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2015年1月12日 (月)

パリ・自由の大行進で考えさせられたこと

イスラム教を皮肉った記事を掲載したフランスの新聞社を襲ったテロやユダヤ人マーケットでの無差別テロに対して、世界中から言論の自由を護ろうという大きな反響があり、オランド大統領の呼びかけで、ドイツ、イギリス、イスラエル、パレスチナなどなどの国々の首脳が集まり、自由を掲げてパリを行進したが、それにおよそ140万人もの一般大衆が参加し、空前の大デモンストレーションになった。

宿敵ネタニヤフ首相とアッバス議長がオランドやメルケル、キャメロンなどと共にデモの先頭を歩く姿は、大きな驚きを呼んだ。「なんだやればできるじゃない。それなのになぜいつも角突き合わせてるんだ」と思わせる情景であった。
 私もそう思った。そして同時に、あの「イスラム国」や「アルカイダ」と称する集団が、なぜあのような過激で残忍な行為に出るのか、 あれで世界中の人々の共感を得ることができるとでも考えているのだろうかと首を傾げたくなる。
 しかし、一歩引き下がってよく考えてみると、彼らは世界中に共感を求めているのではなく、むしろ世界中の大多数の人々を覆っている既成の価値観に刃を突きつけ、そこにある虚偽を曝こうとしているようにも見える。
 もちろん私はあのような残忍なテロ行為や言論の自由への抑圧に対して寛容であるべきだなどとは決して考えてはいない。しかし、多くの西欧圏の若者がなぜあのような集団に帰依したがり、そこから自分の命に代えてまで残忍で過激なテロ行為に走ることを決断したのか、このことを深く考えねば問題の深淵は見えてこないと思う。
 この問題はこの狭いページの中で語り尽くせるような問題ではないので、いまはそのほんの一部分についてしか語れないが、彼らが突きつけていることには、西欧社会の「自由と民主主義」は本当に自由で民主的なものなのか?という問いをも含んでいると考えるべきかもしれない。ほんの一握りの過激な思想にかぶれた者の仕業、として片付けられない大きな問題を含んでいないか?
 彼らの多くは、西欧社会の中で追い詰められ、生きる希望を失い、そしてそこから脱出しようとしたのではないのか?なぜ「自由と民主主義」の本家であるはずの西欧社会でそうなるのか? その意味では死を覚悟の上で残虐な殺戮に走ってしまった彼らにとっても悲劇的な状況といえるのではないだろうか。
  一方で働けど働けど生活はよくならず、希望は打ち砕かれ、生きる望みすら奪われている人々が急増しているのに、他方では、それらの人々が働いて生み出す価値をまんまと「自由に」搾取して、リッチな富裕層となり、さらに働く人々への搾取を拡大している人々がいる。このような西欧社会における「自由と民主主義」とはいったい何なのか、それを深く考え直すことなしに、「パリ・自由の大行進」に感動してばかりいてよいのだろうか?

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