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2015年5月10日 (日)

これから私たちはどう生きるべきなのだろうか?(その2:戦後30年頃までの自分史)

 私がまだ小学校に入ったばかりの頃、昭和21年頃のことだったと思うが、母親に連れられて都心の焼け残ったデパート見物に行ったとき、階段ですれ違ったアメリカ兵が立ち止まり、持っていたサンドイッチを私にくれたことがあった。食糧難で栄養状態も悪く、青白い虚弱な子供だった私に目がとまったらしい。私は当時街を歩いている大きくて顔立ちの違うアメリカ兵を怖いと思っていたが、そのときサンドイッチをくれアメリカ兵は顔つきも日本人と変わらず、しかも流ちょうな日本語を喋ったのである。多分日系2世の兵士だったのだろう。私はびっくりした。母は丁寧に礼を言っていたが内心複雑な思いであっただろう。戦争に負けたアメリカの兵隊から子供が食べ物をめぐんでもらったのだから。その兵士にしてみれば敵国として戦ったかっての故国の実情があまりに惨めだったことへの素直な同情心からであったと思う。私はそのサンドイッチをかじってみた。中にこれまで食べたことのないような肉(コーンビーフ)と野菜がたっぷり入っていて、これにまた驚いた。

 かくして、私の幼い心に、アメリカという国の豊かさへのイメージが植え付けられていった。やがて学校ではアメリカ民主主義の歴史と自由と民主主義にもとづく平和国家を目指す日本という未来像が教えられ、一方でアメリカの支援で日本の産業が復活を開始し、やがては日本もアメリカのような国を目指すことをごく自然に描くようになっていった。映画館ではアメリカ製の映画が大人気で、いつも満員だった。「ターザン」は欠かさず観に行った。ラジオからはジャズが流れ、とにかくアメリカ文化はあこがれの的だった。しかし一方で左翼政党や労働組合によるデモ、ストライキなどが新聞紙上を賑わすようになった。そして隣国朝鮮での戦争勃発、その中で否応なしに東西冷戦のキナ臭い臭いを嗅がされることになっていった。そうした中、アメリカとソ連の核兵器増強競争、核実験のニュースが次々と報道され、第五福竜丸事件が大々的に取り上げられた。そしてその頃になってようやく広島、長崎の原爆による惨禍が社会的に大きな問題として取り上げられるようになっていった。しかし、この朝鮮戦争の時期に日本の産業界は連合国からのいわゆる「特需景気」で後の高度成長の基礎を築いたのである。
 学校では戦争で親を亡くして食うや食わずの貧困から中卒や高卒で就職する子が多く、また地方からも集団就職という形で中卒や高卒の人々がどっと首都圏や関西、中京地区の工業地帯に労働力として注ぎ込まれた。こうした人々がやがてその労働力と人生のすべてを「高度経済成長」といわれる戦後日本資本主義体制復興のために捧げたのである。
 たがて1960年の安保闘争が始まった。これは東西冷戦下での軍事的緊張という情勢の中で、日本の戦後資本主義社会がアメリカ主導でようやく立ち直り、同時にそこには労働者階級の大きな反戦パワーが結成されきたことを意味した。学生運動ではスターリン的社会主義一辺倒だった既成左翼政党への批判から新しい左翼運動が始まり、こうした人々による反安保闘争は日本全体をその渦に巻き込んだ。
 当時私は大学受験に失敗し進む方向に悩んだ末、アメリカやヨーロッパから入ってくる家庭電化製品や自動車などにある種のあこがれをもっていた経験からそうした工業製品のデザインを手がける仕事に進もうと決心した。1960年には何とかデザイン学科がある首都圏のある総合大学に入学できたばかりで右も左も分からなかったが、大学では学生の大半がデモに行ってしまい、授業にならないので、名物教師の心理学科教授が学生を一堂に集めて「講話」をしたことを覚えている。残念ながらその内容は全然記憶に残っていない。そしていまの安倍首相の祖父である岸首相が退陣し、登場した池田首相がブチ上げたのが「所得倍増計画」である。そしてこの安保闘争で盛り上がった学生運動・労働運動はその後、この「所得倍増計画」の推進の中に体制内化されていくことになったのである。
 大学で経済学の教授が「いま日本の経済成長率は二桁になっている。これはすばらしいことだ!」と「感動的に」語ったのを覚えている。時代は折しも東京オリンピックの準備で大騒ぎであり、東京は喧噪と活気に満ち、日々変わりつつあった。労働運動は政治的色彩を薄め、もっぱら賃上げ闘争という形となり、「春闘」を通じて労働者の賃金は増加し、「所得倍増計画」はどうやら本物になるかもしれないと思わせる勢いだった。そして私は大学で工業デザインの専門教育を受け、何の抵抗もなく工業デザイナーとして一流企業への就職を目指したのである。
 ある電機メーカーに就職して仕事に就いたときは、すでにいわゆるオリンピック景気が下降線をたどり始めた時期であった。それもあって、仕事はあまり多くなく、入社1年ほどたっても私が手がけたのは新型のトースターのデザインと接地抵抗計という汎用計測器のデザインだけだった。あとは会議用プレゼンパネルの制作とか現行モデルのTVのダイヤル周りのマイナーチェンジとかだった。学生時代に読んだ、川添登の「デザインとは何か?」ではデザイナーはまるで文明の形成者であるかのように書かれていたが、現実はそれほど甘くはないことを知った。その上、トースターの試作モデルを作るために試作工場に図面を持って行くと、そこでは中卒の現場工員さんが私のヘタな図面を解読し実に見事に部品を作ってくれ、私は教えられることばかりであった。開発部の設計室でも図面の描き方やメカニズムの考え方など高卒の先輩に教わることばかりだった。いったい自分は大学で何をやってきたのだろうと自信を失いかけていた。そこに母校で大学院ができたという知らせをもらったので、さんざん悩んだあげく会社を辞め再び大学に戻ることにしてしまった。
 そして大学院に入った私は、デザイン方法論という分野で研究を進めることになった。しかし、そこで同じ指導教官K教授のゼミに参加したある友人と出会ったことがその後の私の人生を変えてしまったのである。
 その友人O君は学部で1年下のクラスだったが、安保闘争以後の学生運動低迷期に羽田闘争などに参加し、私のいた大学で、新左翼系の全学連支部委員長をやっていたようだが大学院に来たときは何か理由があって運動に挫折していた時期らしかった。K教授のゼミで一緒にまだ和訳が出ていないクリストファー・アレグザンダーのテキストを訳しながら読んだが、彼は英語力もあったし、論理的な思考力は抜群であった。彼は文学や映画などに通じており、左翼的芸術論の一家言でもあった。デザイン方法論研究を通じて彼との交流を深めていくにつれて彼の人間観の深さに打たれたのである。そこには人生を掛けてマルクスの思想を吸収し同時にそれと格闘している一人の人間の姿があった。その彼の生き様への敬意と共感から私のマルクスへの歩みが始まったのである。
 そして私が大学院修士課程を修了し、どうするか迷ったあげく、結局母校の助手のポジションを得ることになり、彼はある英語塾のアシスタントなどを行いながら生計を立てることになった。そして私は色彩研究室の助手としての一歩を踏み出した翌年、いわゆる70年安保闘争の火が拡がっていったのである。この闘争は60年の時のような「安保」問題だけではなく、公害問題、大学への批判、ベトナム反戦など既存権力への総合的な抵抗運動という形で発展していったのである。主な担い手はいわゆる新左翼系の学生であり、フランスの5月革命やアメリカの学生反戦運動などの影響も大きかった。
私の学科でも自衛官入学拒否というスローガンから始まり、デザイン教育の在り方への批判に運動が広まった。大学全体でも既存の大学管理体制への批判が運動の中心となり、あちこちで授業阻止のバリケード封鎖や、「大衆団交」が行われた。
 私のいた学科では私より5年くらい下の学生たちが主体となりストライキ実行委員会という組織をつくった。そして彼らと私はいろいろな面で意見が違うためほとんど連日徹夜に近い状態での討論が行われた。私が激しい討論にクタクタになっていたときO君が私に「基本的には学生の主張は正しいと思う。彼らは次の社会に敏感だ」と言った。私も次第に学生達の意見に賛同し、やがては教員のスタッフでありながら教員団と学生達の大衆団交では学生側に立ち彼らを擁護する発言を行った。
 たちまち教員会議で私は「けしからん存在」と見なされることになり、そこから私はやがて10年以上にわたって実務から遠ざけられ、窓際に追いやられることになるのである。それは私が大学教員として研究者としての社会的生命を失ったことを意味した。
 私はスト実の面々と「デザイン問題研究会」という自主ゼミを開設し、O君も交えて度々研究会を持った。しかし学生運動は東大安田講堂攻防戦の後、徐々に展望を見失い、セクト間の「内ゲバ」が激化する中、社会的に孤立化し、惨めな形で終息していった。
  そのような中で私とO君はマルクスの理論を習得すべく資本論の講読会を始めたのである。この時期大学で干されていた私はずっとマルクス関係の文献を読みあさり、自分なりにそれを吸収していった。この時期に得たマルクスの思想への理解は現在の私の思想の根幹を形づくるものであった。
 一方で将来を見失った私は、自分がいったいどう生きていったらよいのか絶えず考え続けた。それは「悩む」というようなレベルではなく、給料はもらえても一切仕事を与えられない苦しさから自分の存在意義がどこにあるのかを必死に探し求めるという状態であった。学科主任からは何度も退職勧告を受けていたので、こんな無意味な生活を捨てて、世の中の役に立てる清掃員とか工場労働者にでもなる方がはるかにマシだと真剣に思った。しかしその度に、自分なりのデザインの考え方や思想が形になってくるまではここで勉強し続けたいと言ってその勧告をはねつけた。
 この苦しい時期に私は母との2人暮らしに見切りを付け結婚という形で人生の転機を図ろうという気持ちもあり、ちょうどそこに知り合いから紹介された女性と会ってその人との結婚を決意したのである。その結果その後の人生はそれまでとはまったく異なる歩みを踏み出すことになった。これはある意味で「逃げ」と言われても仕方ないかもしれない。そしてまもなくあの恭友O君とは逢うことがなくなってしまったのである。それはちょうど世の中が社会変革への動きをやめ、バブルにいたる過剰と退廃の時代に流れ込んでいく時期にあたっていた。
1975年、この年は私の人生にとっても日本の社会ににとってもひとつの変曲点であったように思うのである。
  ここでなぜこのような恥さらしな自分史をながながと書いたかといえば、それは私自身の「自分史」がその時代の一つの典型的「個」の実像であったと言えるからである。そこには「私という個」の実存とそれを外側から規定している「国家という形の社会」との間の確執が内在しているからであり、それ全体がその歴史的時代の姿だからである。

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