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2015年4月 5日 (日)

資本について考える(その8: 資本主義以後の社会について−2)

 前回に引き続き、資本主義以後の社会についてさらに考えてみよう。前回のブログで資本論第1巻第24章7節でのマルクスの記述を引用したが、その中で「労働者がプロレタリアになり、彼らの労働条件が資本に変容するとともに、そして資本制的な生産が自らの足で自立できるようになるとともに、労働のさらなる社会化が発生する。土地やその他の生産手段は、ますます社会的に活用される共同の生産手段に変わり、私的な所有者の収奪がさらに進んで、新しい形態をとるようになる。収奪されるのはもはや自営の労働者ではなく、多くの労働者を搾取する資本家の側なのである。」というくだりはいろいろな解釈ができる。ここで「労働の社会化」とは古いギルド制などでの個人的職人技術を基礎とした労働ではなく、分業化され、組織化され、そして労働そのものが誰でもが出来る形の作業に変わったことを意味しているのであるが、この資本制生産様式特有の労働形態がそのまま資本主義以後の社会に引き継がれるという意味ではない。資本制生産様式での労働は、それが賃金(生活費の前貸し)と引き換えに資本家経営者に売り渡される労働の形態であり、そこからは労働の目的は「資本の増殖」という形で労働者自身からは疎外されている。労働者自身は単に生活費を稼ぐためにやっている労働なのだ。だから社会にとってなくても良い様なモノが大量に生産され、無駄な消費の拡大が資源の無駄使いや環境汚染を起こしても、労働者自身には制御不能なのである。

資本主義以降の社会では、労働は社会化されるとはいえ、このような形ではなく、さまざまな分業種に分かれた労働者たちが互いに連携し、互いに自分たちの生産の目的が何であるかを把握し、共通の目的意識を了解し合って生産全体が進む。だから本来社会にとって必要のないモノなどつくることはなく、資源や環境は最大限に護らねばならないし、労働者階級全体がそれを目指して直接社会的生産を制御できる。そしてそうしたことにもっとも相応しい形の新たな労働形態が生み出されていくだろう。

次につづく、マルクスの「土地やその他の生産手段は、ますます社会的に活用される共同の生産手段に変わり、私的な所有者の収奪がさらに進んで、新しい形態をとるようになる」という部分の意味は、資本制生産様式での生産手段の社会化(個人地主が所有する土地が資本によって統合される)が進む一方で、それが資本家の私的所有いう形で集中し、世の中どこを見てもどこかの巨大不動産企業の所有地と化してしまうような状態を指している。土地はもっとも基本的な生産手段であり、特に農業ではそれが明確である。

  TPPなどで農業が世界商品市場に引き出され、資本主義化(安倍首相はこれを「攻めの農業」と言っている)が進む と、必然的に小規模農家は成り立たなくなって農地は大資本によって統合化され、そこに商品としての農作物を生産する巨大な「農業工場」が現れるだろう。そして土地を失った農民は農業プロレタリアートになり、成功した農民は農業資本家になっていくだろう。まさに「本源的蓄積過程」の再現である。

こうして土地は資本主義的に社会化されるのだが、資本主義以降の社会ではそうした土地がすべて社会的な共有地となり、社会全体で社会に必要な農作物を生産する体制ができていくだろう。それはかつてスターリン時代のソ連や毛沢東時代の中国にあったような強制的集団農場化での奴隷的ノルマ労働とはまったくことなる「社会的共有を基礎とした個人的な所有」という形での諸個人の生活ができていくようになるだろう。

 工業における生産手段についていえば、巨大な工場や大規模設備はまさに社会化された生産手段であり、これを資本の増殖を目的とした私有が支配することはまったくもって不自然な形なのである。こうした生産手段が社会的共有という形になって初めて、社会全体に計画的な生産ができるようになり、必要なモノが、必要な時に、必要な量、生産できる体制が可能になるのだ。

 そのような、社会的共有にもとづく私的所有が達成されることで諸個人の目的と社会全体の目的が部分と全体の関係として無理なく成立することになるのだと思う。私的所有や個人の自由が一切否定されたスターリン時代の「社会主義」や毛沢東主義や北朝鮮やポルポト体制などは、マルクスの目指した共産主義社会とはまったく相容れない形であったことは疑いもないことだ。

 いまや労働の社会化や生産手段の社会化は、国境を越えてグローバル化している。そしてそのグローバル化する労働者階級が互いに連帯し合い、横に繋がり、巨大な、そして歴史を動かす力になることをもっとも恐れるのがグローバル資本家である。

世界中の労働者が生み出した莫大な富を一手に支配し、世界を「我がもの」にしている彼らは、労働者が国境を越えて階級的連帯の動きをしないように、国内でしきりにナショナリズムや「アイデンティティー」を煽り、「国家の危機」とか「国益が失われる」とかほざいて、各国の労働者階級同士の対立を煽っているのである。

「国民」とか「国益」ということばに騙されてはならない。われわれの歴史は必ずや国境を越えた労働者の連帯を生み出すに違いないのだから。憲法改定問題や沖縄基地問題などもこうしたコンテクストで考えねばならないだろう。

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