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2015年2月24日 (火)

「資本」について考える(その4:「市民」革命の母国フランスとは?)

 資本の存在の論理とその実像について述べてきたが、ここで「21世紀の資本」の著者である経済学者、ピケティーの住む国であり、「自由と民主主義」を掲げたかってのフランス「市民(Bourgeoisie)」革命の母国であるフランスについて考えてみよう。

 フランスはカトリック教国である。そして17世紀〜18世紀の重商主義から始まる近代資本主義社会の母国でもある。途中、イギリスに産業資本主義時代の王座を譲ったが、20世紀の二つの世界大戦にも戦勝国となり、アルジェリア、西アフリカ、インドシナ半島、インド洋、太平洋、カリブ海などに、重商主義時代を中心とした近世の激烈な植民地争奪戦で獲得した多くの植民地を保持し続けた。第2次世界大戦後はインドシナやアルジェリアでの独立戦争に敗北し、アジアやアフリカの植民地の多くを手放したが、いまだに旧植民地からの移民労働者たちによってフランス社会の底辺は支えられている。
 そして先日のシャルリー・エブド事件である。ムスリムを揶揄したイラスト本を発行していた出版社がイスラム過激派のテロリストに攻撃された。フランス全体がこれに対して「表現の自由を護ろう」「私はシャルリー」というスローガンで団結し、EU首脳やパレスチナ首脳まで参加した大デモンストレーションが行われた。そしてその後も、引き続きムスリムへの揶揄が継続したため、フランス国内のイスラム教徒たちは激しく抵抗した。彼らは「表現の自由」の名のもとに自分たちの宗教的信念の支えを傷つけられたのである。
 フランスでは、カトリックにもとづく祝祭日が休日として定められたているが、フランス国民の多くの部分を占めるイスラム教徒の移民たちはそれに抵抗を感じており、その休日を変更できるような法案を提出しようとした。しかしそれも大きな抵抗を受けている。
 フランス社会はいわゆる「中間層」やブルジョア階級を中心とした「リベラル・グループ」が力を持っているが、かつての植民地から移住してきた大量の移民を中心としたフランスの底辺を支えている下層労働者階級は常日頃から暗黙の差別に置かれている。その状況に将来への夢も希望も失い、イスラムの世界へ回帰しようとする動きが起きており、一方でそれに反発する移民排斥を訴える極右グループの登場が目立っている。
 また、フランスは原発大国であり、ハイテク兵器や核技術の生産・輸出国でもある。ダッソー社が開発し売りに出しているハイテク戦闘機「ラファール」が先日エジプトへの大量輸出契約を得た。そしていまインドにもより大量な輸出契約を試みている。こうした「死の商人」としての高額な武器商品や原発技術の輸出には国のトップが先頭になって「トップセールス」を行っている。その国のトップであるオランド大統領はなんとフランス社会党出身である。しかもいまやまったく変わり果て無力化してしまった社会主義インタナショナルの副議長を務めたこともあるそうだ。
 これが「自由と民主主義」の祖国、ヨーロッパ資本主義の「良心」とも言われるフランスの実態である。ピケティーは、こうしたフランス社会の現実を税制改革による「革命」で乗り切ろうというのであろうか?マルクスなら決してそのようなことは言わなかっただろう。

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コメント

 野口さん、今晩は。
 資本論の読書会は、現在第24章第3節が終わったところです。(独語版) 丁度この前後はイギリス・フランスの中世の労働者の状況を、「いわゆる本源的蓄積」と云う形で資本の集積が進展する過程で書いています。特にフランスは、フランス王の封建領主・封臣らの群雄割拠から絶対王朝へと現国家体制が出来上がる時点から、ブルジョワ革命、そして反ジャコバン戦争・ナポレオン戦争へと進展する過程にあたります。いかにこの過程でプロレタリアートへの血の立法が出来上がったかを読ませてくれるところです。
 ピケティが取り上げるデータ以前の歴史的状況ですから、彼がここを論じることはできない相談ですが、資本論はじっくりとページを割いて読ませてくれます。中世の労働者の時代と近世の労働者の時代を、前者は黄金の時代、後者を鉄の時代と表しています。やはりこの本源的蓄積がはじまる時代を知ると知らないでは大きな認識差が生じるでしょう。

 さて、話は飛びますが、野口尚孝・井上勝雄 著 「モノづくりの創造性」海文堂を読みましたので、最も気に入ったところを、そのまま引用します。

第三部 創造的生活のために
8 生活者の創造性とは? (P174)
8-1 本来のモノづくりの創造性とは?
(1)「創造的」であることの意味

 何をもって「創造的」というかを考えたとき、まず最初にいえることは、自分がこれまで考えつかなかったり、できなかったりしたことが考えつき、できるようになったという意味で、自分にとっての創造性があったかどうかです。それが問題解決であっても、芸術的表現であっても、自分にとってはじめて成しえたことでことであれば、創造的行為であるといえるでしょう。これによって創造的行為を行った人は、その内面での精神的豊かさが一歩前進したといえるでしょう。
 そして次には、その自分にとっての創造的行為が、他者にとってもいままでになかったことをできるようにさせたり、これまでにないような感動を与えたりした場合には、それは社会的にも創造的行為であるといえるでしょう。創造的行為が他者にも影響を与え、社会的な意味を持つ場合には、創造的行為を行った人々の人格が一歩前進すると同時に、共同体(社会)自体が一歩前進するといえるでしょう。
 さらに、その創造的行為の結果が社会の中で持続し、それ以前とそれ以後の社会の状態に良い意味での不可逆的変化を及ぼした場合には、歴史的創造行為といえるでしょう。創造的行為を行った人々が前進し、社会が前進し、それが後戻りすることのない歴史的な進化を引き起こしたといえるでしょう。

(3) メンテナンスの重要性

 次に、本来のモノづくりにとって重要な問題として、メンテナンスの占める位置について考えてみましょう。すでに何度か述べたように、いま社会に出回っている生活資料製品は、ほとんどが長期使用を考慮されておらず、したがってメンテサービスも充実していません。故障しても修理を依頼しても、修理代がバカ高くなり(たとえばパソコンなどは、小さな素子が一つ故障してもマザーボード全体を取り替えることになる)、新製品に買い換えた方がよいとユーザに思わせるとともに、企業側のメンテサービスの費用を最小限に抑えて競争力を付けようとするからです。
 メンテナンスの技術は、ある意味で、ヒットしそうな新製品のデザインに必要な思考よりはるかに難しい高度な思考を要求します。それは、症状からその原因を推測する思考であり一般診療医のそれとほぼ同様な推理力です。その製品のメカニズムへの深い理解、様々な故障事例の知識、それらを組み合わせて故障の原因を推測する技術は高度な思考が必要であり、たとえ推論の方向が逆(デザイン思考は生み出されるべき対象がもたらす結果を想定します。)であっても、創造的思考での推論の能力を育てる土壌でもあるのです。
 もしこうしたメンテナンス技術が受け継がれ育っていかなければ、いくら目新しい新製品をデザインしても、使い捨てが前提であって、そこで生じたさまざまな問題を解決していくことによって成長する高度な製造技術の育成が難しくなるでしょう。(ここまでが引用分)

 資本が格差をも、修理を考えない製品をも作り出すのも、それが人間の皮膚をまとった資本の本性であることを見つけるという創造的発見は、これからも人々の歴史的創造的発見として、社会を大きく変える役割を発揮し続けることでしょう。我々の生活がここにかかっているからです。

 24章3節の後半部に、ブルジョワジーの私的立法のとんでも立法がこう示される。「契約に違反した雇用主にたいしては民事訴訟のみを許すが、契約に違反した労働者に対しては刑事訴訟を許す。」

 民事訴訟と刑事訴訟の違いを端的に問うならば、前者は原告・被告間の損害等について法律に基づいて裁判官が調停・裁定するもの、後者は被告の社会的犯罪に対して国家権力(検事と裁判官)が法に基づいて刑罰を決めるもの。後者の場合は特に国家権力の意向が極めて強く作用し、被告の人格を排除する。ブルジョワ議会が制定する法律とそれに従って運営される裁判となることは云うまでもない。フランスブルジョワ法が今日にいたるまで立派に通用している。と。

 ブルジョワ側が格差を是正するのはいいが、労働者側がこれを是正することは許されない。格差ブルジョワ式緩和策の提唱以外のなにものでもない。是正がなくても、その努力がすこしでもありそうであれば良い。と。


投稿: mizz | 2015年2月25日 (水) 16時40分

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