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2014年12月7日 - 2014年12月13日

2014年12月12日 (金)

アベノミクスのマルクス経済学的分析(その6:破綻への道)

 アベノミクスは、結局、資本家企業全体の利潤を減らしている「デフレ」状態を脱却させるため、全体として流通する貨幣量を増やす(いわく大規模な金融緩和)ことで、インフレ状態を生じさせ、それをテコに資本の回転を上げ、「機動的な経済政策」によって再び企業に莫大な利潤獲得を可能にさせる。それによって雇用つまり労働需要を増やし、名目賃金を上げることで労働者から税金を取りやすくし、生活資料の消費を促すことで、生活資料商品を生産販売する資本家企業に莫大な利益をもたらす。それらの利潤を資本家階級全体で再分配し、資本家達を活気づけ、労働者もその「おこぼれ」に与れるようにさせよう(いわく成長戦略)というのである。

  アベノミクスは結局1960年代に池田政権などが行ってきた「高度成長期」の手法を再現しようとするもので、当時、国内市場でも国際市場でも莫大な利益を上げていた資本だからこそ可能であったインフレ政策を基盤とした賃金の上乗せによる消費拡大という路線は、いまのような国内市場も縮小し、国際市場でも不利な競争を強いられている日本の資本家達にとって「賃上げ」などは到底不可能であることは明白だ。それにもかかわらず一部の高利潤企業で「賃上げ」している様に見えるのは、実はそれらの企業が、生産物の資本構成のうち可変資本部分(つまり労働賃金に要する資本)を若干増やしても、全体として利潤(剰余価値部分の生む利益)の低下をもたらさない範囲に収まるという見積もりがあるからである。高利潤の大企業の下請け中小企業が大企業のおこぼれをちょうだいできたのは 1960-80年代での話であっていまでは幻想に過ぎない。

 しかも大企業で蓄積された資本は国内に投資されることなく、海外の低賃金労働者を獲得するためと、海外市場での販路拡張や企業買収のために投資されるため、「お金」はほとんど国内に還ってこない。たとえ一部が国内に環流しても、それは労働者には決して回って来ず、利益を生みそうなビジネスにカネを注ぎ、そこから儲けを得ようとする投機家たちの手に落ちるのだ。 国内では利益を生まない生産企業ではなく、より高い利潤が見込まれる金融企業、サービス産業、レジャー産業、あるいは得体の知れないビジネスなど不生産的企業への投資が行われ、そこにある程度の労働力(大半は非正規雇用の)を吸収することになる。これを安倍さんは「雇用が増えた」と言っているのだ。
  こうして日本の資本主義社会は海外の低賃金労働の産み出す剰余価値への寄生的依存度を高めると同時に、内部でも不生産的企業の比率を高めその「腐朽度」を高めていく。
 しかもこれまでの長期自民党政権は、いずれも資本家企業中心の立場を取ってきたことによる 社会保障・複利厚生・医療など(本来は社会共通経費 )の膨張を補う(資本家の利益を損なわずに) ために莫大な国債発行による借金を積み上げてきた。これらは本来すべて資本家達が労働者達から無償で奪取している莫大な剰余価値部分から賄うべきものであるが、企業間の利益獲得競争をうまく機能させるためにそれを資本家、労働者双方からの租税によって賄ってきた。当然のことながら企業の国際競争力をつけさせるなどの理由で企業よりも労働者への税負担が増えていく。そもそも労働賃金は、資本家の利潤とは異なり、労働力の維持費である。それは資本家に剰余労働を無償で提供するための資本家にとっての必要経費(可変資本)なのであり、決して「所得」ではないのだから、この租税は一見「平等」のように見えてもその本質はまさに不平等である。
 国債も外国の政府や資本が買うより、むしろ国内で中央銀行が買い取ることがほとんどである。こうして国債は中央銀行が発行する「円」の価値を借金で保証しつつ、インフレ政策を強引に押し進めるための切り札となっている。
 いま、もし「異次元の金融緩和」による円の価値の大幅な暴落が現実化し、国債の信用が急落し、借金の利子が増大すれば、その債務額はいっきに天文学的数値になり、日本政府は財政破綻する。いくら金本位制ではない管理通貨制度のもとだとはいえ、いやむしろそれだからこそ貨幣の価値の実態が姿を現すとき、資本主義経済はその根底を揺さぶられることになる。
 こうした危うい綱渡りをしながら、資本家企業を優遇して、利潤が上がれば、雇用も増え、賃金も上がり、消費も拡大して、企業はますます利潤を上げるようになっていく、という「好循環」の絵空事をさもさも実現出来るかのように宣伝している。これがアベノミクスの本性である。
これでも「景気回復はこの道しかない」と叫ぶ安倍さんを信じ、14日の投票日に自民公明に投票しますか?
おまけにその先には憲法改定と再軍備が待っている。
(次回に続く)
 

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2014年12月11日 (木)

アベノミクスのマルクス経済学的分析(その5:21世紀型グローバル資本の登場)

 もともとケインズの「有効需要の原理」にもとづく「消費駆動型」資本主義体制は、結果的には、過剰資本の蓄積によって資本主義体制が崩壊する可能性を不生産的消費の拡大によって防ぐという意味をもっていた。そしてその基盤の上に「消費駆動型」資本主義経済があだ花を咲かせることができたのであるが、その先鞭を切って朝鮮戦争の特需景気をきっかけとして、日本の資本主義経済は、1960頃から「高度成長」を遂げた。日本では1960年代にはまだ国内需要が多く、生活資料商品の増産に必要な労働力やそれにともなう道路網、電気・ガス・上下水道などのインフラ、万年不足であった住宅の建設などに多くの労働力需要があり、それに加えて1970年頃から比較的安い労働力による輸出商品市場での有利な競争によって企業利益は急速に増加していた。労働者側も失業率は低く、労働賃金も「春闘」での労使交渉によって年々上昇していた。それによって多くのいわゆる「中間層」が産み出され、労働者階級に比較的裕福な部分の比率を高めていった。しかしそれと同時に労働者の階級意識は薄れ、どんどんモノを買うことが経済のためになるという風潮に乗せられ、自らは職場で生産的労働の一部に携わっていても、賃金を使って消費することが自分の存在意義であるかのように思い込まされ、労働者は「消費者」と呼ばれるようになり、自らを「中産階級」と感じる人々が増えた 。そのため労働運動も見る影もなく萎んでいったのである。労働者階級は自ら進んで「消費駆動型資本主義経済」のドライビングフォースとなっていったのである。まさにケインズ理論に主導された資本家達の思うつぼであった。

 やがて急速に蓄積される資本は金融資本を通じて不動産や不生産的部門への投資に大量に流れるようになり、1980年頃から過剰な資本の流動化によるバブル状態が始まった。「なんとなくクリスタル」に代表されるようなバブル時代の華やかな雰囲気はやがてそれを支えていた土台もろとも破綻すべくして破綻した。
  1990年代には不動産や証券企業、不生産的部門、下請け中小企業などの倒産や金融機関の再統合などが行われ、世の中は不況のただ中に陥れられ、労働市場は縮小し、失業者が増え、労働賃金は下がり、消費は冷え込み、生活資料商品市場(いわゆる消費市場)も安値による販売が常態化し、人々は財布の紐をきつく絞る生活をするようになり、社会全体で資本の回転が低下した。資本家経済学ではこれを市場が供給過剰となり需要・供給のサイクルが低下し、貨幣の流通量が減少した「デフレ状態」と呼んでいる。
  グローバル市場でも中国などの台頭により競争から落ちこぼれた日本資本主義に昔年の面影はなかった。そしてこの状態から抜け出すべく、郵政の民営化だの規制緩和だのを唱える政権が生まれ、非正規労働者を増やすことで企業での「労働力の流動化」が図られ、いつ解雇になるか分からない状況での過酷な労働が常態化するという現実を産み出しながら企業の利益は戻り一時的に見れば「景気回復」と思わせることもあった。しかし基調は「不況」であり、労働者と資本家間の格差はもちろんのこと、労働者階級内部でも格差が増大し、「中間層」が減少して一部の「プチ富裕層」とその他の多くの貧困層や失業者を生みだして行った。しかし労働者階級としての意識を喪失していた人々は再び労働者の団結を目指すのではなくひたすら「景気の回復」を願うようになっていた。
 一方世界では、20世紀末、ついにその内部矛盾から崩壊してしまった社会主義圏は、その内部矛盾を資本主義経済化によって補おうとする中国型「社会主義」経済体制を産み出したが、それはアメリカを中心とした世界資本主義がその対立項を失って暴走しはじめ、「グローバル資本化」する中で、その市場に組み込まれ、経済的にはグローバル資本と持ちつ持たれつの関係でありながら同時に政治的軍事的にはそれと対抗するという形を取るようになっていった。
 暴走するグローバル資本はアメリカを中心として世界中でありあまった過剰流動資本の回転を加速させながらその回転速度に比例した莫大な差益を上げ、巨額の財産を一握りの資本家や投機家達の手に集中させていった。そしてその周辺に巣食う人々や「プチ投機家」「新興IT企業経営者」「それらにすりよる第3次産業経営者」などはその「おこぼれ」によって「新富裕層」を形成していった。
 そして2008年不動産バブルの崩壊がアメリカにやってきて、連鎖的な金融恐慌に陥った。その影響は日本にもやってきてたちまち世の中は再び「デフレ」に逆戻りした。
その中で、それまでの自民党主導の政府による官僚的政策を批判して、民主党が支持を受け新たな政権の座を得た。しかし彼らの主張も結局は、「民間主導」(つまり資本家主導)の消費駆動型経済をベースとして景気回復させ「ぶあつい中間層」を取り戻そうということであって、「ぶあつい中間層」とは何であり、なぜその格差が増大し、崩壊したのかについての理由を何もあきらかにできなかったため、その政策はほとんど実現できず「絵に描いたモチ」にしかならなかった。やったことといえば自民公明と妥協して消費税増額法案を成立させたことくらいである。人々の期待が大きかったゆえに失望も大きかった。そしてふたたび生き返ったのが安倍自民公明政権なのである。
(次回に続く)

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アベノミクスのマルクス経済学的分析(その4:ケインズ「有効需要の原理」)

 ケインズは、資本主義社会が一方で台頭してきた社会主義圏に押され、他方で不況でものが売れず、失業者が恒常的に増加するという資本主義経済体制そのものの危機的状況があったとき、当時の「新古典派」経済学者(ピグー、クレー、キャナンなど)の通説にまっこうから異論を唱えた。例えば新古典派の論では、ものをつくるために必要な費用は、ものの生産量が増えるとともに増加し、ある時点でそれ以上ものをつくっても採算がとれなくなる(限界費用)、という考え方をしていた。実はこれは投資した資本に見合うだけの利潤を生まなくなる過剰資本の発生のことなのであるが、もともと資本とは何であるかを認識していない彼らにとってはこのような表面的な把握しかできなかったといえるだろう。 そのため、失業者が増えるのは、生産費の大きな部分を占める労働賃金が高すぎるからであって、賃金を安くすれば、企業はもっとものをつくり、市場は活気をとりもどすだろうと考えていた。マルクス経済学的に見れば労働賃金である可変資本部分を減らして資本の過剰を防ごうという実に馬鹿げた主張なのである。

 しかし、ケインズは、有名な「雇用、利子、貨幣の一般理論」の中で、そうではなく、ものが売れなくなるのは、需要がないからだ、と考えた。ものが売れるなら企業はもっと生産を続けるだろう。需要こそが、資本主義経済のアクセルであると言った。これが「有効需要の原理」である。つまり過剰資本の処理にはむしろ可変資本部分を増やし、労働者の生活資料商品への購買力を高めることで、需要を増やし、資本全体そしての利潤を維持することを考えるべきだということだ。もともと労働者の生活資料は、資本の再生産に直接結びつかない「純粋消費」と考えられ、過剰資本の蓄積には直接はつながらないからである。もちろんケインズにはそのような視点はまったくなかった。

 マルクスが諸個人の在り方と共同体社会の関係の発生と成り立ち、つまり「存在の論理は発生の論理である」という視点から労働と「価値」というものを捉えようとしているのに対して、ケインズは価値の一つの表れである貨幣は流通の便宜上存在するものでありそれを私有するのは自由である、という視点から経済の成り立ちをお金とものの流れによって把握しようとしているのである。彼には「雇用の確保」という視点はあっても、ものや価値を産み出す側、つまり労働者の視点はまったくない。

そしてこのケインズの「有効需要の原理」こそ、20世紀後半の資本主義社会(アベノミクスもこれに含まれる)を特徴づける「消費駆動型」資本主義経済体制の基本にある「原理」なのだ。

  ケインズの主張が当時危機的だった資本主義経済体制にとって「救世主」だったのは、単にその理論だけではなく、当時の社会情勢が大きく影響している。それは一方で社会主義圏の進出による資本主義圏での労働運動の高まりであり、このまま失業者を放置して「労働予備軍」として溜めておくわけには行かなくなっていたのである。景気回復には商品の生産を推進しなければならず、そのためには社会的生産の本来の目的である生活資料への需要を増やさねばならず、そのためにはその大部分の購入者である労働者達の雇用と賃金を確保しなければならないからである。労働者の雇用と安定した賃金の実現が、資本主義圏を社会主義圏の進出から護るもっとも有効な手立てだということに資本家代表政府の要人達が気付いたからである。

 このケインズの考え方を基礎に、従来の新古典派的、例えばワルラスの「一般均衡理論」に見られるような資本家達による「レッセフェール」(市場の成り行きに任せておけば需要と供給はいずれうまくバランスする)という考え方ではなく、総資本を代表する国家が経済政策によりマネーコントロールや需要創出において主導的な役割を果たすことで、社会的な労働需要を産み出し、そこに労働者を雇用し、安定した賃金によって生活資料を購入できる体制が目指されるようになったのである(しかしこの考え方は後になって当然のことながら破綻を来すのだがこれについては後述する)。

 こうして当時イギリスに代わって世界資本主義センターとなったアメリカを中心に、道路網建設や大規模ダムなどのインフラ建設への大規模公共投資を行い、その後第2次大戦が勃発する中で、莫大な国家予算をつぎ込んだ軍需産業の中に労働者達を吸収することで失業を減少させ、戦後は、これをテコにして生活資料の需要を促すことで耐久消費財を中心とした生活資料産業を振興させ、いわゆる大量生産・大量消費時代を創出させ、20世紀後半の東西冷戦時代を通じた半世紀の間、アメリカを中心とした「ケインズ型資本主義社会」が浸透し、敗戦国日本やドイツもその流れに吸収されていくことになったのである。

 しかし、1970年代になって、一方で社会主義経済圏がますます党官僚独裁による硬直化した国家経済体制で行き詰まり、他方で「イギリス病」などといわれる形で国家予算の公共福祉部門への負担が増大し、企業利益が上がりにくくなり、国家主導のケインズ型資本主義の欠陥が露呈しはじめた。また新興ドイツや日本の輸出商品の進出による国際商品市場でのアメリカの後退とそれによる不況などで、ケインズ型資本主義の「見直し」風潮が台頭してきた。 ハイエク、フリードマンなどのいわゆる自由市場主義者達の登場である。またしても! である。

 その後レーガン、サッチャーなどによって行われた国家主導を弱め、市場の成り行きに任せようとする「小さな政府」政策や労働市場を中心とした市場での規制緩和などの一定の成功によって「ケインズは死んだ」とまで言われたのであるが、実はその「新・新自由主義」経済学者達の主張もあたかもレッセフェールの「新古典派」的考え方に戻ったかに見えるが、基本的にはケインズの「有効需要の原理」を下敷きにしているのである。

(次回に続く)

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2014年12月10日 (水)

アベノミクスのマルクス経済学的分析(その3:20世紀前半の資本主義)

 ここまではアベノミクスに特徴的な内容ではなく資本主義社会一般についての考察であるが、次に、アベノミクス特有の内容について考えてみよう。

 それには、少し長くなるが、20世紀において、資本主義社会が幾度か崩壊の危機にさらされながらもその形態を変貌させながら生きのびてきた過程を考える必要がある。「存在の論理は生成の論理」だからである。
 マルクスの存命中は、資本主義社会は、好況---恐慌--不況--- 好況というサイクルを繰り返しながら、その過程で資本構成(生産手段に必要な資本部分対する労働力に必要な資本部分の比率)の高度化を通じて、労働生産性を上げながら相対的剰余価値の増大 (同じ労働時間労働させても剰余価値部分の相対的比率が増大する)をもたらし、一方で絶えず、「生産の合理化」によってはじき出された余剰労働人口という形で労働者予備軍(つまり失業貧民)を社会に大量に沈殿させながら、資本の成長に必要なときにいつでも安い労働力が買える状態を維持して行った。そしてそれはやがて一方で一握りの資本家への膨大な富の集中を、他方で大多数の労働者の貧困の拡大という極限状態に達し、いずれ労働者階級による革命が勃発するはずであった。しかし、事態はそう単純ではなかった。
 20世紀になって株式会社などによる資本の社会的調達方法が普及し、また金融資本を通じて資本家の手にたまった遊休資本を「有効」に回転させるシステムが確立され、小切手や信用制度が拡充し、資本の蓄積が金融資本のもとに行われるようになっていった。こうした状況の中で極端な形での経済恐慌が起こりにくくなり、また一方で植民地の再分割などによる商品市場と労働市場の変化に伴う、戦争への危機が増大したが、他方では、株式投資などによる莫大な富が金融資本のもとに蓄積され、さまざまな形で資本家間で再分配された。こうして大資本家の「おこぼれ」を基礎として生活する金利生活者などが、いわゆる「中産階級」として育っていった。
 しかし勃発した世界大戦の中で、巻き起こるナショナリズム(「国益」という名の下に総資本の立場を普遍化するイデオロギー)にも扇動され、労働者階級は「国民」として資本家階級と一体化され、一丸となって戦争に向かうはめとなった。近代的「愛国心」はこうして労働者階級の犠牲による戦争の真実を覆い隠していった。
 結果、街々は破壊され、何千万もの死者を出し、それ以上の人々が生活を奪われ戦争は終わった。その中で、もっとも遅れて資本主義社会に移行しつつあったロシアにおいて史上初めての社会主義革命が起こった。しかしそれはやがてマルクスが予想していたものとはかなり違った形になっていった。
 この大戦と次の第二次世界大戦の間の時期は、直後のスーパーインフレが収まると、戦勝国側にとっては、戦争賠償などの取り立てなどを基礎として資本の大きな成長をもたらした。その中には日本も含まれる。世界資本主義経済の中心はイギリスからアメリカに移り、アメリカでは自動車の量産化が始まり、それにともなって道路や住居などの形態が大きく変化し、インフラや生活様式そのものも大変貌していった。株取引や銀行などの金融業はもちろん、生活資料の流通・販売、サービス業の増大などさまざまな「非生産部門」の労働者が「サラリーマン」(これが後にいわゆる「中間層」の中核となる)として登場し増大するようになった。
 しかし、1929年10月のある日突然、ニューヨーク株式市場が大暴落し、そこから悪夢のような世界金融恐慌が始まり、世界的不況の中で企業をクビとなった多くの労働者達が路頭に迷うことになった。
 一方で敗戦国であるドイツでは賠償支払い不能状態など苦境の中、ナショナリズムが台頭し、対するドイツ共産党などのインターナショナリズムと激しく衝突し、やがてドイツの労働者階級は「国家社会主義(ナチズム)」という「社会主義」と似ても似つかぬ集団の支配のもとに社会を委ねることになっていった。
 そして米英を中心とした連合国側とドイツ・日本・イタリアを中心とした枢軸国、そしてソヴィエト連邦を中心とした社会主義圏という三つどもえの第二次世界大戦に突入していったのである。
 この資本主義陣営最大の危機において、いわゆる「自由主義経済諸国(アメリカとイギリス)」では、資本主義経済体制の根本的見直しが行われることになった。そこで登場するのがジョン・メイナード・ケインズである。
(次回に続く)

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2014年12月 9日 (火)

アベノミクスのマルクス経済学的分析(その2:剰余価値と消費税)

 さて、このように書くと、「労働者がつねに無償で剰余価値を資本家に取得されているなどというのは馬鹿げた妄想で、そんな言いがかりは何の根拠もない」という反論が必ず返ってくる。そこで剰余価値とは何かについてもう一度考えてみよう。

  マルクスは「剰余価値学説史」という膨大な歴史研究成果を著書にしている(筆者はまだ読んでいない)が、そこからマルクスが明らかにしたのは次のようなことである。
 人類の歴史上、あらゆる共同社会が、その構成員をぎりぎり生かせるに足るモノしか作ってこなかったということはありえない。なぜならその共同体はつねに共同体共通の必要物(たとえば原始共同体での外敵からムラを護る柵、飢饉のときのための食料の備えなど)を要求するからである。共同体の構成員は、一人一人その持ち場で、仕事を行いながら、自分の生活の糧を産み出すと同時に、共同体共通の必要物をも産み出してきた。この共通の必要物は正確に言えば「剰余生産物」である。そしてこの剰余生産物を誰が支配所有するかによってその社会の関係(生産関係あるいは階級関係)が基礎づけられる。そして共同体全体の社会的生産力が高まれば高まるほど剰余生産物の量も増える。
 資本主義社会では、先に書いたように、社会に必要とする生産(この中には社会構成員各自の生活資料ももちろん含まれる)を行う労働者は生産手段を持たない(実は奪われた)人々であり、社会的生産に必要な生産手段は資本家の私的所有を前提としている。だから労働者は自分のもつ労働力を生産手段の所有者に提供することでしか社会的生産が行えない。つまり社会全体で共通に必要とされるものが、労働者の産み出す剰余価値を資本家が無償で私的に取得し所有するという形を前提とした「自由な市場競争社会」によって賄われているのである。
  資本家は「自由に」労働力商品を買い取り、そこから無償で剰余価値を取得し、それをもとに資本家同士の「自由な競争(市場競争)」によって私有財産を殖やす。これが本来の「所得」である。労働者は生産手段からつねに「自由(Free fromつまり持たない)」なので、自らの人間としての能力を労働力商品として資本家に売りに出さねば生きて行けない。こういう生産関係によって成り立つ社会が資本主義社会なのである。
  この資本主義社会が作られてきた「血塗られた」歴史過程は、資本論の「本源的蓄積過程」という章を読めばよく分かる。現代の資本主義社会は、時代特有のさまざまな社会的分業形態とその複雑な絡み合いで出来上がっているが、その本質は少しも変わっていない。
 資本主義社会においては資本家と労働者を「対等な商品所有者」としてつまり資本家社会的「個人」としてみなすので、社会共通に必要とされるものは、労働者達と資本家達への課税によって賄われる。
  しかしよーく考えて欲しい。資本家達は労働者の労働から無償で剰余価値を取得して財を築いて行くのに、対し、労働者はその分犠牲(剰余価値量が増えるほどこの犠牲は大きくなる)をはらって自分の生活の糧を得ているのである。それを資本家と対等な「個人」として課税するのが「個人の自由と平等」を旗印にする資本主義社会の特徴である。 こういう事実において「消費税」の実情を見れば、本来資本家が労働者から全面的に無償で取得している剰余価値部分からこそ社会的に必要なモノや経費を出費すべきであることは一目瞭然であろう。「消費者」という名目で労働者階級から一律に税を取ることは、労働者の生活に必要な経費を削って、それによって、つねに労働者から剰余価値をタダ取りしている資本家支配社会の基盤をまもれということなのだ。
 しかし、いまの資本家代表政府は「消費税を上げなければ社会保障の予算が組めなくなる」「年金の将来がない」などと労働者達をおどす。そして「リベラル派」を自認する野党もその同じ枠に嵌まって「時期尚早」などとほざいているのだ。
 このような事実を理解できれば、「自由市場」が誰のための「自由」なのか、「経済の成長拡大」や「景気回復」がだれのためのものなのか、そのまやかしの表現に気付くだろう。
 社会的生産性が高まれば高まるほど社会全体に共通な財は増え、労働者の生活は楽になるはずなのである。ところが、生産性向上は資本家にとって、市場での競争に勝つための商品価格の低廉化をめざすために必須な「合理化」としての剰余価値率の増大(相対的剰余価値)のためでしかなく、「人件費削減」の名の下で労働者はそれによって逆に職場を奪われ、生きて行くために必要な生活資料からさえも「自由」にさせられてしまうのだ。
 そして生産性が高まるほど資本家はその分、大量に産み出される商品を売りさばかねば利潤を上げられなくなる(利潤率低落)ので、ますます市場の競争は激しくなる。
 こうして資本家達は、海外に商品市場をどんどん拡大し、生産拠点を労働力の安い国々に移し、新たな儲けが見込まれる株に投資し、「成長」が見込まれる企業を買収していくのである。
 そしてそれを「自由貿易」の名の下に支援するのが資本家代表政府であり、「規制緩和」と称しながら、非正規雇用やアルバイトの率をどんどん増加させ、資本家が必要なときはいつでも解雇できるしくみを作り、資本家がもつ有り余る富を投資する先によって必要となる労働力をいつでも確保できる「流動的な労働市場」をうみだすことに努めている。それによって「ブラック企業」でなくとも、資本家がますます労働者を「使い捨て化」しやすい世の中になっていく。これでも自民・公明政権を支持するとすればそれはまさに労働者階級にとって自殺行為ではないか。
(以下次回に続く)

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2014年12月 7日 (日)

アベノミクスのマルクス経済学的分析(その1:資本主義社会とは?)

暴挙ともいうべき解散・総選挙を迎えて、自公政権が看板として「この道しかない」と息巻いている「アベノミクス」を、私の独学自習のマルクス経済学の知識から私なりに分析してみようと思う。

 まず、アベノミクスの「3本の矢」とは、首相官邸のホームページを見れば、次のことを指す、「第1の矢:大胆な金融政策(金融緩和で流通するお金の量を増やし、デフレマインドを払拭)、第2の矢:機動的な財政政策(約10兆円規模の経済対策予算によって、政府が自ら率先して需要を創出)、第3の矢:民間投資を喚起する成長戦略(規制緩和等によって、民間企業や個人が真の実力を発揮できる社会へ)」。そしてホップ・ステップ・ジャンプの3段飛びで「持続的な経済成長(富の拡大)」を目指す、というあらすじである。
 そして、今度の選挙に当たって、このアベノミクスがこれまで挙げた成果を次のように書いている。
 実質GDP:累計+2.9%成長、業況判断DI:2013年12月より連続プラスを維持、株価:1年11ヶ月で+6.5%、NISA:総買付額1.6兆円の市場に成長、有効求人倍率:高水準を維持(なぜかここには数値がない)、就業者数:21ヶ月連続増(ここにも内訳や数値がない)、賃金引き上げ:平均月額:過去15年で最高水準 夏季賞与:過去24年で最高水準(ここにも数値がない)、消費支出:6年ぶりに増加率1%超え、女性就業率:75万人増加、外国人訪日客数:2014年1月ー10月 1,100万9千人、そして、「企業の業績改善は、雇用の拡大や所得の上昇につながり、さらなる消費の増加をもたらすことが期待されます。こうした「経済の好循環」を実現し、景気回復の実感を全国津々浦々に届けます。」
というわけだ。
 ところで、われわれのいま住んでいる社会が資本主義社会であることは誰も疑わないだろう。しかし、資本主義社会とはどのような社会なのかは意外とキチンとは理解されていないようである。資本主義社会とは基本的に個人の自由に基づく普遍的な社会経済的システムであって、一部の金持ちが不当に多くの富を得て、一生懸命働いている人たちが安い賃金しかもらえず格差が拡大したり、不当に解雇されたりしなければ基本的にそれでよい、と考えている人が意外と多いかも知れない。しかし、例えば、このアベノミクス宣伝の中に出てくる「雇用の拡大や所得の上昇」という言葉や、経済成長(富の拡大)という考え方は何なのかをちょっと考えてみよう。
 そもそも社会は共同体としてそれを個々の場で支える人たちの労働(仕事)の結合によって成り立っている。社会が持続して行けるためには、そこで必要とされる資料(モノやコト)が労働によって産み出されなければならない。それは大きく分けて生活手段(社会的な労働を分担する労働者が生活を営むに必要な食料・衣服・住居・家財など)と生産手段(生活手段を産み出すのに必要な原材料、生産加工機械、工場、オフィス、輸送手段、インフラストラクチャーなど)に分けられる。どのような社会にあってもこれらの生産手段がそれぞれの社会的必要労働の場に必要とされる量、分配されねばならず、またそこに必要な労働力が確保されねなならない。もちろん直接に生産に必要でなくとも社会全体を維持していくために必要な労働(教育、医療、社会保障関係、司法・行政などの労働)もこの中に含まれる。
 資本主義社会ではすべてこれらの社会的必要労働が、資本によって結合され、貨幣資本(G)---商品資本(W)---生産資本(P)---商品資本’(W')---貨幣資本’(G')という資本の回転の中で行われている。われわれの日々の生活に必要な消費資料商品は、それをスーパーや販売店という商業資本家の経営する店で購入し、それを消費して生活しているが、そのために必要な貨幣は、ほとんどの場合、ある企業や店舗などの企業に雇用され、そこで働いて受け取る労働賃金である。この労働賃金は、見かけ上は被雇用者が自分の労働力を雇用者に提供する(雇用者のために労働する)見返りにその「等価」として支払われた「報酬」のように見えるが、実は、労働者に対する労働力の維持費なのであり、決して本来の意味での「所得」ではない。労働者はこの賃金なしには生きて行けないのである。労働力という商品は、モノとしての商品ではなく、自ら労働してそれによってモノを生産する人間の能力なので、人間として生かしておかねば労働力としての使用価値がない。そのために雇用者である資本家にとって必要な費用なのである。資本家はすでに生産手段(広い意味での)を所有しているから、雇用した労働力をそれに結合することで初めて商品の生産が可能となる。しかし、一定の労働期間において、労働者はつねに労働の「対価」として支払われた貨幣以上の価値を産み出し、その労働力の維持費を超えた価値部分(剰余価値)がつねに無償で雇用者である資本家に取得されている。これが資本の原点であり、ここから資本の回転が始まり繰り返され、そこから産み出される「富」はさまざまな形で資本家の手に蓄積されるのである。資本主義社会での「経済成長」とは資本の成長であり、「富の拡大」とは資本蓄積の拡大にほかならない。そして「賃上げ」は資本拡大のための手段の一部になりうるかたちでしか成されず、そのほとんどが「見かけ上の上昇」にすぎない。
(次回に続く)

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