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2015年2月16日 (月)

「資本」について考える(その1:労働力商品)

 ピケティーの「21世紀の資本」が話題となり、「格差社会」が話題となっているいま、もう一度、資本とは何かについて考えてみようと思う。前にも書いたようにピケティーはマルクスの資本論をきちんと読んで理解していないと思われる。だから彼の考える「資本」とは所得や財とほぼ同義語であろう。そして「格差」はその所得や財の量における差を示していると思われる。

 もちろん、かくいう私も資本論をきちんと理解しているとは言いがたいかもしれない。しかし、私の理解する限り、マルクスが指摘し、解明しようとした「資本」はピケティーのそれよりはるかに巨大な力と論理で人類を支配している実在である。その力は人間の実存そのものをも規定し支配するものであり、その論理は人類社会の在り方そのものをも支配する「法則」をもって日々実現されているのである。

 資本主義社会はマルクス当時のような階級社会でなくなり、その後、より民主的で自由な形に姿を変えたなどと思うのはあまりに浅薄であり、その資本主義的「自由と民主主義」において一部の資本家たちが我欲に走ったため格差社会が生じていると考えるのは見当違いであろう。

 マルクスは資本論の冒頭で「商品」の分析をしている。このことはかつて「端緒的商品」の問題として資本論研究者の間で論争になったことがある。それはここで述べられているような商品所有者の世界が歴史上現実にあったものか、そうでなくこれは論理の展開上設定されたものであるのかという論争だったといってもよいだろう。この背後には過程的弁証法と場所的弁証法の関係という論理上の問題があるのだが、これはマルクスが「経済学批判」の冒頭の部分で述べている分析の方法に拘わる問題である。マルクスは経済学の分析における下向的分析と上向的総合という二側面について述べており、これはいわゆる存在の弁証法に拘わる問題である。これについてここでは詳しく述べることはしないが、資本論全体を貫いているマルクスの分析における方法論的骨格を理解しようとすることは必要である。
 マルクスにおいて、資本論の冒頭で分析される商品は「労働力商品」化された労働者が自身の実存を自覚するために必要な端緒的契機なのだと思う。だからそこで展開される価値論は、実は歴史上、商品やその価値を表示する貨幣がどのようにして生まれたのかという問題ではなく、価値を生む源泉である労働力が商品として資本家により価値を算定され、それがその人間の社会的存在意義を示すものとなっている資本主義社会での原基形態(Elemental Form)としての商品が分析の対象とされているのだ。
だから資本論では歴史上どのようにして商品が成立し、資本が登場したのかという問題を背後に孕みながらも、その過程の結果である眼前の現実とそこにおける自分自身を支配している資本の論理を商品の分析から説き起こそうとしているのだ。存在の論理は生成の論理を包含するからである。
 資本論での商品分析の過程でリンネルと上着の交換などを例として展開される価値形態論は理解するのが簡単ではない。相手の所有するものが欲しく、自分の所有するものと交換してそれを得ようとする際に、相手の商品(例えば上着1着)が自分の所有するリンネル何ヤールに相等するかを考えることになるが、その場合、相手の所有する上着1着の価値は自分の所有するリンネルの一定量(例えば 20ヤール)と等価形態にあり、自分の所有するリンネルの価値はその上着1着に対する相対的価値形態となる、というくだりである。この等価形態と相対的価値形態の関係からあらゆる交換の場に適用できる等価物としての貨幣が生み出され、商品の交換が貨幣を媒介とした使用価値と交換価値の関係として成立して行くことになるとともに、貨幣が万能の力を持つものとして物神化されるのである。それがあらゆる過去の労働の抽象的な成果を表象しているにも拘わらず。
この商品の論理の原型が、実は、資本家から見た労働力商品としての価値と労働者の側から見た彼の労働が生み出す価値の関係を理解するための土台となるのである。労働によって生み出された価値をもつ商品同士が価値の等価物としての貨幣を媒介として交換され、「価値を産み出す商品」としての労働力が、労働賃金という価値の貨幣形態を媒介として、労働者自身それを維持するために彼らの生み出したはずのモノである生活資料商品と「等価交換」される。しかし実際には、労働者はそこで等価交換された価値よりも多くの価値を生み出す。資本家はその「等価交換された価値よりも多くの価値を生み出す」という事実を労働者の使用価値と見なすのである。そこで見事に「商品の等価交換」という資本家的イデオロギーによってその存在が覆い隠される剰余価値こそが資本の源泉なのである。労働者は自ら働いて生み出す価値によって自らの存在を資本家に隷属して生きねばならない「賃金奴隷」として再生産する立場に置かれ、資本家は、自らの手中にある生産手段を含む財に労働力を結合させ価値を生み出させることによって自らの財を増大させながらつねに社会的労働全体を支配し、その資本主義的に合理化され分業化された労働内容における目的意識そのものまでをも資本に従わせるのである。これが資本主義社会の「原理」なのである。だから資本主義社会の労働者階級は、社会的必要労働の一環としての労働を行いながら、それを資本としての価値増殖の一環として行うことになる。
 だから資本主義社会においては、当然、つねに資本蓄積の人格化である資本家階級が富裕化し、社会のために汗して働く労働者階級がその賃金奴隷として貧困化するのである。これはピケティーのいうように富裕者への高額課税によって格差が是正されるといったレベルの問題ではないのである。
(その2に続く)

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