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2015年1月 8日 (木)

モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!(その1 プロローグ)

最近、「モノづくりの創造性」という本を海文堂から出版したので、それに関連して、モノづくりという視点から現代社会の矛盾を採り上げてみようと思う。

 ここでいうカタカナ書きの「モノ」は人工物、つまり人間が何らかの意図によって自ら生み出したものを指す。そこにはいわゆるハードウエアもソフトウエアも含まれる。
 「モノづくりの創造性」にも書いたように、人類は、自らの手でモノをつくり出すようになって初めて類人猿からヒトつまりホモサピエンスになったと考えられる。その過程は数十万年という時間を要したと考えられ、それは百数十億年の自然史の中では一瞬のできごとであったかもしれないが、人類の歴史においては長い長い時間を要したともいえる。
  ヒトは何かの目的でモノをつくる。ただ何となく出来てしまったモノであっても、その「何となく」は何かがしたかったか、何かがほしかったからであろう。出来てしまった結果からその「何か」に込められた意図が何であったのかを自分であらためて知ることもあるかもしれない。しかし、これらはすべて大きな意味での「意図」にもとづく行為であるといえるだろう。
  こうした「意図」とは、一方で「自分」というものが自覚され、他方で自分の外側の世界を「対象あるいは他者」として認識するようになって初めて、両者の間で生じるある種の対立や緊張関係のもとで表れる内面的状態であるといえるだろう。この対立あるいは緊張関係を解消すべく行う行為は、人間の「実践」の土台であるが、実践はそれを成し遂げるためには、ある種の方略や方法が要求される。
 そしてその方略や方法が「手段」として認識されるようになり、実践の求める結果が人体の物理的・生理的制約を超えた状況を求めるようになると、そこに、ある対象を自分の身体的能力の延長として用いようとする意図が現れる。こうして人類は、手段あるいは道具を用いて目的を達成する、「目的・手段関係」という実践の基本的パタンを確立したと考えられる。
 しかし、たまたま近くにあった自然物を目的達成の手段にするということは、偶然に支配された状態であり、それをより確実にするためには、手段や道具を自分自身の手でつくり出すことが必要である。そこに人工物つまりモノが登場する。
 こうして、モノはヒトが自分とその外部世界との間に生じるある種の対立や緊張関係をひとつの「問題状況」として認識し、それを解決する手段として自らの手でモノをつくり出すようになったのである。だからモノにはそれをつくったヒトの意図が反映されている。そしてそれが本当に目的達成に役立ったかどうかという判断が成功あるいは失敗として認識されることになるのである。ここにモノづくりの原型があるといえるのだ。
  しかし、いまわれわれの住む現代の資本主義社会では、このモノづくり行為が分裂し、逆立ちしてしまっている。つまり、生活に必要なモノはすべて「生産者」と呼ばれる人々によってつくられ、生活者はそれを買うことによって取得し、消費できるようになる。
  「生活者」は、実は何らかのかたちで社会に必要な労働を行っている人々であり、その中には直接に生活物資を生産している労働者も数多くいる。ところが彼らは、生活の場面においては「消費者」と呼ばれているのである。
 そう、われわれの社会で日々生活に必要なモノを作っている人々は、実際には生産者なのに、「消費者」と呼ばれている。なぜなのか? それは生産に必要な手段つまり生産設備や原材料などを最初から占有している人たちがおり、その人たちが、生産に必要な労働者を「労働力」として雇用し、生活物資を作らせているからなのだ。しかも生産に必要な労働の過程はズタズタに分割され、モノの設計や企画を行う頭脳労働者がおり、その人たちが作った図面や企画書によってモノを実際につくる現場の労働者がおり、それを市場に運び分配する物流関係の労働者がおり、それを店に並べて売る人々がおり、...という具合である。
 また生産手段を占有する側の機能もいくつにも分かれ、設備導入を実行する人々、原材料の入荷を管理する人々、企業全体のお金やモノやヒトの管理をする人々...などなどであり、これらもある種の「頭脳労働者」として機能している。
そしてそれらすべての労働を支配する人々が企業の経営を考え、運営資金を集め、いかに利益を上げるかという立場から、そこで労働をしている人々に指示を与えている。このような人たちが「生産者」(正確には機能資本家)と呼ばれているのだ。
 なぜこんな風にしてモノが作られるようになったのか? それはひとことで言えば、すべてのモノが「売るため」につくられ、そしてそれによって利益をあげることが目的となり、モノに込められた「必要」や機能は、そのための手段と化してしまっているからなのである。本来のモノづくりにおける目的と手段が逆転しているのだ。
モノはいかに売れるようにつくるか、いかに市場での競争に勝つために安く作るか、こうした意図がすべてのモノづくりを支配しており、モノが生み出され販売されるまでのすべてのプロセスがその目的のために極度に「合理化」される。そして実際にモノづくりをしている人々も含めてわれわれ生活者は、「生産者」の利益獲得に必要な商品の購買者として、つまり「消費者」として(正確には購買は消費ではない)のみ存在意義があるかのようにされてしまっている。これがわれわれの住む資本主義経済社会でのモノづくりなのである。
(以下次回に続く)

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