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2015年2月 1日 (日)

とうとう最悪の結果となってしまった

「イスラム国」に拉致されていた日本人人質二人が、安倍首相の中東訪問での対「イスラム国」戦争への間接的支援の意志表明を理由に、とうとう二人とも殺害されてしまった。残念ながら私の予想が的中してしまった形である。

「イスラム国」のこの残忍で冷酷な行いは決して許されるものではない。しかし、この残虐な行為に対してただ、感情を昂ぶらせ「目には目を」で「やつらをぶっ殺せ!」と叫んでみても始まらない。石原さんや田母神さんならきっとそういうだろうし、安倍さんも心の中ではそう思っているかも知れないが、物事はそんなに単純ではない。
 ここでこうした殺人行為の根っこにある問題を考えておく必要があるだろう。後藤さんをはじめ何人もの人質を残忍な方法で殺害している英国人と思われるロンドンなまりの英語を喋る「イスラム国民」は、イギリスで育ち、イギリスでの西欧的価値観・人間観そしておそらくキリスト教的倫理観を学んできたのだろう。しかし、何らかの理由でイギリスでの人生を捨て「イスラム国」に走った。その理由は分からないが、おそらくそこに自分の生きる場所が見いだせなかったからなのだろう。そしてイスラム教というまったく違った価値観と倫理観の世界に帰属することによって、そこに別の人生の可能性を見いだそうとしたのだろうと思う。
 彼は、それまでの自分を否定し、あらたな「教え」に従うことで自分を生まれ変わらせようとしたのだろう。だから、たとえ、抵抗があろうとも「イスラムの教え」に従って人質を「処刑」することで自分自身をも変えていこうとしたのではないか?これは「オウム真理教」などにおいても同様だったと思われる。結果的に彼らは彼らを含めて存在するいまの社会を少しも良くすることができなかったばかりか、「生きる」こと自体を否定することにもなってしまった。
 世の中には「一度人を殺してみたかった」と日頃から考えている人もいるようだが、大体においてそう簡単に人を殺せるものではない。それを「当然のこと」として行える様になるのは、戦場での殺し合いの場か、狂信的信仰という精神的自縛の中にある場合であろう。しかしそれが「慣れっこ」になってしまうと日常的感覚で殺人を行えるようになるらしい。ナチの収容所で日常的にユダヤ人捕虜を大量に殺害していた収容所所員やその上層部でそれを当然のこととして命令していた連中はそうだったのだろう。
 しかし、どの場合も自分の帰属する組織への帰属意識の確認と表明という状況があるように思う。「イスラム国」に忠誠を誓った者とそうでない者、オウムの信者とそうでない者、ナチス政権とドイツ国民に帰属する者とそうでない者、そしてこれはいわゆる「アイデンティティー」という形で組織あるいは国家と諸個人の関係やそこでの自分の存在意義を自己確認させるものと同じ基盤にあるのだ。
 アイデンティティーが悪であると言っているわけではない。ただしかし、そこに含まれている危険な要素を意識しないと、こうした殺人行為を当然のこととして行える人間になりかねないということは承知しておかねばなるまい。

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