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2015年2月26日 (木)

「資本」について考える(その5:グローバル資本の論理と実像)

Mizzさんからコメントを頂いた。資本論購読会で第1巻第7篇第24章の「本源的蓄積」を読んでおられるとのことである。資本論のこの章では、近代資本主義社会が生まれてきた歴史的経緯、つまりその「誕生の秘密」が曝かれている。これを読む人は必ずやその実証的分析の確かさ(mizzさんがおっしゃるとおりピケティーはここには触れていない)とともに、あまりに残酷非道なその過程の事実に衝撃を余儀なくされるだろう。私もそうだった。

 マルクスはこの章の終わり近くでこう述べている「資本主義的生産様式の「永遠の自然法則」を解き放ち、労働者と労働諸条件との分離過程を完成し、一方の極では社会の生産手段と生活手段を資本に転化し、反対の極では、民衆を賃金労働者に、自由な「労働貧民」に、この近代史の作品に、転化することは、かくも労多きことだった。もし貨幣が、オージェの言うように、「頬に自然の血痕をつけてこの世に生まれる」ものならば、資本は頭から爪先まで、毛穴という毛穴から、血と脂とを滴らしつつ生まれるのである。」(向坂訳岩波版「資本論」p.948より)

 そして「発生の論理は存在の論理」なのである。つまりその残酷非道な資本主義社会生成の論理はいま日々繰り返され新たに生み出される資本の論理そのものでもあるのだ。いかに「自由と民主主義」を掲げようとも、表面的な「豊かさと平和」によって、その生い立ちを隠そうとも、やっていることは相も変わらず残酷非道な労働の収奪なのである。
 戦後まもなくは日本やヨーロッパの国々のような戦争で破壊され尽くした地域での生産再開が、資本発展にあらたなリセットをかけ、非常に効率的なペースで資本を増殖することができた。しかしそれは一方で社会主義圏という非資本主義勢力の存在とその自国労働者への影響を資本家たちが配慮した形となり、労働者階級は賃金や社会保障などの面で一定の権利を獲得することができた。 それが「豊かな中間層」といわれる階層を生み出した。
 しかし、社会主義圏がその指導部の理論と実践に於ける誤りから崩壊してしまった後、21世紀の資本は、もはや何の危惧や配慮もする必要がなくなり、あからさまにグローバルに労働の収奪を再開したのである。
 資本はいまや地球全体を労働搾取の場と化し、その大地や自然までをも含めて支配し、「自由な市場競争」の名の下に、次々と「後発国」の民衆や農民を低賃金で過酷な労働に吸収し、同時に資源の浪費や自然の破壊を加速している。
 いま「先進国」の資本間での競争は、世界中で技術革新により「合理化」された生産現場に低賃金で過酷な労働を結合させることで生み出される莫大な過剰資本をいかに回転させ、そこからいかに多くの利潤を獲得し、それを私有化(個人だけではなく法人や企業という形での私有を指す)できるかという、止めることのできない危険なゲームに熱中しているのである。
  このゲームに勝ち抜くために、グローバル資本は価値の源泉である労働の搾取を効率よく実現し、熾烈な競争に勝ち抜くために、まず、消費駆動型経済体制のいわゆる「先進国」の人々の生活資料となる商品をいかに安くつくり大量に売りまくるかを競い合う。そこで労働力の安く手に入る国々を探す。そのターゲットとなった「後発国」の人々は、そうした「先進国」への生活用品を主とする輸出商品をうみだし利益を獲得しようとする資本家たちが導入した生産手段のもとで、生活を維持するために過酷で低賃金な労働に従わなければならなくなる。「後発国」の資本家たちはそれによって莫大な利益を得つつグローバル資本の再生産の一環を担うことになる。
「先進国」では、市場に現れる生活資料商品の多くが「後発国」からの輸入品となり、安い生活資料を買うことができるようになるとともに、それらの生活資料を生産する労働が国内から失われていくことにより、国内の分業(職業)構成が激変していく状態に晒される。長年習熟してきた仕事はなくなり、企業の倒産と失業が続く。そうした中で、人々の生活のあらゆる場面が「ビジネスチャンス」と捉えられるようになり、あらゆる「サービス」がビジネス化され、生活のすべてが「儲け」の対象となり、新種の資本家的企業が台頭する。失業者はそこに吸収され、慣れない労働の場で働かされることになる。そして直接生産に関係のない、つまり価値の生産に関係のない職業が「花形」とか「儲け頭」としてもてはやされるようになる。これを支配層の人々は「雇用の増加」「ゆめの実現」と宣伝する。
 しかし、その一方でこうした新興資本家間での競争が激化し、そこで働く労働者の立場はどんどん悪化する。こうした状況で生活資料の低廉化がもたらすものは、労働者の低賃金化あるいは低賃金固定化の根拠となり、非正規雇用労働者の激増による労働者間の連帯の切り離しと権利の抑圧が公然と進められ、労働者たちはその権利を主張する場を失うことになる。そしてこの機に乗じて儲けた「富裕層」や「中間層」と、こうした新興企業で働く孤立化した労働者たちの賃金の格差はどんどん大きくなっていく。
 いわゆる「先進国」欧米ではこうした国内労働者の賃金における格差が、旧植民地からの移民たちなどに代表される下層労働者と欧米人が主の富裕層・中間層との格差として現れている。しかも彼らはつねに社会から疎外された存在に追いやられている。グローバル資本の支配する世界で、「そうでない別の社会」を目指して「イスラム国」への西欧諸国からの若者の流入が止まらないのはそのためであろう。しかしそこではまるで中世の世界が再現されたかのような厳格な教義と恐怖のもとで残酷な破壊と殺戮が行われる。西欧圏から流入した若者たちは、残酷な処刑執行人とさせられ、その信仰心を試される。悲劇である。そしてこれもグローバル資本が生み出した一つの現実である。
 こうして、いまでも資本は世界中で「頭から爪先まで、毛穴という毛穴から、血と脂とを滴らし」ながら増殖し続け、それによって地球を破滅に追い込みながらそのゲームを止めることができなくなっているのである。
これを単なる「格差」問題で片付けられると考えるのはあまりに安易ではないのか?

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