み出すのに要した社会的平均労働時間によって表される価値ではなく、労働によって生み出される商品の市場での価格のことであろう。本来ならば、ここで「付加価値」の場所に置かれる項目は「生産物の量」である。生産物に体化された価値のうち労働力の再生産に必要な価値部分(賃金として支払われる部分)を引いた残りは剰余価値であり、本来なら社会共通の公共的経費として蓄積されるべきものであるが、それを資本として獲得する資本家が、それを市場に投入して利益を得ることができる価値部分である。これを如何にして実際の価値以上の価格で売るかが彼らにとっての最大の関心事であり、それを彼らは付加価値と呼んでいる。

(終わり)

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9日朝日朝刊の富山和彦氏インタビュー記事を巡って(その3)

(前回からの続き)

(2)については、以下の様にいえるだろう。

 「いま地方では人手不足で困っている」というのは、一つには上記の様な理由で若者たちが地方から流出しているからであり、賃金を上げて若者たちを都市から呼び戻せることができるような状態ではない。第一、グローバル市場での競争に巻き込まれつつある第1次産業は、合理化のため労働者を減らし、労働コストを下げようとするだろうから、賃上げなどやっていられないし、雇用も増やせないだろう。そして高齢者が増加して介護サービスや公共サービスが必要になっても税収の減った地方自治体がそれに多額の予算を割く余裕もない。

 だからこそ人手不足が深刻な問題になるのだ。

(3)については以下の様にいえるだろう。

 地方の市場がクローズドだというのは間違いで、地方で生活する人たちの生活に必要なものの生産、その運搬、流通、そして販売などの多くの企業が都会に本拠地を置く大手企業の資本系列下にあるといってもよいだろう。過当な競争をしなくてもすんでいるのは、むしろそうした資本系列にまだ呑み込まれていない「隙間産業」的領域であって、昔からあった老舗や、その土地特有の特産品の商売や温泉などの観光資源をもとに営む企業などであろう。もちろん地方によってはそこにグローバル企業の生産拠点があったりすることもあるが、それも決して多くはないだろう。

 こうした状況で、「賢い規制」を行い、賃上げを促すことで、生産性の悪い企業を経営不能に陥らせ、「退出してもらう」ことで全体としての生産性を上げる。そしてはじき出された労働者には「ジョブ型の仕事」(つまり潰しのきく単純労働)の職業訓練をさせ、労働の流動化を図る、という富山氏の考え方はまったく生活者の立場にたっていないと言わざるを得ない。それらの労働者は、賃上げを促された「生産性のよい企業」の労働者に比べますます賃金の低い企業にしか雇用されないことはあきらかではないか。格差の助長である。

 もちろんだからといって「規制緩和」を地方にも適用し、労働市場を「自由化」させれば、人手不足にも拘わらず、どんどん失業者が増えるだろう。

(続く)

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9日朝日朝刊の富山和彦氏インタビュー記事を巡って(その2)

(前回から続く)

(1) について言えば以下の様にいえるだろう。

 大手製造業が生産拠点を海外に移しているので、法人税軽減をして競争力を付けさせても、国内でのトリックルダウン「おこぼれに与る」は起こらない、というのはその通り。大手製造業の「頭脳」は国内にあるが生産設備や労働力である「手足」は海外にあるということになる。
 そこで忘れてはならないのは、その影響でかつて大手製造業の傘下にあった中小企業はどうなるのか?である。中小企業も海外に進出して競争力をつけるべきだというのかもしれないが、それだけの資金がない企業はつぶれて行かざるを得ない。そこでの有能な技術者や労働力の多くは劣悪な労働条件のサービス産業などに流れ込まざるを得なくなるだろう。
 つまり国内の製造業全体が生産手段も労働力も失い崩壊しつつあるといえるだろう。そして安い労働力を目当てに海外に設備投資した大手のグローバル企業も海外での競争に負ければ、勝った海外の資本に乗っ取られ、企業本拠地自体が税金の安い国外に移ってしまうかもしれないのだ。
 一方、農業や漁業はどうなるかといえば、TPPなどで否応なしにグローバル市場の競争に巻き込まれ、安い海外からの輸入品との競争に晒され、やがては中小規模ローカル産業のままでは居られず、国内、海外からの資本のもとに組み込まれ、再編されていくことになるだろう。
 農業や漁業は、「生産の合理化」によって農地は大規模化し、労働者の数は減らされるだろう。漁業も大規模化する一方で、「生産性の悪い」小規模自営経営の農家や漁業者は消えて行かざるを得なくなる。だから生産力は高まるかもしれないが、国内の農業・漁業労働者の数はますます減少するだろう。
 いま地方では、産業や公共施設などが大都市周辺に集中し、地方に根を下ろして生活することがどんどん困難になっている。しかも地方での労働は上述したように大規模化し労働人口が減っていく第1次産業、中央のゼネコン企業による下請け的建設労働、介護労働などに絞られて行き、しかも賃金が安い。だからこれまで地方で生きてきた老人はそのまま残るが、若者は地方に希望を託せずどんどん都会に出て行ってしまう。そのため労働力不足になるのだ。場合によっては海外から安い賃金でも働いてくれる労働者を導入せざるを得なくなるかも知れない。
 つまりGだけではなくLもグローバル市場の影響を色濃く受けざるを得なくなるのだ。
(続く)

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2014年9月10日 (水)

9日朝日朝刊の富山和彦氏インタビュー記事を巡って(その1)

 9月9日の朝日朝刊「オピニオン」欄は「成長戦略の勘違い」といタイトルで経営共創基盤CEOの富山和彦氏へのインタビュー記事が載っていた。富山氏は、アベノミクスの「成長戦略」における3つの「勘違い」を指摘し、いま必要な経済政策について語っている。

 第1は「日本の成長は製造業大手の復活にかかっている」という勘違い。第2は「地方は長引く景気の低迷で、働き口が少ない」という勘違い。そして第3は「生産制向上には徹底した規制緩和が必要だ」よいう勘違いだという。
 第1については、かつての高度成長期のようなトップに大企業があって、その傘下に多数の中小企業があるピラミッド構造では、トップが潤えば、下請け企業はそのおこぼれで潤うという構図はいまでは崩れ、大手製造業の多くは、生産拠点を海外に移している。いまや雇用者数でも付加価値額でも日本では7〜8割はサービス産業である。それはほとんど地域密着型で労働集約的な産業である。前者大手製造業の舞台をグローバル経済圏(G)とすれば、後者はローカル経済圏(L)であって両者は異なるルールで動いている。だから大手企業の法人税を減税しても国内ではその効果は少なく、おこぼれも落ちてこない。
 第2については、地方では働き口がないのではなく、逆にローカル産業では人口減少による人手不足で困っている。日本のサービス業ではサービス過剰で生産性が非常に悪い。生産性は労働時間あたりの付加価値なのでサービスに対価を支払っていないことになる。これまでは過当競争で単価が下がり、安い賃金しか払えなかったため、その分多くの雇用ができていた。生産性の低さがかえって失業を表面化させなかった。それが団塊世代の退職で労働力の需給が反転した。いまこそ生産性と賃金を上げることが必要なのだ、という。
 第3については、Gの世界では、(大手企業の競争力をつけるために)規制緩和などで市場原理を働かせることが有効だが、Lの世界では、閉じた商圏での競争なのでつぶし合いになりにくい。しかも医療や介護などの公共サービスの要求も多いので安易な規制緩和はブラック企業を利するだけだ。大切なことは、生産性の悪い企業に円滑に退出してもらうことだ。それには労働監督を含めた「賢い規制」が必要で、最低賃金を引き上げることが必要だ。最低賃金を上げれば生産性の低い企業は事業をやめざるを得なくなる。その場合、労働者が失業しないように、L圏に多いジョブ型の労働に向いた職業訓練を支援し、雇用を流動化させる必要がある、という。
 インタビューした朝日の記者は、二つの経済圏(GとL)という視点は、経済政策を巡る新自由主義とリベラル主義との対立を解きほぐす道でもある、と「賞賛?」している。
 アベノミクスの盲点を突いているようにも見えるが、私はこの「視点」は間違っていると考えている。その理由について、これから何回かに渡って述べることにしようと思う。
(続く)

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2014年9月 7日 (日)

第16回感性工学会大会「創造性とデザイン」セッションに参加して

「 昨日表記の学会で、会員でもない私が表記の企画セッションのスピーカーを務めさせてもらった。大学での後輩であるHK大学のI 先生に「創造性の話をしないか?」と持ちかけられてそれに乗ってしまったのである。I 先生に「デザイン創造性研究の権威」などと紹介されると気恥ずかしく穴に入りたい気持ちであったが、これまでに考えていたモノづくりとデザインの創造性に関する私の考え方を手短に整理して話をした。大会最後の日の午後とあってお客さんは多くはなかったが、20人位の人たちが参加していた。質疑とまでは行かなかったが、質問もあって少しは手応えもあったように思えた。

 実はこの講演は、今年内に出版を予定されている私とI 先生によるデザイン創造性に関する本(仮名「生活者の視点からみたデザイン創造性」)の宣伝でもあったのだ。感性工学会の重鎮でもあるI 先生が会員にPRしようという目論見もあった。
 私はこの手のセールスはあまり得意ではないが、これまで30年近くやってきたデザイン創造性の研究を整理しまとめる機会を与えて下さったI 先生には大いに感謝している。
 私のデザイン創造性論は、市場競争で勝ち抜くためのデザイン創造性への批判が基調になっており、決してビジネス本ではない。また「生活者」というコトバからは、家庭の主婦のデザイン発想へのガイドと受け取られるかもしれないが、これも少し違っている。
 私のいう「生活者」は、昼間は企業などで働き、そこから帰れば、一人の生活者として生活している人々であって、それは主婦に限らない。むしろ老若男女を問わず、生活の中に置かれた視点で、何が必要なのか、何を作りたいのかを考え、それによって生活における「問題」を創造的に解決して行こうとしている人たちのことである。 「売るために作らされる」のではなく「使うために自ら作る」という視点である。
 消費拡大が経済の唯一の推進力になっているいまの社会は、過剰消費、過剰生産による資源の枯渇や環境破壊が必至であって本質的に持続不可能な構造をもっている。無意味な市場競争に勝ち抜くためのミッションを負い、デザイナーはその最前線でこれに加担しているのである。
 その自覚と、それへの反省からこの本は出発する。その上で人間が本来持っているデザイン能力や創造性をどう捉え、どう発揮していくべきかについて私が20年以上悩み抜いて考えている結果である。多少言い訳めいているが、この本の内容は私の「結論」では決してない。過渡期の講論である。だからほじくれば矛盾もあるかもしれないし、問題点も多々あるだろう。
 職能としてのデザイナーの本質的限界について述べているので、これについては「デザインのイノベーションこそが社会を変えて行くのだ」と考えている人たちにとっては不満かもしれない。しかし、「デザイン・イノベーション」とは一体誰のためのイノベーションなのかが問題だ。企業が競争に勝ち抜くためなのか? つねにその競争の犠牲にされている「生活者」のためなのか? このことを真剣に考えるデザイナーにとっては、この本がきっと何らかの意味をもって受け止められるに違いないと思っている。

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