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2014年9月28日 - 2014年10月4日

2014年10月 4日 (土)

「家事ハラ」を巡って

 今朝のNHK-TV「深読み」で、「家事ハラ」問題が採り上げられていた。「家事ハラ」とは、男女平等のコンセプトのもとで、夫も家事に携わることが増えてきた昨今、夫の家事のまずさを妻が責めることをいう。

 「深読み」ではこの問題を、これまで家事や育児は女性の仕事とされ、男が家事を行うことになじみが薄かった日本社会の伝統が災いしているということと、実際男性が家計を支えるために長時間労働に耐えねばならず、家事労働が不可能だったという事実が背景にある、と指摘していた。
 いろいろな意見が出ていたが、その中で和光大学の竹信先生の意見が一番まっとうだったと思った。竹信先生は、家事や育児は社会にとって必要な労働であるにも拘わらずこれまで個人的な無償労働で行われてきたことが問題だと指摘している。
 つまり家族が生活して行けるためには家事や育児が必須であるが、これを妻の無償労働として扱ってきたのがこれまでの社会常識だった。しかし、家事や育児は社会にとって必要な労働であって、これを誰かが行わなければ社会全体として人々の生活が成り立たなくなるのだから、これはもっぱら個人の自助努力や奉仕に任されるのではなく、社会全体で考えねばならない問題なのである。それにも拘わらず、日本の政治はこれをまともに社会問題としては採り上げてこなかったのだ。
 このことを一歩深めてみると、さらに次のような問題が浮かび上がってくる。昭和 30年代頃の時代までは、一家の家計を支えるのは働きに出ている夫であって、自宅での家事や育児は女性が支えるのが常識であり、それが可能であった。だから当時は妻や子供3人位それに祖父祖母が居ても何とか夫一人の給料でやっていけた。しかし、高度成長期以来、時代は生活を「豊かにする」という大宣伝のもと、家事労働を軽減させるという名目で家電製品やクルマなどをどんどん普及させ、生活がそうしたモノに依存する形となり大半の家計の出費はそれらに向けられることになった。
 そのため妻がパートなどで働きに出て家計を支えなければやっていけなくなってきた。 妻の家事や育児の時間がその分犠牲となった。しかし夫の方もどんどん残業が増え、長時間労働が日常化し、家事や育児などとても行えない状態になっていった。その結果、家事や育児という必要労働は隅に追いやられ、それを補うかのように外食産業やベビーシッターなどという職業が盛んになっていった。また、教育のビジネス化によっておどろくほど高くつくようになった教育費の問題もあって、低所得家庭での子育ては事実上困難になっていった。
 こうして核家族化が進む中で夫と妻の両方が働かないと家計が維持できなくなっていったのである。そしてその結果、少子化問題が起き、老人介護問題が起き、社会保障の破綻が叫ばれるようになった。
 つまり一見賃金が上がって生活財が増えたから生活が「豊か」になったかのように見えて、実は生活そのものはより貧困化しているのである。バブル崩壊後はますますその傾向が強くなった。
 安倍首相は、「女性の輝く社会」をしきりに宣伝しているが、現実は、こうして女性が家計を支えながら家事や育児をなんとか切り回さなければ家族生活が成り立たなくなってきているのだ。「家事ハラ」問題もこういうコンテクストの中で起きているのだ。
  しかし安倍さんは育児や家事や介護は「家庭での自助努力にまかされるべき」という思想を持っている。「ニッポンを取り戻す」というスローガンには古き良き日本の家族をイメージしているのである。しかしそんなことは不可能である。
 家事・育児・介護という社会にとって必須な労働を個人の自助努力に任せ、社会全体でこの問題に取り組もうとする姿勢も乏しく、「女性の輝く社会」などとうわごとのように叫んでいるのだ。
 アベノミクスの成長戦略でグローバル市場での競争を有利に進め、株価が上がって、大企業や金融企業が潤っても、その足下で庶民の生活が疲弊し、若者は将来に希望を失い、夫婦が懸命に働いて家事も子育てもままならない生活の中で家族が崩壊し、老人たちは孤独死し、社会は土台から崩れようとしている。それでも「女性の輝く社会」を信じろというのか?それでも選挙で自民が圧勝するのか?

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2014年10月 2日 (木)

生産の「合理化」は何をもたらすのか?

 世の中、貧困層が増加し、富裕層が潤うという状況が世界中で展開されているが、一方で日本では人手不足で悩んでいる企業も多いのだそうだ。確かに日本の失業率は欧米に比べると低い方だ。

 だがしかし、その実情はこうだ。人手不足を補うために取られる方法は、一つは給料を上げて労働市場で労働者を引き寄せることと、もう一つは自動化などいわゆる生産の「合理化」によって補う方法だ。前者は円安による輸出などで儲かっている企業や、投資や投機で潤っている金融企業では賃上げという形で実現されるが、円安による輸入材料価格の値上げなどで経営が厳しくなっている中小企業では、賃金を上げることも出来ず、人が集まらず、かといって設備投資のカネもないので長時間労働の常態化や、アルバイトの雇用などで凌ぐか、それでだめなら業務の縮小か、労働者の賃金水準が低い海外への工場移転ということになる。
 また外食産業やサービス産業など非生産部門でも、非正規雇用やアルバイト労働者の酷使(いわゆる「ブラック企業化」)や労働時間の肉体的限界までの延長が行われた後、営業時間の短縮などに追い込まれる(そうなれば当然労働者の賃金も下げられる)。
 要するに、たとえ人手不足であっても、いかに労働賃金への支出を抑えながら、市場での競争に生き残るかということである。これが資本家的経営の鉄則だからである。
 一方で、いわゆる生産の「合理化」は、資本に余裕がある企業が行う。労働者一人当たりの生産性を高めるために、設備の更新や自動化が推し進められる。アベノミクスでは、「企業の利益が増加して設備投資が増え、労働賃金が上がれば消費が増大する」という架空のシナリオが描かれているが、設備投資が増えて生産が「合理化」され自動化されると雇用される労働者の数は減るのである。
 そして、企業は「合理化」が進み雇用する労働者が減れば、そこで生み出される商品の価格が安く抑えられ、市場での競争は有利になるが、企業としての利潤率は低下するのである。なぜなら「合理化」により労働時間が同じであれば一人当たりの労働者から得る剰余価値率(労働者が生み出す商品の価値から労働賃金部分と生産手段の価値部分を引いた残りの価値部分の商品価値における割合)は増えるかも知れないが、労働者数の減少によって企業全体で獲得する剰余価値量は減少するからである。
 極端なことを言えば、生産企業がすべて自動ロボット化され労働者数が極端に減れば、生産される商品のコストは安くなるが、世の中に失業者があふれ、商品の買い手は減少する。つまり資本家企業は単純な「合理化」の延長だけでは破綻するのである。
 そこで資本家企業では企業規模を拡大し、より多くの労働力を獲得しようとすることになる。競争に負けた企業を吸収し、海外企業の買収によって規模を拡大する。そして全体として搾取できる労働力の数を増やそうとするのである。
 しかし、あらたな「合理化」がなく労働者数が増えればまたもとの木阿弥になってしまう。ジレンマである。
 ではどうするか?そこで資本家企業はつねに大量の低賃金労働が必要となるのである。競争に勝ち抜くことができ、極端な合理化での利潤率の低下で破綻することを防ぐには、つねに国境を越えて低賃金で働く大量の労働者が必要となるのである。そしてその低賃金労働者たちは、資本家側からは大量の生活資料商品の買い手として、つまり「消費者」として位置づけられるのだ。だから資本家企業にとって「開発途上国」はヨダレがでるほど欲しい労働力市場でもあり生活資料商品市場でもあるのだ。
 これと同時に、「先進国」では、「合理化」で所得の増えた富裕層の趣味と暇つぶしのための第3次産業(観光、趣味娯楽、サービス業など)や奢侈品産業に資本が投入され、そこに雇用を増やして利潤を上げようとする。こうした第3次産業や奢侈品産業ではいわゆる労働集約型の仕事が多く、低賃金労働者数を増やしやすいのである。つまり富裕層からの「おこぼれ」を得るために働く労働者がどんどん増えるのである。
 昨今のグローバル化した資本(アントニオ・ネグリはこれを「帝国」と言っている)においては、貨幣価値が人為的にコントロールされ、インフレが常態化しており、そのなかで投資や投機によって世界中の富が一握りの超富裕層に集中しつつあるが、その中で「賃上げ」という恩賞を頂戴できる中間富裕層が世の中の消費拡大の牽引役となっており、絶対多数の下層労働者層は貧困のままに抑え込まれている。
 そして巨大資本による「合理化」はその状況に拍車を掛けているといえるだろう。

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2014年10月 1日 (水)

民衆のプロテスト運動を巡って

いま、香港では国慶節のさなか、街の中心部では大規模な民衆のデモが行われている。中国政府から送り込まれた官僚たちが、「自由選挙」の原則を反古にして政府が許容した候補しか認めないというご託宣を下したからだ。

 いま、この非暴力デモは大変盛り上がっており、市民がどんどん参加しつつある。しかし、おそらく当局はこれをしばらくは静観し、やがてデモがだんだん疲れてきたところを狙って一気に制圧するつもりであろう。権力のいつものやり方である。
 思えば、数年前、アラブの春といわれる民衆のデモが中東のあちこちで盛り上がった。一部のマスコミお抱えの論者はこれを「インターネット時代の祝祭型デモ」と評した。確かにこうした民衆のプロテスト運動ではネットが重要な役割を果たしている。
 しかし、それからまだ数年しか経っていないのに、エジプトでもリビアでもそしてシリアでもそれらの民衆プロテスト運動が悲惨な結果を生んでしまった。
 民衆は勝利した後の一瞬、喜びに沸いたが、その後の政治情勢はまことに過酷であった。エジプトでは軍部のクーデターでデモの成果は押しつぶされ、リビアではほとんど無政府状態となってそこにイスラム過激派がなだれ込んだ。シリアでは反政府運動を巡ってアメリカとロシアの駆け引きが続き、その間に反政府運動にイスラム過激派がなだれ込み、三つどもえの殺し合いになっている。その結果「イスラム国」というテロ殺人を見せしめにして自分たちに従わせようとするおそろしい「国」が出来てきてしまった。
 この情勢は、アメリカがイラクやアフガンでなめた苦い経験から軍事力の行使をためらっていることと、それにつけこんでロシアなどが影響力を強めようとする「新東西対立」が背景にあることは事実であるが、それより重要なことは、こうした混乱のきっかけとなった民衆のプロテスト運動の在り方にも原因があるように思う。
 要は「祝祭型」などと呑気なことを言っている間は、こうした悲惨な結果がある意味必然となるのである。民衆のプロテストは、一定の目標を持ち、それを計画的・継続的に実行していくという方針を持った「民主的指導部」がないとダメなのである。雰囲気だけで盛り上がった人たちはやがて情勢の局面の変化について行けなくなり、ポシャるのだ。しかしそれはまた、一歩誤れば独善的な指導部になりやすい。そのことはかつて日本の学生運動でも経験している人が多いだろう。民衆のプロテスト運動が社会変革の力になり得るためには、運動の民主的指導部をどうつくっていくのかが、最重要な課題であろう。
香港での民衆デモが再び「アラブの悲劇」を生まないように祈っている。

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