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2015年4月13日 (月)

資本について考える(その10: 資本主義以後の社会について−4)

 先日友人から誘われて参加した、ある資本論講読会で、資本論冒頭の商品分析について、私は、これはマルクスが単なる歴史上の単純商品について分析しているのではなく、労働力商品を意図して書いている、と言ったところ、そうではなくこれは単なる歴史上の単純商品の展開を論じているのだと反論を受けた。そしてその人は私の考え方が宇野弘蔵から来ているのではないかと指摘した。私は「そうだ、宇野弘蔵のとらえ方は正しいと思う。資本論は労働力商品の自覚過程を表現していると思う」と言った。話はそこで終わってしまったが、私は宇野弘蔵への弁護論をどこかで述べておく必要があると感じた。それは、私が独学で宇野の「経済原論」や「価値論」から多くのものを学んでいるからだ。一部のマルクス研究者やマルクス主義者からは、宇野弘蔵の理論はマルクス経済学ではなく宇野経済学だ、と評されている。しかし私から見れば宇野はマルクスを自分として納得の行く形で理解しようとしているのであって、それがかえってマルクスの真意を汲むことであると考えていると思う。マルクスの理論をあったがままに理解することはもちろん最も重要なことである。しかしそれは決して一字一句マルクスの言葉を経文のように引き写して絶対化することではないし、それがマルクスを真に「理解」したことにはならない。そのことを身をもって示したのが宇野弘蔵であったと思う。

 宇野弘蔵は自分はマルクス「主義者」ではなく、科学としての資本論を捉えている、と述べている。このこと自体はいろいろな論議が必要であるが、宇野は「主義」という形のイデオロギーを前提としなくても真理が追究できるはずだという見地で「科学として」と言っているのだと思う。ここでいう「イデオロギー」とは何なのかが問題なのであり、大いに議論が必要なのであるが、ここではひとまずそれには触れないことにしておこう。
 ここで言いたいことは、マルクスによって明らかにされた「価値」という概念の基礎となっている実体である。マルクスは価値の実体は社会的に必要な労働であり、その値は、その抽象化された表現であって、その社会的必要労働に要する平均的労働時間の量を表すと言っている(スミスやリカードなどの古典派による労働価値説とマルクスのそれとは本質的に異なる) 。この一般的な意味での価値の内実をマルクスは商品の分析から明らかにしたのであるが(宇野はマルクスのここでの分析に無理があると指摘しているのだが)、そこでは商品というものが生まれてきた歴史的過程に含まれている「存在の論理」(つまり存在の論理としての生成の論理) を明らかにしようとしているのであって、単に商品の歴史を述べているわけではないと思う。
  資本論ではこうした価値がまず商品の交換の場で、相対的価値形態と等価形態という裏表の関係として表れ、それが一般的等価としての貨幣という形態を生みだすと同時に裏表が逆転して物神化され、資本に転化していく過程の論理が述べられているのである(と私は理解している)が、 労働者は資本論を読むことによって、自分の能力が「価値を生みだす能力」(つまり労働力)として、労働市場で商品価値(相対的価値形態)を付けられ、その「等価」としての賃金をうけとるのであるが、実はその「等価」としての賃金は自分が労働時間内に生み出す価値のうち自分自身の存在に(つまり労働力の再生産に)必要な生活資料の価値部分でしかないという矛盾的事実を自覚することになるのだと思う。そして自分たちが生み出した価値の大部分が資本として資本家の所有物となり、逆に自分たちをつねに支配する存在になっているという事実を理解することになるのだと思う。宇野の言葉を借りれば「本来商品とはなりえない労働力までもが商品となっている社会」が資本主義社会なのである。
 宇野は、「価値論」の中でこうした価値の歴史的展開を、論理必然性ともいうべき論理の展開で把握しようとしているのだと思う。それと同時に、価値というものを社会的必要労働の社会的分担という見地から、それぞれの分担労働で生み出された価値を交換し合うための指標という意味が本来そこに含まれていることを指摘している。このことはマルクスも資本主義以後の社会における「貨幣」に代わる「労働証紙」というものの可能性に言及している。ある人が社会的必要労働のどのくらいの割合を行ったかを労働時間によって示す証紙であって、これによってその値に相応しい労働の成果物を交換することでそれぞれが分担した労働の成果を対等に分け合うことができるのである。 価値の分析はこうして資本主義社会でのマヤカシの「等価交換」の矛盾を曝き、それによって次世代社会での社会的必要労働の正当な分担と分配方法が見えてくるのである。
 資本主義社会以後の社会を想定するためにはこうした研究の成果を不当に退けることなく、キチンと踏まえると同時に、刻々と形態変化を遂げる資本主義社会がどのような方法で資本の延命を図ろうとしているかを的確につかみ、そこに存在する資本のメカニズムを明らかにすることで、次世代社会実現へのプログラムを具体化させていくことが必要なのだと思う。

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