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2014年1月26日 - 2014年2月1日

2014年1月31日 (金)

NHK TV プレミアムアーカイブを観て

今朝放映されていたNHKプレミアムアーカイブで、1985年に放映されたNHK 特集「21世紀は警告する」を観て、考えさせられたことがあった。

 第一部では自然界のメカニズムが持つ不思議や驚異とそれを自らの欲望のために利用しつつ破壊して行く人類の科学技術との対比が描かれ、第2部では来るべき21世紀にわれわれは何を目指すべきなのかについてさまざまな論者の見解と世界5カ国の学生へのアンケート結果が示された。全体の要約をここに書いても意味がないので、私がその中で気になったことを少し記録しておこうと思う。
 それは、全体のトーンとしてあった「科学技術には好悪両面があり、将来の世界は人類がこれをどう扱うかにかかっている」という論調と、「イデオロギー、宗教、国家を超えた自然界の合理性に着目すべきだ」という考えである。どの論者の見解にも歯切れの悪さがあり、それは一方で科学技術の中立性と、他方でのイデオロギー、宗教、国家の政治性がどう関係しあっていまの世界の形をつくっているのか、という現状認識への曖昧さがあったからであるように思えた。
 イデオロギーはかつての「社会主義体制」やヒトラーのそればかりではなく、現在の「世界スタンダード」とみなされている資本主義社会を支えている思想もイデオロギーである。自由市場主義者F .ハイエクは、私有制、家族制などは人間の理性を超えたものとして築かれてきたのであって、それを無視してはならない」と言っていた。彼はいわゆる「自由市場」なるものも理性を超えた存在であってそれを無視してはならないとも考えている。つまり私有制、家族制、自由市場、などいまの資本主義社会を基本で支えている思想は人類にとって「デファクトスタンダード」なのだというイデオロギーである。これらがもたらす多くの矛盾も彼にとって結局は必要悪であり、それを補うのが宗教であったり徹底した個人主義であったりするというのだろう。
 一方、ノーベル賞化学者の福井謙一氏は、自然がもつ驚くべき「合理性」を理解し、それを壊すことのない人類社会が必要だと述べていた。もちろんここでいう自然の合理性とは、その浅薄な理解(あるいは誤解)から生じたヒトラーの進化論的思想(生物進化における適者生存を理由にユダヤ人を絶滅させようとした)のようなものではない。自然界の「合理性」は宇宙の歴史140億年という気の遠くなるような時間の産物なのである。そして人類自身もその産物に過ぎない。人類が自然の産物でありその一部である以上それを生みだしたものを完全にはコントロールすることなど決してできない、というあたりまえの事実をまず知るべきであろう。福井氏のいう「合理性」はそのような自然への「近代社会的人類特有の視点」であるともいえる。自然自身が「合理的」であろうとしてそうなったわけではない。同様に「謙虚でなければならない」とか「欲望を抑制しなければならない」という他の論者の考え方は、まだ人類と自然を二つの対立項として考えている証拠である。
 そして、さらに重要なことは、近代の科学技術がイデオロギーから中立なものであるという誤った思想である。そもそも近代社会がどのようにして生まれ、それがどのようにして科学や技術を生みだしてきたかをあったがままに見返せば、それらが「中立」であるなどという妄想は消し飛ぶはずだ。
 近代の科学や技術は資本主義社会の産物でありその推進役であったことは明白である。それは資本主義経済体制を世界標準に押し上げると同時に「イデオロギーから中立した」存在に見えるようになったのである。
 「社会主義」は資本主義社会のアンチテーゼとして登場し、それが生みだした科学や技術を継承しながらそれをより普遍性の高いものに組み替えようとした。しかし、社会主義体制自体の変質がそれを方向転換させ、強引な自然改造計画や核兵器の開発などに向かわせた。またヒトラーは資本主義経済のグローバル性を否定し、科学・技術をゲルマン民族の「血と大地」のために捧げられた道具と考えた。だから平気で他国を機甲部隊や爆撃機で侵略し、ユダヤ人をガス室に送り込むことができた。
そして資本主義社会は、それを市場での競争に勝つための道具と位置づけた。そのため、東南アジアやアマゾンの密林をどんどん伐採し、世界中の石油や天延ガスをどんどん掘り尽くしそれらを商品開発や兵器開発のために惜しげもなく使い、資本の成長のために平気で自然を破壊した。
 一方でもう数十年も前から「成長の限界」や「持続可能な社会」が叫ばれながら、資本の成長は歯止めがかからず、グローバル資本が世界を支配する現在では、成長と自然破壊なくして世界経済が成り立たないという絶対的矛盾に立たされている。
 「謙虚」や「抑制」を、市場競争で生きるか死ぬかの闘いを展開している資本家たちに呼びかけてもまったく聞く耳を持たないであろう。要は、われわれ人類が依って立つ自然そのものの破壊がなければ社会が成り立たないいう絶対的矛盾にまで来てしまった資本主義経済体制の矛盾を根本から改変することなしには、人類の未来はありえないということを理解することではないのか?そしてそのような事実に気づいたとき、人々は今度こそ科学や技術を本当の意味で普遍的な立場でとらえることが可能になるのではないだろうか?

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2014年1月26日 (日)

アベノミクス「経済の好循環」というまやかし

 このところ経済指標が上向いてきたというニュースばかりで、安倍政権の重鎮たちは「まず労働者の賃上げが最優先、そして購買力をつけ、消費を拡大、そして設備投資、利益上昇という経済の好循環がうまれつつある」という自画自賛をしているようだが、これは正確には次のように言い直すべきだろう。

 資本家が労働者への可変資本部分の前貸し量を増やすことが最優先、そしていったん労働者の手に渡った前貸し貨幣を消費財市場で消費財との交換に向けさせへ、それによって消費財生産資本に資本を回し、それら消費財企業の設備投資を増大させ、それによって生産財を生産する企業にも資本を回し、最後に労働者の「賃上げ分」を消費税として政府の税収にする。
 つまり労働者の賃金とは、資本家が労働力商品との交換で労働者の手に渡した「資本の可変資本部分」つまり労働力の維持費であって、資本家がその代わりに得た労働力を消費して生みだす価値のうち、可変資本部分と生産手段部分を差し引いた残りすべての剰余価値部分を無償で獲得することで得るような「収入」ではないのである。
 「賃上げ」はその可変資本部分を増やし、それを消費財生産企業が消費財の売買であげる利益に回し、それを設備投資というかたちで生産財購入へ回すことによって生産財企業も売り上げが増え、利益が増大するということなのである。
 この循環で本当の収入を増やすのは資本家であって、労働者の「賃上げ」はそのための手段でしかない。だから見かけのうえで上がった賃金は資本家のために支出されることが前提であり、労働者がそれを貯め込んでいざというときの基金にしようなどと考えさせないことが前提なのだ。だから金利はとことん低くして、お金を使わせ、「いざというときの基金」は株式投資など、金融資本が運営する資金として提供させ、金融資本の投資利益のおこぼれをほんの少し頂戴する方向に向けさせられる。
 中間層と呼ばれる労働者階級の上層部の人たちは、こうして「可処分所得(つまり生活に必要な最低限の資金を超えた部分)」の一部を株などへの投資に回し、株価の上下に一喜一憂する金融資本家とおなじ意識にさせられている。そして「可処分所得」の残りは奢侈品購入や海外旅行などに消費され、それらの企業を経営する資本家が潤うのである。
 金融緩和でジャブジャブ流されるお金は、実質的には根無し草的な価値しかなく、それが「アベノミクス的好循環」に投げ込まれ、労働者の賃金(資本の可変資本部分)の額面上での増加という形を経て、無駄な消費をどんどん拡大させ、そのために必要なエネルギーや資源をどんどん消費し、だから原発も増やさないとやっていけなくなり、ついでにその原発技術を輸出して重電企業に莫大な利益を生ませ、結局は金融市場で金融資本をブクブク太らせながら回転をしないと経済が成り立たないのである。
 しかし、この「好循環」は決定的なアキレス腱がある。それはある日突然、そして必ず、貨幣資本の実質的価値と額面上の価値の不一致による矛盾が爆発し、「好循環」が断ち切られる日が来るのである。いわゆる「金融引き締め」はそれを軽減するために行われる処置であるが、この「引き締め」の犠牲者はつねに労働者階級である。
 その日がいつ来るのかは分からない、しかしそれほど遠くはないだろう。その時になって、おそらく初めて労働者の社会的位置の惨めな本質が暴露され実感されることになるだろう。
 
 

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